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記憶の色

作者: 砂鳥 二彦

「君には、不思議な力がある。それが神の信託か、遺伝上の形質に過ぎないのかは僕も知らない。けれど、私達が君を必要としている事実に変わりない。その証拠に、君の傍若無人な振る舞いに対して国も教会も文句は言わない。君の能力を高く買っているからね。私も、同じだ。彼らと違うところがあるとすれば、畏怖や恐怖以外の感情を持っていることぐらいだ。

 前置きはここまでとしよう。親愛なる友、ザイル・エルブラン。君に重要な依頼が来ている」


「主なるあなたの神を拝し、ただ神のみに仕えよ」

 黒く重厚に仕立てられた本を片手に、ザイルは痩せた一匹のロバが支える馬車の隅に座っていた。晴天にふさわしい青の空を仰ぎ見ながら、本を抱えて中身を注視している。

 ザイルの格好は銀のボタンと藍の静かな調和がとれた上下を身につけて、その姿は神父と言っても良い風貌をしていた。しかし、彼自身の挙動は見た目と合致していない。教を広める徳の高い聖職者というよりも、スラム街で暇を持て余して寝そべる浮浪者みたいに、大あくびを上げて眠そうにしている。

ザイルは眠気を誘うそれを顎でかみしめ、本を閉じた。そんな時、手綱を操る男が、見えてきましたよ。と、一声かけてきた。

 ザイルが首を伸ばして前を見ると、ロバのはるか前方に低く茶色い建物の群と天を突くがごとく伸びる白と赤を基調とした屋敷が見えた。

「あれか、例の御子息が居るってのは」

 屋敷を一通り凝視した後に、小脇から自称親友を語るダニエルから送られた手紙を引っ張り出して、再度目を通した。

 内容は、精神科医をしている彼がとある豪邸の令嬢の治療を依頼されたが、現在彼は医学界に発表する論文の講演に忙しく手が空かないという。他にも古ぼけたタンスの奥から引っ張り出したような言い回しを並べて、最後に「僕が最も信用する君こそ適任だ」で、締められていた。当然、自分では治療の手段がないので、その言い訳だということは初めから分かっている。

 とはいえ、ギリシャ医学から進展があった現代でも精神科で扱われている病気のほとんどが治療不可能だというのが現実である。近頃は精神病の根本は脳にある。という発表で医学界が湧いたが、その程度。錬金術師であり医師でもある、かの高名なパラケルススでさえ、治療にはもっぱら占星術に頼っていたのだから、今の技術水準でも仕方ない。

 科学の進歩に伴って、医師はシャーマンやエクソシストを詐欺師だと罵しる時代にはなったが、未だに精神病らしき症状の快復は霊的な術が勝っている。

 ダニエル曰く、いかなる時・場所に関わらず人間の窮地を救うのは超常的な概念に依存する、そうだ。加えて、だからこそ今になっても神様や宗教が廃れようとも消えることはない、とザイルのことを指した。

 それなら治療の手段にお祈りの一つでも使えばいい。と返すと、ダニエルは何も言わずに左右に首を振った。

 ザイルは適当な所で馬車から降りて、ロバとその主人に手を振って別れを告げた。

 降りた場所は、屋敷を正面から見据えた広い空き地で、かつては農地として使われていたことが一目で分かる。ただし、畑の中は雑草で荒れ放題となっており、耕作の担い手がいないらしい。それが屋敷の周りをぐるりと一周空ける結果となって、どこからでも屋敷の皇后たる相貌をみせる。

 そんな草原と見間違える緑の園を貫いた屋敷までの道の上に、人影があった。

「珍しいねぇ、こんな所に神父様とは。レクターン家に教えを説きに行きなさるつもりかい」

 少々曲がった背中を気にしながら歩く老婆は、眉間にシワが寄り、頭には白髪が目立っている。だが、小麦色の元気な肌が歳を感じさせない。引いて運んでいるリアカーの中には色ガラスを割って散らしたような多種多様の花が敷かれている。苗に植えられたままなので、老婆は売り子ではなく屋敷に常連している花屋か庭師のどちらかだろう。

