遺産整理
蝉の音に混じって、虫の声が聞こえ始める夏の終わり。夕暮れの長く伸びた木の影が、開けっ放しの座敷に伸びて、ゆさゆさと揺れている。涼しげな風が色褪せた畳をゆっくりと撫ぜながら、茶の間で作業をする義男の足元までやって来た。ダンボールがいくつも散らばり、その中に埋もれるように作業していた彼は、手を休めてふうっと、深呼吸した。
八十一で亡くなった母親の葬儀を終え、やっと一段落着いた。義男は遺品整理のため、町外れにある実家に、妻の恵美と共に訪れ、家具や衣類、台所用品を品定めしながら選り分ける。
母ヒサが長年一人で住んできたこの家は、いずれ売るつもりでいた。築五十年のオンボロ屋敷には未練がない。この土地にも、特に愛着はない。売った金と遺産で、マンションを買うのだ。今住んでいるマンションは老朽化が進み、買い替え時だと恵美が毎日、五月蝿く言う。
義男は一人っ子だが、家を継がなかった。妻の「同居は嫌」の一言で、実家から二駅離れた地方都市の住宅地に中古マンションを買った。父親が死んでも、呼び寄せる事なく、母を一人にしておいた。
亡くなった父が懸命に手入れしていた庭は、死後、年老いたヒサ一人ではどうする事も出来ず、暫く荒れ放題。見るに見かねて、近所に住むヒサの従甥、久則が剪定してくれたお陰で、今も美しさを保ち続けている。松の木や、椿、桜に百日紅、石楠花、山茶花、楓、大小様々な木々が所狭しと植えられ、四季に彩を添える。しかし、美しい庭は義男にとって、何の価値もない。古く廃れたこの田舎屋敷、昔臭い和風の庭より、再開発地区に建築予定の高層マンションが、義男の頭を占拠していた。
金が必要だった。
恵美の両親は数年前から痴呆になり、三人姉妹の長女だからと介護を押し付けられた。今流行りの介護付き高齢者賃貸住宅に二人を入れたが、賃貸料金は高く付く。それでも、自宅介護することを考えれば、背に腹は変えられない現実。
更なる悩みの種は、息子の啓太だ。大学を出ても、就職する気が全くない。アルバイトすらしない。ニートというやつである。金食い虫と化した愚息は、最早家庭の荷物になっていた。
追い討ちをかけるのが、若い頃からの義男と恵美の浪費癖。貯えず、月給を全て使い果たすことも珍しくなかった。金が欲しくなれば、生前は父が余すほどくれた。その甘やかしが一層、義男を貯蓄から遠ざける。
父が亡くなると、義男はヒサを頼ったが、彼女は財布の紐を固く結んだ。年金生活に入り、これからが心配だからと、倹約し、貯金した。金の使い方を知らないヒサは、年金支給日に必要な分だけ引き出し、あとは全て、地元の郵便局の国債購入に当てていた。償還の度に預けかえるのが一つの楽しみ。何しろ、手続きに訪れる局員は親切で、孤独なヒサにとってはよい話し相手だった。
義男はそのことを知っていた。だから、母が死ねば、自分に金が回ってくると、密かに待っていたのだ。
「ほら、お義母さんの通帳、出てきたわよ」
仏壇の引き出しを整理していると、そこから仏具と共に、線香臭くなった赤紫の風呂敷包みが現れた。恵美は口元を綻ばせ、義男を仏間に呼んだ。
「そうそう、これこれ。お袋、風呂敷にグルグル巻いて保管してたっけ。こんなとこに置いとくんだな、年寄りってやつは」
義男は白髪混じりの頭をボリボリと掻き毟りながら、ドシンと仏壇の前に胡坐を掻いた。どれどれと、包みを解き、中身を改める。
「郵便局の通帳に、国債の保管証、銀行の通帳。印鑑も一緒に巻いてある。几帳面だな」
「ホント。色々あったけれど、大切な物はちゃんとしまってたみたいね」
恵美は安心したように、大きく息をして、通帳を眺めた。
亡くなる半年ほど前から、ヒサの様子がおかしくなった。昔にしては珍しく、女学校を出て、頭の切れた女性だったが、老いには勝てなかったのか、痴呆気味になっていたのだ。一人暮らしをさせるのはどうかと、何度も話し合った。しかし、ヒサは「介護は要らない、老人ホームにも入らない、この家で死ぬ」の一点張り。義男たちはその意志を尊重した。
去年の暮れのことだ。郵便局から一報があったのが、事件の始まり。
「ヒサさんの息子さんですね。今、交通事故に遭われた示談金を振り込むようにとあなたから電話があったと言うのですが」
仕事中、会社にかかってきた電話。義男は「オレオレ詐欺だ」と直感した。仕事を切り上げ、局に向かうと、ヒサはオドオドして、
「あああ、本当。局員さんの言った通りだわ。あの電話は、義男じゃなかったのねぇ」
