「あ、雪」
僕の後ろで、彼女がつぶやいた。
その声につられて見上げれば、いつの間にか空を覆いきっていた雲からはらはらと、灰色の雪が落ちてきていた。明日から春休みだというのに、季節感のないことだ。
朝の天気予報では、僕が住むこの地域名の下には雲のマークしか映っていなかったはずだが、だからといって気象庁を責める気にはならなかった。雲りのマークだけを確認して、降水確率には目を向けなかった僕が全面的に悪い。いつものように遅刻ギリギリまで寝ていた僕は、画面の隅に順番に映し出される各地域の天気予報をしっかりと見ている余裕なんてなかったのだ。
背後で、ぷしゅ、という音がして、僕と彼女を吐き出したバスの扉が閉り、うなるような音を立てて次の停留所へ向かって走り出した。その姿が小さくなり、そして曲がり角に消えてしまうと、辺りに静けさが満ちた。
この停留所では、いつも僕と彼女しか降りない。
斉藤雪菜。
長めの髪をポニーテールにまとめた、目鼻立ちのはっきりした、高校一年生にしてはちょっと小柄な女の子。美術部所属。田舎町の女子高生だけあって、化粧はしていない。そもそも彼女には化粧なんて必要ないと、僕は思う。彼女の肌は、高価な磁器を思わせる程に白く透き通っているからだ。寒さのせいか若干赤みがさしている頬とのコントラストが、幼さよりは大人の雰囲気を感じさせた。
胸元に通された白いスカーフには、彼女が一年生であることを示す細い青のラインが入っている。青は一年生、赤が二年生で、三年生になるとその色が緑色になる。その緑色のスカーフをしていた三年生の皆さんは、ひとりの留年者も出すことなく、全員が無事に卒業していった。
ちなみに二年生の僕がもし女子だったら、赤線のスカーフを着用する必要があることになる。そう考え、セーラー服を着た自分を想像し、そしてすぐにかき消した。セーラー服への冒涜だった。
わざわざセーラー服を着なくとも、男子は男子で女子のスカーフのように、ブレザーの襟元につけている校章型のピンバッヂの縁の色を学年ごとに変えている。が、何を隠そう、校章だけあってこれは女子もつけているのだった。
学年を判別する要素が、女子はスカーフと校章のふたつで、男子は校章ひとつのみ。これは昨今声高に叫ばれている男女差別というヤツなのではないだろうか、と思わないでもなかったが、学校側はこのスタンスを変えるつもりはないらしい。まぁ僕としても、男子にスカーフにあたる「何か」の買い換えを新たに義務付けられるのもめんどくさいので、別段変えて欲しいわけでもなかった。
それに、一目で先輩後輩、あるいは同級生かが分かるこのシステムは、なかなか良くできていると思う。
「先輩」
雪菜が口を開いた。こちらを向く彼女の動きに、彼女が後輩であることを示す青ラインのスカーフが揺れる。
「荷物、多すぎませんか?」
そう言って、僕が両手に持つ手提げ袋を指差す彼女は、学校指定のかばんしか持っていなかった。なるほど、さすが学年トップを誇る優等生。僕とは違い、学校の机やロッカーに教科書を残したりはしないのだろう。
僕は若干の気恥ずかしさを覚えながら答える。
「教科書の類を全部机に入れていたから。夏休みと冬休みはそのまま置いておけるけど、さすがに春休みは持ち帰らないと。春からは教室が変わっちゃうだろ」
今日が終業式。明日から始まる春休みを挟んで、晴れて僕は高校三年生になる。一年間を過ごした二年生の教室から、最上階にある三年生の教室へと移ることになるのだった。
「前から疑問だったんですけど、先輩は本当に家で勉強しないんですか?」
「さも不思議そうに言わないでくれないか……僕としては家で勉強するのが当然、みたいに考えている雪菜の方が不思議だよ」
「勉強は学生の本分ですから」
「その台詞を教師以外の人間が言うのを初めて聞いたな」
こんな片田舎の、お世辞にも進学校とは言えないような高校に通う生徒の台詞じゃない気がしたが、彼女は自分の意思でこの高校に通っている訳ではないのだから、そこは触れないでおくべきなのだろう。
雪菜と彼女の両親は、雪菜の中学卒業と同時に、高給な外資系企業を脱サラして、この町に越してきたのだった。なんでも雪菜の母親がこの町の生まれで、いつかこの地で家族三人で暮らすのが昔からの夢だったそうだ。そしてそれが叶ったのが、ちょうど一年前。