「だけど残念だねぇ。今は主様も奥方様もいらっしゃらないよ」

「と、言いますと」

「どうもここ一ヶ月ほど遠出なされたようで、何時帰りなさるかも聞かされてないのですよ。貴重な花を探しに遠くへ行きなさる事自体は少なくないのですが、日数も聞かされないことは今まで無いですねぇ」

「では、主様と奥方様の御子息は」

「居なさると思いますよ。御二方が出かけなさる時はいつもお嬢様が残されていますから。寂しいのでしょう。執事やメイドだけではなく、たまに私のような小汚い者にも話しかけてくださるくらいですから」

「なるほど」

 手紙には令嬢の治療とだけしかなく。情報が少なかったので、他愛の無い立ち話だけでも大いに役に立つ。屋敷に両親が不在というのも、もしかしたら治療方法を探してどこかに行ったのかもしれない。それと、親しい仲の者にもレクターン家の令嬢が病に犯されていることを知らせてはいない。これはザイルが来た理由を宣教と思い浮かべた点で、間違いないだろう。

「そうです神父様。帰りに花でも買っていかないかい。わたしゃこの近くに住む者で、小麦色の花屋と聞きゃ村の誰でも分かりますから。いつでも入らしてください。これはお近づきの印です。それでは、御ひいき宜しくお願いします」

 そう言って一輪の花を手渡すと、曲がった背中を更に丸くした会釈をして、老婆はさっさとザイルの来た道へ去っていった。

 ザイルは神父相手にでも商売魂の火を絶やさない老婆に感心を覚えつつ、渡された黄色い花を一瞥する。異国の花らしく、ザイルも花については良く知らないので判別できないが、それはパンジーと呼ばれる花だった。

ザイルがパンジーという名を知るのは後の話になるため、とりあえず彼が花弁を崩さぬように懐にしまい込んだとだけは伝えておく。

後々、自分の知識の無さに四苦八苦する羽目になるが、彼がそれを知っているはずは当然なかった。


「ザイル・エルブラン様ですね。お待ちしておりました」

 王宮を思わす調度品とシャンデリアで飾られた玄関にお目通しを許されたザイルは、その内装に劣らぬ待遇で迎えられた。複数人のメイドとフットマンを囲って出迎えた、執事らしき一人の男は彼らの代表としてザイルに挨拶した。執事は若造な客に対して、一切怪訝な様子を見せず、粗暴なふるまいのザイルよりも聖者に相応しい態度だった。

「御子息は?」

 挨拶もそこそこにして、ザイルは話題を乱暴に切り替えた。執事は触れたくない腫れ物を触るような事項にも関わらず、慌てず先走らず彼自身の要件から口にした。

「その件をもうしあげる前に、私からお願いがあります。ダニエル様から聞かれておられるか存じあげませんが、お嬢様の病状については… …」

「他言無用。だな」

「おお、話が早い。つまりそういう訳です」

「これでも今回のような治療を請け負うことは少なくないからな」

 本音の話でも、農民や商人を相手にするより名家の者を治療することが多かった。治療費を払える者が限られているからという理由もあるが、名家はかかりつけ医や庶民に知られたくないという都合が強く、治癒よりも名誉を重んじんでいるからだ。

 そのため、治療が終わったら感謝もされず金だけ渡され、異端者よろしくの扱いで追い出されることも多い。それはよそ者というだけではなく、犯罪者と関わる死刑執行人のように、精神病と関わる治療者もまた患者と同じく狂人だと捉えられるからかもしれない。

「それで、御子息の容体は?」

「お待ちください。それよりもザイル様に前金の方をお渡ししなければ」

ザイルはその言葉に眉をひそめて、語調を不機嫌にして言い返した。

「前金なら、まず御子息の容体を診てから受け取る。俺はまだ依頼を受けるとは口にしていない。容体を診ない限り、治せるかどうかも分らん。内臓や筋肉や骨の問題なら、俺よりもダニエルの方が適任だからな。金の話は、それからだ」

