リトルデビル イン ザ シャワー
今日は朝から風が強かった。
だから、いつもより気をつけていたはずなのに…。
「っ!!」
目からコンタクトがこぼれ落ちてしまった。しかも、今なお強風が吹きすさんでいる。坂東が「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたけど、多分ダメだと思う。とりあえず片目だけでキョロキョロ探したけど見つかりそうにない。しかも今は校庭でサッカー中。もう、踏まれてしまったかも知れない…。はぁ。
右目を押さえてジュゴンの方へ歩いた。
「先生…コンタクトが飛んでいってしまったんですけど」
「視力はかなり悪いんだったか?」
「はい、裸眼だとこの距離でも先生を判別出来かねます」
言うと、もう時間も時間だから先に教室に戻っていいとお許しを頂いた。同じチームの坂東に声をかけて目を押さえたまま教室に戻った。とりあえず着替える。今日の授業は英語で終わりだから大丈夫だと計算しつつ、考えた。あと1時間、片方のコンタクトだけで過ごすか、否か。取ると本当に見えない。でも取らないと疲れる。
-----ま、あと英語と帰るだけだし、このままでいっか。
「おー大丈夫か、ど近眼」
末長が笑いながら教室に入ってきた。笑って彼が着替えるのをポーッと見ていると「見えるか?」と人差し指を出された。
「見えるよ、片方入れたままなんだ」
「入ってない方だけでしてみろよ」
左目を手で覆うと末長が動いたのが分かった。
「何本?」
「…わかんない」
「この距離だぞ?」
「だって、この距離でも末長だって判別出来そうにないんだよ、指なんか数えられるわけないよ」
ため息をつきながら手を退けると人差し指だけを出した末長が見えた。
「距離感は大丈夫ですか?」
「それが、階段は見えているのに距離が掴めなくって…ない場所を階段だと思って脚を出したら転けそうになったから、ダメだと思う」
笑う末長を一喝する。笑い事じゃない。
帰りは下り階段だからきっと大変だ。手すり持ってゆっくり下りなきゃ。
とりあえず教科書を出してノートを開いていると女子が入ってきて、その後すぐに先生も入ってきた。委員長のかけ声で立って礼をする。
配られたプリントを皆で説明を受けながら答えていく。
-----ん? この順番…当るなぁ。
授業が終わる10分前くらいにきっと自分は当るだろうと計算していると、予想通り隣の詩織が当てられた。
「じゃあ虹村さん、問8を黒板に。で、山田くんも前で、次の問9を全部英訳、それから黒木くんは問10を日本語訳に…」
ゆっくり立ち上がった。
詩織が黒板に歩いて行くのを見ながら前に進む。詩織の歩幅で今、黒板の上に上がったんだから…僕だとここだ!! 誰にも分からない苦労を一人で達成して小さくガッツポーズを取った。が、そっちに気を取られ過ぎて前の黒板の存在まで頭が回っていなかった。
ゴン。
オデコがぶつかった。小さく下がりながら額を擦る。
一瞬驚いたような顔をした詩織が笑いながら白いチョークを差し出してきた。
「はい、チョーク」
「ありがと」
受け取ろうと指を出すと擦った。仕方なく手のひらを上にして落としてもらう。
ジッと黒板を見つめて左手をゆっくり突き出した。
-----あ、ここか。全く、コンタクトだとこういうこともあるワケね。
人間の目の機能を讃えながらチョークを動かしていく。書き終わってそのまま這わせるようにチョークを置いた。黒板からの帰りは特に何の問題もなく席に着く事が出来た、けど…。
-----下校、面倒くさそう。
ため息をついて授業を聞き入った。
「末長、一緒に帰ろうよ」
「悪い…今日は…」