しかし、この町からまともに通える範囲にある高校はひとつだけだった。必然的に雪菜の進路は、僕のような落ちこぼれが堂々と通えるレベルの我が校に決まってしまった、ということらしい。大げさにいってしまえば、イチローが少年野球チームに入るようなものだった。もちろん僕は小学生のうちの一人だ。
あれは僕が雪菜とこうしてバス停からの帰り道に会話するようになってすぐ、たしか五月頃だったはずだ。いつものようにバスを降りてからの道で、「こんな田舎に引っ越して来て良かったのか。高校の三年間くらい、一人暮らししてでも東京に残ってた方が大学受験には良かったんじゃないか」と、そう聞いてみたことがある。だが彼女は、「越してきて本当に良かったです。それまではほとんどなかった家族の時間が、取れるようになりましたから。勉強なんて、本人の意思次第でどこででもできますし」と言って笑っていた。その笑顔は、ひとつ年上のはずの僕なんかよりもだいぶ大人びて見えたものだった。
そういえば、その頃には少なからずあった、新参者に対するさまざまな噂話もいつの間にか聞かなくなっていた。今では、のんびりと晴耕雨読の日々を送る夫婦とその一人娘は、この町のちょっとした人気者にさえなっている。
その一人娘、雪菜は、その人気の源でもある魅力的な笑顔を僕に向けた。
「そんなこと言ってていいんですか?先輩も来年からは受験生なんですよ」
勉強の話はまだ続くらしかった。
「受験しなければ、受験生ではないだろう」
「そういうの、なんて言うか知ってます?」
「屁理屈か?」
「現実逃避だ、とも言えます」
この後輩はどうやら、遠慮の二文字をどこかで無くしてしまったらしい。
春先に初めてこのバス停で出会った頃の、あの遠慮がちな雪菜はどこへ行ってしまったのだろうか。はなはだ疑問だった。しかし、これもこの後輩との距離が縮まったことの表れであると、そう考えればそれはそれで良い気分だった。
「あ、先輩」
「うん?」
「校章、下さい」
「校章?」と、僕は聞き返した。
校章。学年ごとに縁取りの色が変わる、我が校の校章があしらわれたピンバッヂ。
「わたしは四月から二年生なので、赤いのがいるんです」
彼女の頬は、まだ赤かった。
うちの高校に通う生徒に装着が義務付けられている校章には、ちょっとしたジンクスがある。なんでも、恋人同士で校章を交換すると、交際が長続きするのだとか。もっとも、学年が違うカップルは交換ができないあたり、ジンクスとしてはいかがなものかと僕は思うのだが。
特に断る理由が見つからず、僕は荷物を無理やり左手にまとめて、右手でピンバッヂを外し、雪菜に渡した。僕には交換する相手はいないので、この校章は帰り次第ゴミ箱へと向かう運命だったのだ。再利用してもらえるのなら、そのほうが良い気がした。
「はい」
「ありがとうございます。じゃあ先輩にも、わたしのを」
そう言って、彼女は襟元につけられた青いラインのピンバッヂを外した。
「いや、僕は来年から三年生だから、青をもらっても仕方ないし」と僕は言った。僕に必要なのは、緑色の校章だ。
「大丈夫です」
とだけ答えると、雪菜はカバンから大きなペンケースを取り出し、その中からペンを抜いた。黄色の、塗料マーカー。さすが美術部、と僕は思ったが、もしかしたら美術部に限らず、女の子は皆こんな風に様々な色のペンを持ち歩いているのかも知れなかった。
雪菜がキャップを外す。きゅぽ、とどこか気の抜けた音が響いた。
「こうして」
彼女の手に握られたマーカーが、丁寧に校章の青のラインをなぞっていく。その手つきは、どことなく熟練の工芸家を思わせた。真剣な目と、張り詰めた雰囲気。彼女はいつも、こんな表情でカンバスに向かっているのだろうか。
「ふう」
「終わったのか」
「はい。じゃーん」
と、悪戯が成功した子供のような笑顔で、僕に微笑む雪菜。誇らしげに掲げられたピンバッヂの縁取りは、緑色になっていた。
「おお」
「青に黄を足すと、緑色になるんです」
「へー」
知らなかった。いや、小さな頃に聞いたことがあるような気もしたので、忘れていた、と言うのが正しいのかもしれなかった。
雪菜の手によって青から緑に生まれ変わったピンバッヂを、僕はブレザーの襟につける。雪菜も、ついさっきまでは僕の襟元に付けられていた赤い校章を、セーラー服の襟につけた。
新学期になっていないのに、一足先に上級生の校章を付けていることがなんだか悪戯じみていて、僕らは軽く笑いあった。
「だけど、ただの先輩後輩でピンバッヂを交換するってのもな。ほら、これって、恋人同士で交換するものだろ」
ふと僕がもらしたそんなつぶやきには答えずに、雪菜は「あ」、と呟き、その小さな手のひらを空に向けた。
