弟と呼ばないで
帰りの挨拶が終わり、さて帰ろうと荷物を持つやいなや、詩織が腕を掴んできた。キレたのかと思い顔を見たけど、全くそんな素振りを見せない。どうしたんだろう?
「今日は、一緒に帰ろう」
有無を言わせぬ勢いで詰め寄ってきた。
「い、いいけど。急にどうしたの」
「友達と一緒に学校帰るの夢だったのに、昨日急に走り出しちゃうから。やっと夢が叶うと思ったのに」
大きな目を少しだけ潤ませて見つめられれば、男なんて弱いもんだ。それが美人なら尚更。思わず一人にして悪かったなぁ、なんてこっちが悪い気分になってしまう。待て待て、待つんだ僕。末長だっていたんじゃないのか?
「末長とは帰らなかったの?」
「…だって、昨日ユーヤを追いかけてたら気がついたら一人になってたのよ? 一緒に帰ろうにも家の方が近かったし」
詩織は鞄を肩にかけ直しながら、立ち上がる僕の目を離さず見上げた。気がついたら僕の口からは「ごめん」という言葉が飛び出していた。極めつけに、
「今日は絶対一緒に帰るから」
前言撤回。男は潤ませた瞳に弱いんじゃなくて、言いなりだ。
ご機嫌に今日も小指を握ってくる詩織を振りほどける訳もなく、末長に一緒に帰ろうと声をかけた。
「非常に、非常に残念なんだけど。今日は無理」
「用事でもあるの?」
「…今日の…さ」
言いにくそうにチラリと目配せをしてくる。
ああ、水泳の時間の…。机の上に何重にも積み重なった資料と原稿用紙を見て、思わず頷き詩織にバレないようアイコンタクトをとった。末長は水泳時間の行動のせいで、ジュゴンからたっぷりと反省文とレポート提出をするように言い渡されたらしい。げんこつを貰って尚、この仕打ちとは…皆がジュゴンを恐れる訳がわかった。
「じゃあ先に帰ってるよ?」
「おう、また明日な」
末長に手を振り、同じように坂東にも挨拶をして学校を出た。
彼女の家は町中にあるというので、先日も行ったショッピング街を通ることにする。詩織は先日と同じように、自由にお店のマネキンに目を奪われてみたりショーウィンドウの中を覗き込んだりしていた。
しばらくそんな彼女を見ていたが、何やら気に入ったものが見つかったらしい。少し遠くにあるベンチを指差しながら、そこで待つように言われた。もちろん僕は逆らったりせず、言いつけ通りにベンチで待機することに決めた。
3方向からなるショッピング街の終点であり、憩いの場となっているこの場所は、駅の目の前でもある。その場所はロータリーというわけでなく、歩行者のみが歩くことを許される丸い空間の真ん中はパラボナアンテナのように少し凹んでいて、駅の大きな時計と連動し1時間ごとに大きな噴水となる。大きなといっても規模が大きい訳ではなく、中心の吹き出し口から一番高い水柱が上がり、周りを小さな水がイルカが跳ねるように曲線を描いてランダムな円を作るのだ。夏になれば子ども達が水遊びをする程度のものだ。その噴水を囲むようにベンチが噴水向きとショッピング街向きに背中合わせに、計12脚あった。
中でも比較的、ゴミ箱から遠く詩織が入っていったお店からは少し死角に入るベンチを選んで座った。
両手をベンチの背もたれに乗せ、足を組んでダラリと空を見上げた。
ぽっかりと佇む白い雲に、キャッキャとはしゃぐ子どもの声。だんだんと眠気が襲ってくる。
---------昨日…あんまり眠れなかったもんなぁ。
いつのまにか現実と夢の世界を行ったり来たりする一番気持ちのいいまどろみを感じ始めた。眠れそう。
が、僕は不幸の星の下に生まれたのか、平和を台無しにする声が聞こえてきた。
「いたいた、たぶんアイツだよ」
「お前やるなー」
ヒヒヒと、いかにも悪そうな笑い声。
眠ったフリ、眠った振り。
目を固く閉じて、自分じゃないことを暮れ行く太陽に願った。が、やっぱり僕は不幸の星の下に生まれているようで、思いっきり凄まれた。
「寝てんじゃねーよ、起きろ」
如何にも今起きましたと言わんばかりに、目を擦りながら前を向いた。
直感で分かった、A組の奴だと。白いシャツに真っ黒なズボン、胸ポケットには大正学園のエンブレムが入った刺繍が付いている。色は…ブルーか。大正学園は3年は緑、2年は赤、1年は青という風に学年ごとに色分けされている。つまり、目の前に立っている男子2人は1年生ということになる。
僕は年下にも絡まれてしまうくらい、優男に見えてしまうのだろうか?
「やっぱそーだ。コイツだよコイツ。この前の朝にヘラヘラしながらパシリ受けてくれた従順くんは」
「ヒヒヒ、年上さえ使うなんて石ちゃんさすがー」
---------朝、パシリ?