気の緩んだような声を上げていた。老人の一人暮らしだ、こんな詐欺にかかるのはありえない話じゃないと思いながらも、義男は内心複雑だった。
「今思えば、あの時に、お袋をこっちに引き取って置くべきだったんだ。あれからだろ、ボケがエスカレートしてったのは」
義男はそう言って、恵美の表情を確かめた。
「そんなこと言ったって。あなた、実際面倒看るのは私だったんですからね。言うのは簡単だけど、現実になってたら、どんなに大変だったか」
恵美は案の定渋った顔をして、義男を睨みつけた。お互い、ヒサを引き取りたいなどとは微塵も思っていなかった。ヒサが家を出ないと言うのをいいことに、介護を拒否し続けたのだ。
「偶に帰ると、妙な請求書があったり、使えもしないクレジットカードを作ってみたり。寂しかったんだろうな。話し相手になるやつだったら、誰でもよかったのかも。何度か怒ったんだよ、子供じゃないんだから、何にでもハイハイって言うんじゃないぞって。荷物整理してて、気にならなかったか。変な買い物、たくさんしてるだろ」
「それなら、私も思ってたところよ。糖尿に効く薬だとか、肝臓によい健康食品だとか。どっさりよ。何ヶ月、何年分買い溜めたのかしら。テレビショッピングかしらね」
未開封のダンボールの側面に、肝油だの、サプリメントだの、書いてあるのが何個も見付かった。賞味期限切れのものまで大量に。
「そういえば、あなた。お義母さん、宝石だの、着物だの、興味あった? 新品手付かずのものがね、たくさん出てきたんだけど」
「いや、お袋が着飾るなんて、滅多になかったけどな。何でそんなものまで……。どこかで口車にでも乗せられたかな」
消費癖に拍車がかかったのは、今年の春頃からだ。質素倹約を貫いてきたヒサの暮らしが、一変した。通信販売に嵌ったかと思えば、どこぞから布団を買ってきてみたり、チラシで見たと幸運の掛け軸だの取り寄せて飾ってみたり。投資話を持ち駆けられ、親切な人だったからと何百万も預けてしまったこともある。
義男は、そんな母に口出しするのがだんだん億劫になり、終いには見て見ぬ振りをした。厄介ごとに巻き込まれるのはゴメンだった。ただでさえ窮屈な今の暮らし、ボケ始めた母親に振り回されたくない。心のどこかで、逃げ回っていた。
「お人よしだったものね、お義母さん。情にまかせて、どーんと出しちゃったんじゃないの。お金だけはたくさん持っていたもの」
晩年のヒサに対する自分の態度を省みれば、恵美の嫌味にも反論できない。義男は通帳を握り締めたまま、ただじっと、虚空を見つめていた。
「お袋の話し相手って言えば、息子の俺じゃなくて、俺のはとこの久則だったからな。皮肉なもんだよ。久則になら、何だって喋ってたみたいだし。俺の知らないことまで知ってんだ、参ったよ」
「それは、久則さんが、あなたとは正反対、優しくて世話好きで、お義母さんのことがほっとけなくて、ちょこちょこ顔、出してくれてたからでしょ。どうする? 遺書なんか出て来て、久則に半分あげるって書いてあったら」
「まさか、それは幾ら何でもありえないだろ」
ははは、と、義男は笑って見せたが、口が苦々しくひん曲がっていた。母は情の深い人で、腰が低く、人との付き合いというものを大切にしていた。実母を放置し、倒れるまで実家に寄り付かなくなっていった義男と、庭の手入れから、日々の買い物まで、家族ぐるみで心配してくれていた久則と、どちらに軍配が上がるかなんて、誰の目から見ても明らかなほどだった。
「ごめんくださーい」
玄関から声がして、恵美は慌てて仏間を飛び出した。聞き覚えのある声に、義男も重い腰を上げ、持っていた通帳を風呂敷の上に戻すと、恵美のあとを追った。
「ほら、あなた、久則さんよ」
噂をすれば何とやら、すっかり白髪の角切り頭、真っ黒に日焼けした職人風の男、久則だ。大工をしている久則は、ニッカポッカのだぶだぶとした裾を手繰りながら、
「義男、どうだ、片付け進んでるか」
奥から出てきた義男に話しかけた。
「ご愁傷様だな、おばさん、あんなに元気だったのにな」
久則は顔を曇らせ、大きく溜め息を付いた。
義男は整理半ばの仏間に久則を招きいれた。先程広げていた通帳の束がそのまま、仏壇の前に散らばっている。義男は慌てて風呂敷に包み直し、仏壇の引き出しにしまい込んだ。
