リオ。
今、君はきちんとこの手紙を読んでいてくれるだろうか。怒って、破り捨てたりしていないことを心から祈るよ。君ならやりかねないから。
破り捨てるのなら、どうか読み終わってからにしてほしい。情けない話だけど、俺は君に一番伝えたいことをいつも言えなかったから。
あっさりと書き連ねることができたら簡単だけど、それもできそうにない。結局かっこ悪い男のままで、ゆっくり君に伝えようと思っていた。
けれどもう時間はないから。
こんな形でしか君に何かを遺すことのできない俺を、許してください。
「殿下」
凛とした、美しい女性の声に聞き覚えがあった。
振り返れば、そこには予想通りの人物が立っていたので、アジムはさほど驚かなかった。
殿下と、そう呼ばれるのも久しぶりだな、と苦笑する。イシュヴィリアナの王子という立場を捨て、男として生きていくことを選んでからは誰も呼ぶことがなかった。
木漏れ日の中に彼女は立っていた。
「リオ」
「……お久しぶりです」
リオと呼ばれた女性は、淡く微笑んだ。今にも散りそうな桜の花のような、儚い笑顔だった。
アジムは、女性のそんな表情を今まで見たことがなかった。アジムの知る彼女は戦場を駆け、剣を振るう、戦の女神のような姿だけだ。
「……どうして、ここに?」
アジムはリオの儚い微笑みにつられるように笑う。
アジムとリオの故郷であるイシュヴィリアナは、もうない。久しぶりに感傷に浸ってもいいだろうか。
ここは砂漠に囲まれた、神に愛される土地・オアシス。他の国では見たこともないような立派な木々が根を生やしている。
「預かった言葉を伝えに。…私の最愛の友から」
「それは……」
アジムはたった一つの心当たりを思い浮かべた。
リオはやはり微笑み、アジムを見つめるだけだった。
――君に出会ったのはガザリアとの戦いの最中だったと思う。君は覚えているだろうか。
アジム様をかばい、負傷した俺を運んだのが君だった。
そして君はこう言ったんだ。
『誰かの為にしか生きられない人間は弱虫だ。戦場に弱虫などいらない』
正直ものすごく腹がたったよ。
俺にとってアジム様の為に生きることはどんなことよりも誇らしいことだったから。こんなことを書いたら、また君は怒るんだろうね。
でも俺は言い返さなかった。出血がひどくて意識を失ったから。
目が覚めても君はいた。その頃にはもうあらかた戦いは終わっていた。
目を開けた時、君を一番に見つけた時、君はとても綺麗だったんだ。薄汚れた、あちらこちらに怪我をした兵士が横たわる部屋の中にいて、君だって傷だらけだったっていうのに、とても綺麗だったんだ。今まで言わなかったけどね。そんなこと口に出して言えるような男じゃないってことは君もよく知っているだろう?
――……それから、なぜだろう。
君は俺のことを嫌っているようだったのに、俺達はよく話すようになった。
君に嫌われていると、俺はそう思っていたよ。
そう、君が俺に初めて泣き顔を見せる、あの時までは。
肩から腹にかけて、とても熱かった。
それが自分が斬られたからだと気がついた頃には地面に倒れていた。あの時の空が可笑しなくらい明るくて、どこまでも青くて、自分のこんな状況を、世界は喜んでいるように感じたよ。それほど世界は輝いていた。
でも、そんな不安を一気に消し去ったのは君だよ。
「ジル! ジルダス! しっかりしろ!」
今でもはっきりと覚えている。
声はいつもの君だったのに、俺を抱き起こして見る君の顔。君の目は、今にも泣きそうだった。
あの時、君に命を救われたんだ。
そのまま意識を手放しても、ぬくもりは感じていたよ、だからあの時冥府に下らなかったんだろう。
目を開けて、いつかと同じように君が一番に目に映って、俺がどれだけ嬉しかったか、君は知らないだろうね。世界が俺を拒絶しても平気だと思うくらい、幸せだったんだ。
「……気がついたか? ジル」
「ああ、大丈夫だ」
君にそう答えてから自分がベットの上で横になっていることに気づいた。ガザリアの時とは違って、別室で手当てされていただろう、とても静かだった。
「おまえは本当に馬鹿じゃないのか、一度だけじゃなく、二度も……」
簡素な椅子に座って俺を見てくる君の顔を見たら、とても嬉しくなった。
「ひどいな、俺にとってアジム様をお守りすることは当たり前のことなのに」
またアジム様をかばった俺を、君は信じられないといった顔で見つめてきた。
「どうして……」
