儚き願いの調べ #5
見慣れた、でも懐かしい校舎を見上げた。
1年間通ったからどこから入れば先生に見つからないかとか、どう歩けば視聴覚室に辿り着けるかなんて考えなくても分かった。
授業が行われているであろう校舎内は静まり返っていて、タスタスという靴下の擦れる音しか聞こえない。冷たい床に何度も着いたせいで、僕の足先が冷たくなってきた。
ゆっくり見上げれば、視聴覚室の文字。
大きく息を吸った。
そしてノックを2回。返事を聞く前にドアを勢いよく開けた。
僕を嘲笑するように紙屋がソファーにもたれ掛かって机の上で足を組んでいる。1歩脚を踏み入れて、ドアを閉めた。防音が行き届いたこの部屋なら、大きな声を出しても職員にバレることは無いだろう。
「紙屋…」
「1時間半、丁度。相変わらず時間には正確だな」
組まれた脚が下ろされ、目が合った。
「なんだよ、その顔。一嘩に逢えて嬉しかっただろ? どうだった? 束の間の恋人気分は…」
「何、何考えてるんだよ。僕を精神的に追いつめたいからって、一嘩を…一嘩に似た子を使うなんて、はっきり言って…」
「最低か? じゃあお前はどうだ!?」
声を荒げて紙屋が立ち上がった。
眉間にシワが寄って、唇を噛み締めている。僕も口を噛んだ。
「でも。それでも最低だよ。一嘩を侮辱してる…なんでそんなこと出来るか僕には理解出来ないよ。だって…」
息を飲んで綺麗な茶眼だけを瞳に取り込んだ。
「一嘩は、君のカノジョじゃないか」
コツコツと秒針が動くだけの音がして、時を刻んでいる。
そう、一嘩は紙屋のカノジョ。大好きだった一嘩は僕じゃなくって、紙屋を選んだ。わかってた。だって、2人がうまくいくように僕が影で努力したのだから、一嘩に頼まれて…。そして付き合い始めたのだって僕らはお互い知ってる。紙屋、君が僕に打ち明けてくれたんだ。付き合い始めた次の日に「一嘩と付き合うから」って、だから僕は間髪入れず言ったよね「君になら」と、祝福したよね。覚えてる? 僕は覚えてる。寒くなり始めた、秋の空が高くて雲一つない綺麗な日だった。
「うるせーよ!!」
「五月蝿くなんてない!!」
「うるせーよ!!」
「一嘩を汚すなようなことするなよ!!」
僕は叫んだ。
「ふざけんなよ? お前が壊したんじゃないか!」
目の前まで一気に詰め寄られて、胸ぐらを掴まれた。
あの日、初めて紙屋に殴られた日のことが頭をよぎった。あの日もこんな感じで、教室に2人で向かい合ってて、そして胸ぐらを掴まれた。でもあの時は何も紙屋は口にすることなく僕を殴った。だから、僕は何も出来ずにただただ殴られてた。怖かった。親友に殴られることも、親友を殴り返すことも。一方的にされるがままだったら、紙屋の怒りは溶けてなくなるんだろうと勘違いをしてた。だから、望んで殴られた。
そしてその日から、僕へのイジメが始まった。
でも、僕は今日終わりを迎える為にきた。
両手で紙屋の胸蔵を掴み返した。
「なんで一嘩を最後まで信用しないんだよ、彼氏だろ!?」
「意味分からねーコト言ってんじゃねーよ!!」
「そうだよ、君は一嘩を信じてやらなかったんじゃないか!? だから僕を、僕を殴ったんじゃないか。 “タッパがあるから”“顔がムカつくから”なんて、あるようでないような理由をつけて、あの日から殴り始めたんじゃないか」
「マジ、意味…」
「君は僕に嫉妬してるんだ!!」
「んなわけねーだろ、負け犬がぁ」
片方の手が襟から離れて、拳が僕の頬にぶつかった。よろめく。けど、両手でしっかり紙屋の胸ぐらを掴んであるから、倒れることはない。
僕も右手を離す。グーを作って、人生初めて人を殴った。右手に痛みと痺れるような感覚が襲ってきた。
「嫉妬してるんじゃないか!? ようやく分かったよ、あゆむのおかげで。僕を苛め始めた理由は、一嘩だったってコトに!!」
「違う!! お前がムカつくからだよ!!」
「違うもんか!! 苛め始める前の日、見たんだろ。僕と一嘩が2人で買い物してるとこ。僕は見たんだよ、改札口で君の後ろ姿を!!」
「っちが」
「嫉妬したんだろ!? 僕が一緒に歩いてたから、僕がいつも一嘩の悩みを聞いてたから、一嘩が僕の心配をしてたから!!」
もう一度、紙屋の頬を拳で殴った。
殴られた。
「っ…そうだ! お前がいつも、いつも、一嘩を…。お前さえいなくなれば、一嘩は俺だけを見てたんだ、違うか!?」
「ぐぅ…はっ。違うね!!」
今度はミゾオチに重い一発がきた。顔をしかめながら声を荒げた。