濁す彼から察知して口をすぼめた。本当は僕の方向指示器になって欲しかったのだけど、でも先約があるのならば仕方ない。
わかったと合図をして右目を押さえて立ち上がった。
「目、どうしたの?」
「それが体育の時間に片方だけコンタクト飛ばされちゃって。見えてるんだけど距離感がね」
「だから黒板にぶつかったりしてたのね」
笑いながら詩織が手を全体的に握ってきた。
「え?」
「だって転けるでしょ?」
「そ、そうだけど…」
狼狽えた。今まで手を握られると言えばほとんどが小指や指先、はたまた手首。こういう風に握られるって言うのは詩織がイタズラを思いついた時だとか何かしらある時で…人目につくような放課後なんかでしたことなんてない。
「こっちのほうがいいの?」
笑いながら恋人繋をしてきた。真っ赤になって手を放す。
コロコロと笑って彼女は「じゃあさっきので」と僕の手を握ってきた。心臓がドキドキしてきてしまっている。そんなんじゃないのに…。
顔が赤いまんま、詩織に引っ張られる。
「あの、見えてるからさ。階段の1歩前とかに言ってくれればいいから。それさえ間違えなきゃいつもの感覚で下りれるし」
「わかったわ」
-----分かってなぃ…。
僕の言いたい事はこんな風に手を繋いでいなくたって大丈夫って言いたいんだ。ああ、ほら、目線が突き刺さる気がするのが当社比2.5倍だから…。
でも手を離す事なんて出来ない、というかしたくないと言うのが本音かも。やっぱり僕は刺激に餓えてしまっているのだろうか?
指示を受けて階段をクリアしていく。
靴を履き終えて立ち上がるとまた手が包まれた。顔が赤くなる。
けど、もう何も言えない。だって僕自身手を繋いでくれるのを待っていたのだから。馬鹿だって言われたっていい。天罰だって受け入れようじゃないか。僕だって男だ、いい思いくらいしたいって思ってるよ。え? ささやか過ぎ? いいの、一昨日パンツ見ちゃったし、胸も当たったから満足なの。もしこれ以上望んだら、それこそ天罰が酷そうじゃない? 受け止めきれないよ、まだ禿げたくもないし死にたくもないもの。
「風強いわね。もう片方は絶対になくさないでよ?」
「そういうこと言わないでよ。言うと本当になっちゃうんだから」
目を細めて絶対に飛んでいかないようにコンタクトを目蓋に挟む。空を見上げると凄い勢いでダークグレーの雲が動いていた。
「雨降りそう」
「そうね、急ぎましょうか」
会話をして校門を出た所だろうか、予想より早く雨が降ってきた。しかも、バケツをひっくり返したような滝のような勢いで。
これで目が乾燥してコンタクトが飛んでいくという心配はなくなった訳だけど、今度はビショ濡れだ。2人で近くのお店の軒先にお邪魔する。
「どうする?」
「止みそうにないものね」
「うん」
今日の天気予報は一日晴れだったから、僕らのように雨に降られて慌てている人達が通り過ぎていったり、一緒の軒先に入ってきたりしている。濡れた手のまま、詩織がキュッと力強く握ってきた。
「このままじゃ深夜になったって帰れないわ。どうせ濡れてるんだから、帰りましょ? 送るわよ」
「え?」
「だって今日はユーヤ一人で帰るの大変でしょ? いいじゃない、たまには私が送ったって。ナイトだもの。ついでに言わせてもらえれば、傘を貸してくれると助かるかしら」
ポタリと詩織の髪から雫が落ちた。
にっこり笑って僕も強く握り返した。
「服も貸すよ、着替えてから帰った方がいい。風邪引くよ?」
示し合わせたように同じタイミングで2人で雨の中に飛び出した。
大粒の雨が額や頬に当って弾けてる。アスファルトの濡れた匂いと雨の匂い。バシャバシャと音を立てて走れば、泥水もズボンに跳ね上がってきた。上着も体にくっ付いているし、ズボンだって水を吸収して重い。靴も地面に脚をつける度、変な音を立てた。