「さっそくだけどさ、お金貸してくんね? 手持ちなくってさ」
「返さねーけどな」
馬鹿笑いする2人を他所に、朝とパシリというキーワードと一緒に顔検索をかけた。思い出した、逃げコマンドを使った人だ。
僕が黙っていたのが気に食わなかったらしい。しかめっ面をして、思いっきり顔を近づけてきた。
「あ? さっさと貸せよ」
「無視かよパシリくん」
僕もたった数日で肝が据わったようだ。そりゃ、すぐキレるうえ暴れたしたら手の付けられない詩織に、巨体で力自慢の五十嵐番長と比べれば、コイツらなんて小物も小物。なんだか可愛く見えてしまった。まぁ見えるってだけで、僕が強くなった訳でも2人を倒した訳でもないので、この状況を解決できる術はないのだけれど。
時計の鐘が鳴り、ブシューと水が跳ね上がる音がした。霧のように細かくなった水が、僕に、彼らに降り掛かる。
一瞬、この鐘の音と共に詩織が現れて今の状況を打開してくれるんじゃないかと期待したが、ドラマのようにうまくいくハズなんて微塵もなく、僕は観念するしかなかった。
「ごめん、財布後ろポケットだから」
立ち上がろうと前のめりになった。
「すみませーん!!」
バシュっという小気味いい音がして、地面に野球ボールが転がった。と思ったら、目から火が出た。いや、正確には火なんて出ていないが、立ち上がった瞬間にガツンという音がして、目の前に立っていた一人が顎を押さえて踞っていた。…まさか。
「テメー石ちゃんに何すんだ」
「ふ、不可抗力だよ」
両手を出してブンブンと横に振った。しかし意図的にやったと誤解した彼は聞く耳持たず。いきなり殴り掛かってくる。
「わっ」
頭を抑えてなんとか拳から逃げ仰せる。
---------逃げるしかない!!
ベンチを乗り越え、水が作り出す芸術的な曲線を飛び越えた。すでに噴水のピークは終わっているようで、中心の水柱は低くなり飛び越えられるまでになっていた。
「逃げんなテメー」
僕が一番最初に超えた曲線の噴水はすでにおさまっていて、一直線に彼は走ってくる。
振り返ってる場合じゃないよ。
自分に突っ込みを入れて、もう一つ、二つ目の小さな噴出口を飛び越えた。そのまま走り去りたかったが、如何せん進行方向にはグローブを持った少年が立っている。噴水のように飛び越えるには高過ぎ、避けるには遅過ぎた。半分飛び込む形でブレーキをかけ、少年の肩を持って2、3歩小刻みに脚を動かした。
--------せめてこの子は、巻き添えに出来ない。
踵を翻し、少年を自分の後ろへ下げさせた。目標物に向かって突進してくる1年生。うわ、目がマジだよ。
もう一度彼が何かを叫んだ時だった。またしてもスローモーションの世界が僕を支配した。
タイルの小さな隙間に1年生のスニーカーの側面が引っかかり、足首から下が横を向いて脚のバランスを崩した。彼はそれこそバトリックスのように両手を交互に動かしながら、水を含んだ音を立て地面にお尻をついた。「あ!」声を出す前に小さな噴出口からイルカの横跳びのように、スクリューを巻いて水が飛び出し、狙ったかの如くビビビと音を立てて彼の股間に直撃した。
「……」
僕も、彼も、世界はそこが中心、と言わんばかりに股間を凝視した。
噴水からは水が出ることなく、中心にある排水溝へ向けてただ流れていくだけで、静寂を保っている。他にも水がかかればなんてことないんだろうけど、一定の部分だけ濡れたズボンはまるで…
「お兄ちゃん、オネショみたーい」
そうオネショとしか言いようがない。堪えていたのに、少年の一言で吹き出してしまう。子どもは残酷だ。
「ぶ、はは。あははは」
「くくく、くぅ〜〜〜、わ、笑っちゃ悪いよ」
いつの間にか隣で爆笑していた詩織に注意をするが、全然説得力がない。お腹を抱えて、ついには咽せてしまった彼女の背中を口の端を上げながら擦ってやる。
--------僕より不幸かも、あの人。ぷぷ。
「テメーよくも」
ビショ濡れの股間をしながら凄まれたって、少しも怖くないよ。子どもにも笑われる姿は、本当に不幸だ。
顔を真っ赤にしながら、水っぽい音を立ててこちらに歩み寄ってくる彼。も、もう笑わないから。くく、これ以上は勘弁してよ。
「ま、まて橋本!!」
「んだよ?」
腕を振り上げている橋本なる不幸な人物を、石ちゃんなる人物が制した。
「あの女、虹村詩織じゃないのか?」
「…そんなわけ」
「うちの制服、レッドのエンブレム、黒くてすげー長い髪に右眼の下に泣きぼくろ! 絶対間違いじゃねーって!!」
「伝説の男の…、じゃああの柔そうな奴が弟かよ!?」
「うぅぅ」
急にへっぴり腰になって隙だらけの構えをする橋本くん。いや、弟でもなんでもないけどね?
「うわーーー、すみませんでしたーーーー!!」
「っした!!!」
「馬鹿やろーちゃんと謝れ、お二人に失礼だろうが」
「す、すみませんでした!!」
「伝説の男の弟とは知らずに、使いっ走りにしてしまって…本当になんて詫びを入れていいのか」
「俺なんて、殴り掛かろうとしてしまって」
どうか命だけは…と、悪代官を前にした農民のように膝をついて両手を擦り合せている。
「や、だからね」
「よかったわね。ユーヤが心の広い持ち主で。許してやらないこともないって言ってるわよ」
またもや偉そうに、片手を腰に当てふんぞり返って鼻を鳴らし詩織は笑った。彼女を止められるはずもなく、言いかけた言葉を飲み込んだ。こんなに綺麗な笑顔なのに、怖いと思うのは僕だけだろうか。
「貴方達、32アイスクリーム買ってきて!! 少年の分もよ。30秒以内!!」
ビシっとアイス専門店を指差してのたまった。
当然と言うべきなのだろうか? 詩織は買ってきてくれた分の代金を払おうとしない。替わりに僕が払おうとしたら、ものすごく怒られた。
そしてまた一つ伝説が出来てしまった。死角から入る後ろ頭突きとオリンピック選手もビックリなハードル超え&振り向き様の一本背負い(股間に水がかかったまでは言えなかった結果こうなったらしい、何もしてないのに)を容赦なく繰り出す男だと。