「いつも、いつも一嘩は君のことを考えてたよ。一嘩の悩みの内容を聞いたことがある? ないよね、言える訳ないだろ!? 君へ近づきたいって相談なんだから!!」
「どうして一嘩と一緒にあの日いたと思う!? 君へのプレゼントを買いにだよ!!」
胸ぐらを掴んでいる腕に手を置き、捻り上げた。
一瞬呆気にとられたような顔をした彼の指が僕の胸蔵から離れた。投げつけるように手を放す。
口の中に溢れた血を飲み込んだ。
「う…そ言うなよ」
「嘘じゃない」
「じゃあ、じゃあなんで、アイツは笑わなくなった!? お前が壊したんだろーが!?」
拳を握った。爪が肉に食い込んで、今にも血がにじみ出てきそうだ。
「僕が壊した、それは認めるよ」
「ほらみろ!! 何しやがった!?」
また胸ぐらが掴まれた。体が揺さぶられる。
言葉を発そうとしても、なかなか出てこない。
「さっさと言えよ!!」
ガクガクと揺さぶられた。
キュッと一度、唇で一文字を作って、すぐさま開けた。
「僕らが…」
「はぁ!?」
目を合わせて、両手で彼の手を勢い良く引きはがす。
「あの日、どうして僕らの前から一嘩がいなくなったか知ってる?」
「泣いて屋上から飛び出してきたときだろ!? お前が最後に何かしたからだろーが!!」
「違う」
「何が違うって言うんだよ!!」
拳が僕の横腹を捕らえて、よろめいた。もつれる脚を踏ん張る。目を離さないように。
「あの日、僕は屋上で一嘩に…お願いされた。言われたんだ。ゴメンなさいって、君の替わりに謝るから亮二のことを許してって泣かれた。そして…亮二と仲直りしてって、亮二を昔の優しい彼に戻してって、泣いて懇願されたんだ」
「は…?」
「いつも僕のことを心配してたのは、変わって行く君の様子を伺う為。笑わなくなったのは、僕が“自分の彼氏である亮二”に苛められてるから」
「何言って…」
「僕が、僕が苛められる度、一嘩は泣いた。それは、僕の為なんかじゃない! 君の為に泣いてたって言ってるんだよ!!」
力の限り、殴った。
傾れ、そこらに置いてあった椅子が音を立てて転がった。紙屋も。
「なんで信じてやれなかったんだよ、一嘩のこと。僕とそんな関係になるわけないだろ!? なんで笑わなくなったか考えてみてよ、親友だった僕らが一嘩のせいでそうじゃなくなったからって彼女は気づいてからかだろ!? どうして僕らの前から姿を消したか、それは見ていられなくなったからだよ、親友だった僕に酷いコトする君を!! だから僕に泣いて頼んだんだよ、仲良くしてって!!」
「そんな、そんな話信じられる訳ねーよ!!」
「そうだろうね。だって僕は…君から、一嘩の願いから逃げた。一嘩を裏切って転校したんだから…でも、一嘩のことは信じて欲しい」
あの時、屋上に一嘩に呼び出されて懇願された時、僕はわかったと頷いた。嘘をついた。すでに、転校する手続きを進めていたくせに。出来ないとわかっていて、彼女の願いを聞き入れてしまった。一嘩が姿をくらますのに気づいていたから、これで逃げれると本当は心の中でほくそ笑んでいた。彼女は、僕が裏切って転校をしたことさえ知らない。未だ、僕と紙屋が仲直りする為に僕が動き続けていると思っているだろう。願っているだろう、僕らの関係がまた親友に戻ることを。
「お前の言葉のどこが信じられるって言うんだよ!!」
肩にかけたあった斜め掛け鞄のチャックをゆっくり開いて、ファイルを取り出した。そこから、1通の手紙を手に取った。
「一嘩もこうなるだろうと思って、僕に手紙をくれてた。仲直りしたら渡して欲しいって。僕も見ていいって言われたけど、見てない。封は閉じられたままでしょ? 中は証拠じゃないけど僕の筆跡じゃくて、一嘩の筆跡だ。そのくらいわかるよね」
手渡せば、息を飲んで中身を読み始める紙屋に続ける。
「言っておくけど、君と親友に戻るつもりなんてサラサラない。君だって、はいそうですかって僕と前の関係に戻れるほど単純じゃない。だから、僕は君を許さない。許したって苛められた事実は消えないから。だから、これは一嘩の為に渡したんだ。僕の彼女への裏切りを取り戻す為に渡した。…読んでないけど、内容は推測出来てるよ。ようやく仲直りして良かったってコトと、迎えにきて欲しいんだと書いてある。住所も書いてあるはずだから、行くといい。けど僕は、行かない。一度裏切った罪として、会わない。君と笑って会いに行くなんて絶対に出来ないから。一人で行くといい」
話している途中で、紙屋が嗚咽を堪えながら涙を流し始めた。
見下ろしていた目線を、窓の外に向けた。そしてゆっくり目蓋を閉じる。
-----許すことなんて出来ないけど、これでいいよね?