少し前を走る詩織を見れば僕と同じように濡れている。赤い襟もスカートも雨を吸ってワインレッドだし、いつもは風が吹けばサラサラ靡く黒髪だって重そうに体に揺られている。泥が跳ねてハイソックスを汚した。
でも走り出したらお互い止まれなくって、ノンストップで結構な距離を走ってしまった。息があがる。
「はっ、僕…持久走苦手なんだけどっ!!」
「もうちょっとよ」
普通、男女逆な台詞を吐き出したら、濡れた笑顔。走っているせいじゃなくって心臓が今以上に早くなった。だから逆に僕の体が悲鳴を上げる。
「無理ー」
駄々をこねる子どものように叫んで足を止めた。僕の体重にひっぱられて詩織の腕が伸びきった後、彼女の脚も止まった。振り返った瞬間、長い髪の雫が僕に飛んできた。困ったような顔をする親友。早くって顔してる、けどさ。
「もう、こんなに濡れてるんだから開き直って歩いて帰ろうよ。段差も怖いしさ」
「持久力のない言い訳かしら?」
「そうとも言う」
濡れた髪をかきあげると詩織が爆笑し始めた。
「オールバック似合わなーい」
「じゃあ七三は?」
「サラリーマン!!」
「数年後、こうなるかも」
「あら、医者でしょ?」
「医者だって雇われてればサラリーだよ」
頭を振って雫を飛ばす。
そしていつものペースで歩き出す。ボケた右目に雨が入ってさらにボケた。ウィンクして雨の涙を流してもクリアな視界は戻ってこない。
と、詩織が急にジャンプした。水たまりでわざと跳んだのだ。あがる飛沫の半分以上は僕にかかる。もうどうせならトコトンということなのだろう。だったら僕だって負けない。
車が来た瞬間を狙って腕を引き寄せた。が、ちょっと失敗した。距離感が掴めなかったから、詩織だけに水を被ってもらうつもりだったのに通り過ぎる音と共に僕にも水が跳ねてきたのだ。
「あーあ、失敗」
イタズラな笑みを零すと詩織が声を上げて笑った。そんなことを繰り返して家に着く頃には濡れてない所がないほどだった。とりあえず濡れたのを気にせず洗面台の前に立ってコンタクトを外して眼鏡を掛けた。
「お風呂、入った方がいいんじゃない?」
「いいかしら?」
「風邪引かれるよりはね。もうシャンプーとか自由に使っちゃてもいいから」
肩をすくめながら靴下だけ洗濯機の中に先に突っ込んだ。彼女をそのままお風呂へ促して、その後僕もお風呂に入った。
自分で汚した床を拭きながら眉をしかめた。詩織の靴が目に入ってきたのだ。
「帰り、靴どうするの?」
「あ」
「スリッパで帰る?」
「そうね…雨が弱くなったらそうするわ」
でもテレビを見たり、夕ご飯を食べたり、宿題をこなして時間をつぶすけど、雨が止むどころか勢いを増している。さて、どうしたものか。考えあぐねていると、詩織が身震いした。ついでにクシャミを一つ。
顔を覗き込めば少し赤い気がする。
-----嘘だろ?
すぐさま立ち上がって机の引き出しを開けた。
「消毒はしてあるから、脇に挟んで」
体温計を渡せば顔をしかめて受け取った。そして数分後、2人で項垂れた。37.8度。微熱…に入るのかな?
「ごめん、歩いて帰ったからかな?」
「関係ないと思うわ…多分。でも、完璧にひいちゃったみたい…」
「うん。えっと、どうしようか?」
まさか雨の中帰す訳にもいかない。だけど、一応、選択肢を詩織に投げた。僕からそんな言葉、言えないもの。
「今夜の所は、お邪魔してもいいかしら?」
「うん…」
ねぇこれって、手を繋いだ天罰? それとも…なんて、天罰なんでしょ? 分かってる。しっかり誠意を込めて看病させて頂きます。