「雨に、なっちゃいましたね」
なるほど、いつの間にやら雪が雨に代わり掛けていて、僕らの制服を濡らしていた。この氷のつぶ達は、三月末の気温には勝てなかったらしい。暦の上では春になっているのだから、仕方がないと言えば仕方なかった。
「先輩は傘、ありますか?」と、雪菜はカバンから取り出した折りたたみ傘を広げながら問う。
「ない。それにあったところで、これじゃ持てないし」
そう言って、僕は目線で両手に持つ手提げ袋を示した。彼女が、納得したかのように頷く。と、何を思ったのか雪菜は、僕らの間のいつもは空けているスペースをつめてきた。一年近く二人で歩いてきて、しかし一度もつめられることが無かった距離が、縮まる。これまで触れることがなかった彼女の肩が、僕の二の腕に当たった。
「はい、どうぞ」
そして雪菜は、僕に口を挟ませる間もなく、高々とそのパステル色の傘を頭上に掲げた。
いわゆる、相合傘だった。
「……えっと、雪菜?」
「受験生に風邪をひかせるわけにはいきませんから」
これは遠まわしに勉強しろと言われているのだろうか。
「でも、これじゃお互い濡れちゃいますね。この折りたたみ傘、小さいですし」
そう言って、自らが持つ傘を見上げる雪菜。左手で傘を持っているためはみ出てしまった彼女の右肩に、少しずつ雨が染み込んでいた。彼女の左側に立つ僕の左肩も同様だ。
だが、いまは左肩に感じる雨の冷たさよりも、右肩に感じる雪菜の温かさの方が、僕にとってははるかに問題だった。
「なぁ、これはなんだろう」
「相合傘です。ご存知ないんですか?」
「それは知ってる。ただ、相合傘は僕らのような、単なる先輩後輩の関係で行うものではなかったはずなんだけど」
「それは古き良き価値観です」
「そうだったのか」
知らなかった。まさかたったひとつしか違わない相手に、ジェネレーションギャップを感じるとは思わなかった。
それともこれが根っからの田舎人と、都会育ちの新米田舎人との違いなのだろうか。
「でも、わたしも、そんな古き良き価値観が好きです」
「だから」と、はにかみながらそう言った雪菜は、たった、と早足で先に進んでしまった。冷えた雨粒が、傘を失った僕の頭を濡らしはじめる。なるほど、僕らは恋人同士はないから、相合傘は解消、ということか。
だが、そのまま先にいってしまうのかと思われた彼女は、わずか数歩進んだだけで立ち止まり、そしてこちらを振り向いた。つられて、僕も立ち止まる。
見つめ合う形になる、雪菜と僕。
と、首をちょこん、と傾げながら、雪菜がその形の良い唇を開いた。
「だから、恋人同士になれば、問題ないと思いませんか?」
「え?」
「相合傘」
そんな彼女の言葉の意味を把握しかね、疑問を口にしかけた僕の唇だったが、それは結局声として発せられることはなかった。
たたっ、と軽快な足取りで距離を縮めた雪菜が、まるで背伸びをするようにしてつま先立ちになり、そしてその唇をもって、僕の唇を封じたからだ。
触れるだけの、優しいキスだった。
しかしその優しさとは裏腹に、その柔らかい感触が衝撃となって僕の全身をくまなく蹂躙した。衝撃がはしる、とはこういうことを言うのだろうか、と、どこかぼんやりとしている頭で思った。
生まれて初めての甘い陶酔に、意識が溶けそうだ。
「ふう」
とすん、と、背伸びをしていた彼女のかかとが落ちる。
一体どれだけの時間、唇が重ねられていたのだろう。一瞬のようで、それはとても長い時間のようでもあった。
「これで、相合傘しても問題ありませんよね?」
「え?」
「ただの先輩後輩の関係では、なくなりましたから」
そう言って微笑む雪菜の頬が赤いのは、寒さだけが理由なのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、「はい、どうぞ」と、僕の頭上に傘が掲げられた。
相合傘。
「長続き、させましょうね」
そう言って笑う彼女の制服の襟には、僕があげた校章がちょこんと佇んでいた。
曰く、校章を交換した恋人同士は、交際が長続きする。
そんな昔話を、思い出した。
三回目の結婚記念日の夜、「これ、覚えてる?」と雪菜が僕に見せた、錆の浮いた二つの校章。
なるほど。ジンクスというのも、なかなか捨てたものではないらしいな、と、僕らはあの日のように笑いあった。
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