「俺はアジム様に救われた。どうしようもなくて、ただ死を待つだけだった子供の俺を、同じくらいだったアジム様は導いてくださった。生きがいまで俺に与え、住む場所も、食事も。どうせあの時アジム様に助けていただけなかったら、俺は死んでいる。だから、アジム様の為に生きると決めたんだ」
――……ああ、でも。
伸ばした手がいつもよりも重くて、それでもあの時、君に触れたかったんだ。頬に触れた俺の手を、君は握り締めてくれた。
「アジム様に会うよりも、前に、リオに出会えていたら、もしかしたら……」
「――え?」
「リオの為に、生きていたかもしれない」
今思うと顔から火が出そうなくらい恥ずかしいセリフだと思うよ、本当に。記憶から抹消したいくらいにね。
それでも、君の為に生きたいと、思ったんだよ。
アジム様よりも先に君に出会えていたら。そうしたら。
きっと俺は君のために命を張っただろう。
アジム様と同様に、俺にとって君は無くてはならない存在なんだ。
言葉には、できなかったけど。
大きな木の影で涼みながら、アジムとリオは話し始めた。長い話になりそうだったが、どちらからも座ろうとはしなかった。
「ジルが、殿下はここにいると、そう言っていたので」
「リオ、俺はもう……」
「失礼しました、もう殿下というのは変ですね。アジム様」
慣れてしまっていて、とリオは困ったように笑う。
イシュヴィリアナはもう存在しない。オルヴィスという国に飲み込まれ、そして王子であるアジムは処刑された――されたことに、なっている。
「オアシスの新君主の婿が決まったと、私の所にも伝わってきたので……アジム様に違いないと――間違いでなくて良かった」
水の匂いを含んだ、涼しい風がリオの短い髪を揺らした。
「……リオ、俺を恨んでいるか?」
国を捨てて、自分の恋を選んだ王子を。
「いいえ」
躊躇いがちに問いかけたアジムに、リオはきっぱりと首を横に振った。
「恨んでなど……ええ、私が貴方を恨むことなんて一つもありません」
「しかし……」
「アジム様、私はジルの言葉を伝えたいのです。きっと、貴方に必要な言葉だと思うから。私がなぜ貴方を恨まないのかも、それでわかります」
そう言って、彼女はぽつぽつと語り始めた。
――オルヴィスとの戦いは絶望的だった。
あそこの国の国王の手腕はよほどの物だと思うよ。きっと、いずれ大国にのし上がるだろう。
もともとイシュヴィリアナはそう長くはなかった。君もきっと気づいていたんじゃないかな。
それでも戦わずにはいられなかった。俺達は、国と王を護る為の存在だったから。何よりもイシュヴィリアナを愛していたから。
それでも無理だった。
俺に残された時間もわずかだった。
日ごとに吐く血の量は増えていたし、戦争で生き残っても後半年はもたなかった。
動物はやはり、自分の死期が分かるらしい。
「……辛いのか、ジル」
唯一俺の病を知っていた君はことあるごとに心配してくれた。君に気にかけてほしくてわざと大袈裟に振舞ったこともあったよ。今だから白状するけどね。
結局、陛下はオルヴィス軍の手に殺され、アジム様さえ捕らえられた。
だから、行かなければならなかった。アジム様の影として。俺は、アジム様の痛みを全て引き受ける為に生きてきたのだから。自分の容姿があの時ほど役に立ったことはなかっただろうね。
オルヴィスとの戦も終わり、二人で静かに暮らそうと、町外れの家に住んでいた頃はとても幸せだったよ。
「ジル! どこに行くんだ、そんな身体で……」
「アジム様の所へ」
「ジル……!」
君が腕に縋って止めてきた時はさすがに固い決心も崩れかけたよ。それほど君は弱弱しい顔をしていたよ。気がつかなかっただろう?
「おまえは十分に尽くしたじゃないか……! これ以上できることなんてもうないんだ!」
「あるよ、リオ。俺が今までアジム様の影武者であったことを、君は知っているだろ」
「代わりに死ぬっていうのか!」
悲鳴にも似た声だった。
自分が君にこんな悲痛な声を出させていると思うとやりきれない。
「俺はもう長くない。しかしアジム様には未来がある。あの方には願いもある。こんな病魔に侵された身体がまだ役にたつというのなら、俺はなんでもするよ」
「ジルダス!」
「――この身体はアジム様に、心は君に捧げる」
「そんなものいらない! 行くなジルダス!!」
もう君の叫びが聞きたくなかった。
だから、キスした。
思ったとおり君は不意をつかれて隙ができただろう?