線香を上げ、無心に拝む久則の後姿を、義男は何とも形容し難い、もやもやした気持ちで見つめていた。久則は向き直り、差し出された座布団に胡坐を掻く。卓袱台を囲って、三人、恵美の差し出したお茶を啜った。湯気がふわっと緑茶のよい香りを運び、慌しい屋敷を静寂に包んだ。
「久則がいて、助かったよ。通夜の時、近所の人が来たって、俺達には全くわからなかったから。感謝してるよ。日頃から面倒、看てくれてたんだろ」
義男は、当たり障りのない言葉で、久則に感謝した。
「いや、まあ、当然のことをしたまでだよ。おばさんには、小さい頃から世話になってたしさ。何とか役に立ちたくて」
大きな目にうるうると涙を浮かべ、久則はずずっと鼻水を啜る。茶を最後まで飲み干し、目を瞑り、ゆっくり天井を仰ぎ見た。ふるふると肩から下が小刻みに揺れている。
ああ、久則というやつは、自分の親でもないのに、俺より親身になって泣いている。義男の心は更に揺れた。
「実はな」
汗臭い顔から、鼻水と涙をシャツで一緒に拭うと、久則は義男に切り出した。
「おばさんから、言付けを頼まれていたんだ」
「何だって!」義男と恵美は、思わず顔を見合わせた。
「倒れる少し前に、何かあったら、義男に伝えてくれと言われててさ。葬式が終わって、落ち着いてから、仏壇の、引き出しの奥、そこに大切なものをしまっているから義男にやってくれって。俺はそれが何か、全く……」
久則の言葉が全部終わらないうちに、義男は、
「恵美、ぶ、仏壇、仏壇だ!」
立ち上がり、妻に指令を出す。
恵美は慌てて仏壇に駆け寄り、さっき義男が片付けた引き出しを引っ張り出した。引き出しの奥、奥……。動転した恵美は、引き出しの中身をひっくり返した。先程の通帳の包みと、数珠や線香、ろうそくが畳に転げ、熨斗紙がバラバラとその上に被さった。空の引き出しを放り投げると、運悪く義男の頭に当たり、悶絶させる。バカヤロウと叫んで、義男は恵美を押しのけ、引き出しをとった仏壇の隙間に腕を差し込んだ。
「あ、あった!」
ぐいと鷲掴みにして、見つけた何かを手繰り寄せる。ノートだ。大学ノートの表紙に、「義男へ」とヒサの字。義男は宝物を見つけたかのように目を爛々と輝かせ、両手でがっちりとノートを握り締めた。年代もののノートは、以前からヒサが書き溜めていたことを思わせ、二人は身震いした。
「もしかして、遺書じゃないの?」
恵美は体勢を立て直し、ポンポンとエプロンの埃を叩きながら義男に近づいた。
「遺書かどうか、中身を見てみないと。義男、なんて書いてあるんだ」
二人の大立ち回りに唖然としながらも、久則は共に興味津々でノートを覗きこんだ。
「ま、待て。落ち着いて、読んでみよう」
三人は申し合わせたように、ゆっくりと畳に座りこむ。義男はノートを三人の中心に置き、姿勢を正して、ごくりと唾を飲み込んだ。ガタガタと震える指先を必死になだめ、義男の手で、表紙が捲られる。
母ヒサの優しくか細い女性らしい字で、びっしりと日記が綴られている。それは、昨年末のオレオレ詐欺事件、世の中に、人の心を利用する、恐ろしい犯罪があるのだと、ヒサが知ったところから始まっていた。
『所詮、この世界はお金なのだと、私は思い知らされました。普段お金のことばかり言っているあなたの考えが、わからないではありません。だけれども、私は、お金より大切なものがあると信じたい。義男、あなたが仕事を放って来てくれたことで、私は救われた思いがしました』
郵便局員の対応から、義男が到着し、連れ帰った場面を事細かく記している。
「そうそう、近所でも話題になったんだよ。流行のオレオレが、こんな田舎町にも来たってさ」
久則がうんうん頷きながら、腕組みし、身体を前後に揺らした。
義男もよく覚えている。まさかと思い身震いしたこと、何度も母に詐欺の手口を説明し、実家を後にしたこと。
『その時のことを思い浮かべていたのです。どうすれば、あなたはお金より大切なものに気付いてくれるのだろうかと』
数日後の日記に、このような一文があった。
『私はやっと、義男によい薬を思い付きました。だけれども、分かってくれるでしょうか。お父さんが築いてくれたこの家、財産、全て無くなっても、義男へ私の気持ちが伝わると言うなら、やり遂げる覚悟なのです』
次第に、日記は、義男へ何かを訴えるものへと変わっていく。
「なんか、変じゃないか。この日記」
久則は首を傾げた。
「日記というより、何というか……」
恵美もまた、顔を顰めた。
義男は、何故か高鳴る鼓動を抑え切れなくなってきていた。震えていた手は、緊張を加速させ、汗ばんだ。じっとりと、粘りつくような脂汗が全身を覆い、そこに冷たい風が吹いて、ぶるぶるっと肩を震った。