紙屋が苛めた事実も消えないのなら、僕の裏切りも消えないのだろうことぐらい分かってる。でも、ようやく約束は果たせたのだと思う。元のように親友としては笑い合えないだろうけど…僕への行為はなくなるんだと思う。僕自身も抜け出せたのだと思う。
だから、いいよね?
「紙屋…お願いがあるんだ」
瞳を開けて彼を見ると真っ赤な目が僕を見上げていた。
ファイルから、もう1通、手紙を取り出す。
「僕は行けないから、その代わりにこれを渡しておいてよ」
彼が掴むと1部分だけ色が濃くなった。
「読んでもいいけど、一嘩への手紙を読むなんてあんまり気分はよくないだろうから、内容を言うよ」
ゆっくり手を放すと、震える手の中に修まった。
僕の手紙が、一嘩の手紙と重なったのを見届け、大きく息を吸う。
「前略、一嘩様。おかげんはいかかでしょうか? さっそくですが本題に入らせて頂こうと思います。まず、僕は君に謝ることから始めなくてはいけません。理由は僕が君を裏切ったからです。あの日の約束を、僕は破りました。転校というかたちで逃げました。実はあの時、僕はすでに転校の手続きをして約束を守れないと分かっていながら頷いていました。だから、謝りたいのです。裏切ったこと、嘘をついたことを。でも、この手紙が貴方の下へと届いているということは少なからず、裏切ったことへの罪を葬り去れたと勝手に解釈しています。でも貴方の求めていた全てを叶えている訳ではありません。僕は彼のことを許せないし、親友にも戻れないでしょう。それでも、君が望んでいた優しい彼にっていうのは守れていると思います。これが一番望んでいたことだと僕は気づいているので、敢えてこの手紙を託しています。僕らの関係は、完全に元には戻せないけど、君の知っている状態よりは改善しているでしょう。だから、もう、僕のことは気にしないで下さい。紙屋だけ、見て下さい。僕の心配なんてしないで、彼だけ見てあげて下さい。あと、もう泣かないで、その代わり笑って下さい。これが僕と紙屋の一番の願いです。君が笑っていれば、きっと、紙屋は幸せです。そして、僕も幸せです。2人がいつまでも幸せであることをいつも願っています。 敬具」
言い終えて、僕は笑った。
ゆっくり手を紙屋の前に差し出す。グッと体重がかけられ、引っ張り上げる。
「2人で、壊したんだな」
「うん」
そう、僕らの関係が壊れると共に一嘩は笑わなくなった。一嘩は僕に、紙屋にとらわれ過ぎたせいで壊れた。だから、僕に責任がある。苛められたという。そして紙屋にも責任がある。苛めたという。
「謝っといてよ」
「わかった」
2人で向かい合って、久しぶりに、本当に久しぶり笑顔を出し合った。
一番嫌いな男だって思ってるけど、心の底から憎んでしまえない。親友には戻れないし、許せないけど、紙屋を友達だって思っていることは消えない。こういう関係もありだと思う。
紙屋もそれを分かっている。だから、敢えて謝らない。僕もこれ以上は何も言わない。
そして僕は一番初めの目的の為に声を発した。
「ねぇ、最後に聞きたい。詩織の秘密って…」
「知ってるかも知れない。あの子の親、離婚してた。でも、その後も内縁の関係で何年も一緒に暮らしてたそうだ。で…死んだ。原因は火事。ただ…」
「内縁の関係は、何となく知ってたけど。ただ?」
「火事は…放火によるもの、らしい」
「え!?」
ガシャ……ン
遠くで、何かが割れる音がした。
「え?」
「何?」
2人で視聴覚室を飛び出した。だって今は授業中で、そういう音が鳴るなんて事自体が異常事態だからだ。
「あ…」
向かい校舎の1つ下の階、そこには、黒髪の親友が警棒をガラスのあった場所に突き立てていた。