ユラユラと漂う海原は三月の風に吹かれて冷め、どこまでも静かに、ただ静かに泳ぐ。
竜宮のお姫様じゃないけれど、散歩道で見掛けた人魚の彫刻は、いかにも日本的な装いをしている。
これを作ったのは、若手の芸術家だと言うが、黙って見れば、彫刻は専門じゃないけれど相当な腕前だとも言える。
逆に、芸術家というスタンスで見るならば、あまりにもお遊びが過ぎると言えなくもないが。
鱗の細部まで丁寧に創りこんでいるかと思えば、顔立ちは漫画みたいにデフォルメされてリアルさがない。
これでは、本当に趣味で創った物と思われてもしかたがない。
砂浜に出ると、薄暗かった空が徐々に明るくなる。赤信号が点滅を繰り返す朝は、どこか異なる世界のようで幻想的だ。
私の白い手足は、冷気で引き締まり、ほっぺたは少し紅潮しているだろう。
変な人魚と明滅信号、早朝の散歩は滑稽な組み合わせかもしれない。
誰かとすれちがう事もない。私の知ってる人間はこの海辺の街には一人も居ない。一週間も前から準備をしたのに、二時間半で、新しい街に着いてしまった。
仕事もまだない、芸大卒の若い女を働かせてくれる所なんてあるだろうか。楽観している訳ではない、実感が湧かないのだ。
人魚と一緒で、実体がないリアルのない現実。一瞬で消えてしまいそうに儚い世界。
こんなに冷静なのは、帰る家があるからである。昔、五年生の時にやった家出の延長だといってもいい。
でも、私はたぶん帰らないだろう。そういう予感はあった。
透明なのは海よりもむしろ、空の方で、溶けてしまいそうになる。
顔だけ知ってる人間が沢山いる私の街では、息苦しくで呼吸すらできない。
それは、五年生の時から変わらない。ただ、度胸と多少の経済力が着いただけだ。
何回だって脱出することはできる。ただ、人生にリセットなんてない事も知っている。
コンクリートの堤防にも、芸術らしき落書きが描いてあった。こっちは専門分野だけれども、やはり私には解らない。
難解なのか、単純なのか、それすらも分からなかった。
この街に来てから、初めて人間に出会った。小柄なお婆さんで、何だか若い娘みたいに可愛いかった。
軽く会釈をすると、早朝の異世界を共有した共犯者めいた笑みが二人の間で溢れた。
私はこの街が気に入ったかもしれない。人魚の街、点滅信号の街。まだ名前の知らない愛しい住人達。
まずは仕事を探さなければならない。不思議とこの世界は、私を受け入れてくれるような気がした。 |