『見知らぬ男が、やってきました。家が壊れそうだ、地震が来たら危ないからと、土台と屋根を修理、三百万かかるそうです』
『近所の人から誘われ、健康セミナーというものにお邪魔しました。お布団を購入すれば、元気になるのだと、そこにいた殆どの人が、私と同じように三十万のお布団を買いました』
『お買い物に便利ですよ、と、カードを勧められました。私は親切な店員の勧めで、着物を買う事にしました』
ヒサの丁寧な口調そのままに、日記は綴られていた。その内容の殆どが、どんどん詐欺まがいの商法に引っかかっていく様で埋め尽くされている。痴呆気味だったという義男の認識とは裏腹に、筋立てて、わかりやすく、詳細に書き記されているではないか。
「まさか、まさかとは思うけども……」
渇いた喉に、唾を流し込み、義男は震える手を拳にして、両膝に置いた。
「痴呆だなんていうのは、全くの。いや、待て、待てよ」
目を丸くする恵美と久則を尻目に、義男は散らばった熨斗紙の下の、通帳の入った風呂敷包みへと手を伸ばし、おぼつかない手付きで広げだした。印鑑が転がり、通帳があちらにこちらにと向きを変えて義男の手から落ちていくのを、恵美が一つずつ拾い上げ、義男に戻した。どうしたのと表情を覗う二人の姿は、義男の視界には入らない。恵美に渡された通帳の一頁一頁を確かめながら、捲っていく。
「これも、こ、これも、これも」
確かめては落とし、確かめては落とし。義男が広げた最後の頁、どれも残高が五桁を切っている。頼みの国債も、全て償還、解約済み。
「使い、果たしてる。何にも、残っちゃいないじゃないか!」
暗闇に放り投げられた。義男の頭はぐるぐると、独楽のように回りだした。金、金が欲しかった。恵美の両親の老人ホーム賃貸料、息子啓太の就職、結婚資金、新しいマンションの購入費、生活費、法要代……。空っぽの財布、口座、頼みにしていた母の遺産……。頭の先から足の先まで、一瞬で血が抜けてしまったかのような、脱力感。
『義男、私は、あなたに遺産は残しません。今まで、随分贅沢な暮らしをさせてしまいましたね。お金がありすぎたからか、あなたの心は豊かにはならなかった。私は、私達両親は、あなたを甘やかしすぎたのです。一から、鍛えなおさねばならないと、ずっと思っていました。だけれども、結婚し、家庭を持ったあなたをどうすれば立ち直らせられるか、考えあぐねていました』
『荒療治、荒療治です。私は、あなたの代わりに金に蝕まれた愚か者となりましょう。私の姿を見て、あなたは何を思うでしょう。お金こそ、一番ですか。子孫に美田を残さず。愛する、たった一人の息子のあなたが、これから先、金に頼らず、自分の力で歩んでいけますように』
義男はむんずと久則の襟元を摘み上げた。血走り、体中の血管が浮かび上がり、義男は喉が潰れるほどの大声で叫んだ。
「知っていたのか、久則、お前は知っていたのか! お袋が、痴呆でないこと、俺に金を残さないために、わざとらしく詐欺にかかり続けていたこと!」
違う、違う、と、久則は必死に首を横に振った。
「それ、本当なの、久則さん、久則さん!」
恵美もまた、泣きながら久則に迫る。
義男の顔中の穴という穴から、汗や涙、涎が噴出した。母の遺影を睨みつけ、久則を怒鳴る。行き場のない怒りに、苛まされていく。
いつの間にか、日が暮れた。西の空の夕焼け色が、地平線の際まで落ち込んでいる。秋の虫達が、優しい音を響かせ、風を運ぶ。さわさわと揺らぐ庭の木々は、座敷の奥、仏間の隅でヒサのノートを囲む三人を静かに見つめていた。
<終わり>
仕事柄、遺産相続について色々考えることが多々ありました。
お金がある人、ない人、遺族が多い、少ない、など、事情は様々ですが……、人間の本性を垣間見る時があります。
金というものは恐ろしい。人を操る力がある。──いや、金が悪いのではなく、人が弱すぎるのか。
「子孫に美田を残さず」というのは、西郷隆盛の言葉らしいです。私は、この言葉を知らずにこの話を書き進めていたのですが、旦那から「それって、こういうことでしょ」と教えられ、付けたした次第です。
自分が、果たして、子供に対し「甘やかし」と「情」をうまく使い分けられるのか、自信はありません。それでも、一人の人間として逞しく生きさせるためには、「突き離す愛」というのも、必要ではないかと思ったのです。
20071014




