「……旦那、時間切れだよ」
血生臭い旅館の一室で、自らが斬った肉片にもたれ掛かる主人に時を告げる。
襖や障子には幾つもの刀傷が咲き、
鮮血滴る元人間の死体からは臓器が顔を覗かせていた。
たっぷりと生き血を啜った畳はどす黒く変色している。
彼が身に纏う浅葱色の隊服は鮮血に染まり、
右手に握るのは愛刀の代わりに鮮やかな朱色だった。
「もう、そんな時間なんですね」
彼はその言葉を噛み締めるように、
ゆっくりと朱色に染まった右手を仰ぐ。
下の階からは、乱闘する喧騒が伝わってくる。
先程の彼と同じように、一階の彼らもまた、
浅葱色を鮮血に染めているのだろう。
そっと彼に近寄って、隣に腰を下ろす。
彼の顔に掛かる漆黒の髪を、静かに撫でた。
すると甘えるように、瞼を閉じて、彼は力無く微笑む。
刀と刀が重なる音、生身の肉に刃が食い込む湿った音が、
熱気と共に包まれる。
裏口から、正面から、砂埃を舞い上がらせ、
この旅館に踏み込む幾千の足音、
それがこの熱気を加速させた。
……最後に、頼まれごとをしてくれませんか。
と色のない唇で囁く。
無言のあたしを肯定ととったのか、彼は続けた。
“坂本龍馬を、斬ってください”
そんな望み、わかりきったこと。
最後まで貴方は、隊長として朽ちていくのね。
再び大きく咳き込んだ彼の手のひらには、
また新しい朱色が咲き誇る。
ひゅーひゅーと喉を鳴らして、額から汗が滲み出した。
――侵食が、始まった。
もう少しだけ、夢を見させて欲しかった。
もう少しだけ、貴方のそばに居たかった。
こうなることは、最初からわかっていたのにね。
たとえこの交わりが、
禁忌の理に触れても、
貴方が笑ってくれるなら。
遠いあの日に結んだ契約は、恐怖するくらいに、
貴方を強くさせた。
天才剣士の名を欲しいままにして、その刃は貴方自身と、
貴方のたった一つの居場所を守るために振るわれた。
貴方の優しさがあたしを救って、
あたしの弱さが貴方をいずれ、滅ぼすことになる。
いつかあたしは、貴方の魂を喰い尽くして。
貴方の屍だけが、この世に残る。
醜いあたしは、貴方の澄んだ瞳を、
少しでも美しく泳げたのかな。
貴方と過ごした歳月も、いずれは雲に紛れて霞んでしまうの。
交わることのない唇、重なることのない肌、これから先ずっと。
ふいに、生暖かい雫が、頬を濡らした。
「鬼の貴女でも、涙は流れるんですね……」
蚊の鳴くような声で、うっとりと彼は呟く。
こんなにも心が通じていても、
触れ合うことさえ許されない。
想いを伝えることさえ、
言葉にすることさえ、
それは一瞬で溶け出してしまう。
唯、あたしだけを見て、笑顔をください。
この先、幾月の時が流れても、貴方のことだけは、
心に焼きつくように。
美しくて悲しい、貴方の心音を忘れぬように。
「綺麗な妖さん、愛してます」
ほら、貴方はそう、虚しい嘘を吐く。
その一言があたしの心を満たしていくの。
本当はすべてを貴方に捧げたいのに。
弱いあたし。
醜いあたし。
穢れたあたし。
あたしの最後の悪あがきよ。
貴方の魂、ゆっくりゆっくり、味わって。
ゆっくりゆっくり、旅立たせてあげる。
この浮世に少しでも、長く、
貴方の心を留めるため。
貴方の心に少しでも、長く、
あたしの記憶を留めるため。
そしてほんの少しの罪滅ぼし。
二度と瞳をあわせることはないけれど。
二度と言葉を交わすことはないけれど。
輪廻する貴方を、見守っているから。 |