「ごめん、リオ……」
君の赤い瞳をこの目に灼きつけた。
これが、俺の記憶の最後の君だから。
きっと君は怒っているだろう。
怒った君の顔も好きだった、なんて言ったら君は照れた後で俺のことを殴るだろうな。
今、牢の中でこれを書いている。ここは暗いし寒い。字が上手く書けているか自信がないよ。
アジム様は今頃国外に出ていられるだろう。
それで、図々しいけど、君に一つお願いがあるんだ。
アジム様に伝えて欲しい。いつか、あの方と出会うことがあるのなら。きっとアジム様は神に愛された土地の姫君に会いに行くだろうから。
俺は後悔などしていない、と。
アジム・アブラシード・イシュヴィリアナとして死ねることが、とても誇らしいんだ。誰よりも尊敬していたアジム様として死ねるのだから。死を待つしかない病で死ぬのではなく、誇り高きイシュヴィリアナの為に死ぬのだから。
それにね、リオ。
俺はアジム様の為だけに死ぬわけじゃないんだよ。
後悔があるとしたら、それは君を遺して逝くことで、でもそれはいずれそう遠くない日に結局訪れるものだから、しかたない。
しかたない、なんて、また君を怒らせるかな。
君はいつこの手紙を読んでいるのだろうか。
きっと、俺はもうこの世にいないのだろう。
怒っていい。俺を恨んでもいい。
勝手な願いだけど、どうか君は生きて。
君が何よりも大切だったよ。
君が誰よりも大事だったよ。
これだけ長々と書き連ねているのに、やっぱり気の利いたいい言葉は見つからない。どうすれば、どんな言葉よりも強く君の心に染み渡るだろうか。
君の心に、永遠に残るような言葉を知っていたら良かった。
君は俺が見てきたもののなかで、何よりも綺麗だった。
凛とした声も、真っ直ぐに伸びた背筋も、短く切られた黒髪も、赤い瞳も。
この世界のどんなものよりも綺麗だよ。
ああ、どうしたら君にこの思いを伝えられる?
分からないけれど、君がいなければ俺はどうしようもなく駄目な人間だった。君という存在で、俺の人生はどんな宝石にも負けないくらい輝いていた。アジム様よりも、大事だったんだ。ずっと、長い間言えなかったけれど。
君が引き止めてくれた時、本当に迷ったんだ。
君と残りの時間を二人きりで過ごせたら、きっとそれは幸せに満ちた時間だったんだろうと思うよ。
でも、それはきっと、俺がこの世を去った時に君に大きな悲しみを与えるだろうと、そう思ったんだ。
君を傷つけたくなかった。あまり悲しませたくなかった。
だから、俺はこんな道しか選べない。
君の制止を振り切り、勝手に死んだ俺のことを怒ってくれ。恨んでくれ。憎んでくれ。
それはきっと、君の心に火を灯す。生きる力になる。
どうか、生きて。
リオ。
「ジルダス……」
リオがすべてを話し終えた後、アジムはそう呟いた。
幼い頃から共に居た青年を想った。
自分として、死んでいった青年を。
「彼の、言葉は確かに伝えました。殿下……いいえ、アジム様。どうか、幸せになってください。ジルも、きっとそれを望んでいる」
「リオ」
アジムは顔を上げ、凛とした美しい女性を見る。
彼女は泣いていなかった。
泣きそうな顔をして、ただそこに立っていた。だから、アジムも泣くことができなかった。
「彼も幸せだった。だから、アジム様が気に病むことなどなにもありません。彼が…彼が、選んだ最期だったのだから、私もそれで十分です」
リオは、最後までアジムには涙を見せなかった。
リオがこの手紙を受け取ったのは、アジム・アブラシード・イシュヴィリアナの処刑当日だった。
処刑の時間がほんの少し遅れたのは、恋人達のほんの短い最後の逢瀬が原因であるということを知る者は、数少ない。
ああ、リオ。
結局簡単な言葉しか思いつかないんだ。
君に、きちんと伝わるだろうか。不安だよ。
リオ。
何よりも、誰よりも、
愛しているよ。
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