宗教の教えを説く者らしからぬ鋭い眼に、執事は顔色を変えるほどの動揺を見せたが、咳をついてごまかした。

「そこまでいうのでしたら仕方ありません。案内させていただきます」

 執事は踵を返すと、玄関正面にある舞台のような階段を上がって行った。ザイルもそれについて行くと、十字の廊下を右に曲がった奥の部屋に通された。

 そこには、鎖と南京錠で武装された木の扉があった。扉は木とはいえど安宿のような大人一人で蹴破れる物ではなく、一枚の固い樫の木で造られた丈夫な物。鎖や南京錠はあくまでも扉を簡単に開かせないために付け加えられた備品である。

 執事は三つある南京錠の一つを手にかけた。

「お嬢様はひどく不安定のようで、メイド達では手に負えず私どもはこうして閉じ込めることでしかお嬢様を抑えられません。私としても、お嬢様には栄養のあるものを清潔なテーブルの上で頂いて欲しい。外でいつものように花を愛で、鳥のように広大な世界を謳歌してもらいたいのです」

 ザイルは特に同情する様子もなく、執事の言葉にただ相槌を打った。

「どうぞ。私は外でお待ちしております。何かありましたら、すぐに手を貸しますので」

「いいよ。下手な手だしで怪我人が出ても洒落にならん。いざとなったら逃げ帰るから、鍵をかける準備だけしといてくれ」

 ザイルは執事を退けさせて、檻に似た重い扉を静かに開いた。扉は腐った大木が軋むような低い音を響かせて、ザイルを誘うように黒の部屋に光を射す。ザイルは間を置かず、暗がりに身を入れた。そして、後ろ手に光の入り口を閉じると、そこに闇が訪れた。

「ロウソクでも用意すべきだったか… …」

 今更引き返してロウソクをくださいなどと言えず、一人でトイレにいけないガキみたいに戸から離れられずに手をふらつかせて挙動不審な行動をとるしかない。

 しばらくすると目が慣れ、薄暗くはあるが朝焼けが昇るように目の前の景色が浮き出てきた。カーテンからわずかに零れる日の光によって映しだされる部屋は、獣が這いずりまわったかのようにひどく荒れていた。床にしかれたカーペットの類も引き裂かれ、ボロ雑巾にされている。その上には首のもげた人形が放置され、割れた水晶の目は日の光を反射してぬめりとひかり、こちらを睨む。散開した花瓶の破片やナイフで刻まれた本の欠片のある向こう側には、天井付きのダブルベットが混沌とした部屋に咲いていた。

 そして、カーテンの切れ間から覗く光の線がベットの上を照らし、かろうじて少女らしき姿が居るのを目視することができた。

「こんにちは。もしくは初めまして、か」

 ザイルは軽く挨拶を交わし、隣で横たわるイスを助け起こし、座った。

座ったまま、前にかがんで手を絡め、少女の返事を待った。

 しかし、返事はない。少女は闇夜に潜む獣のように双眸だけを向けて、何かしらの行動をとる気配はない。

 ザイルは無視に近い反応など気にも留めず、自己紹介を始めた。

「俺はザイル・エルブラン。ザイルでいい。神父様と呼んでくれても構わないが、少し恥ずかしいな。君の名前はダニエルから聞いている。シフォン・レクターンだね。良い名だ。俺の名前と違って、白くて清潔な感じがする。君も、そう思うだろ」

 ザイルは独り勝手に語って、シフォンに相槌を求めた。普通なら、うなずいたり肯定したりするところだが、彼女は石像と化して沈黙を続けていた。

 ザイルは思う。口を閉ざしている患者は健常異常に関わらず、警戒のため本心を探りにくいと。彼らは総じて他者の動向を気にし、普段以上に行動を制限している。全くの赤の他人であるザイルもまた、同じである。そして、警戒心や懐疑心が口を閉ざすという形で表れることを、ザイルは何度か経験して知っていた。

「俺が何をしに来たかは知っているかもしれない。だけど、勘違いしないでほしい。俺はただ君と話をしに来ただけだ。執事は君のことを心配して、話し相手に俺を呼んだんだ。それに、君の両親も… …」

 ザイルはそう言いかけて、乾いた口が開いたまま次の言葉が紡げなかった。

 会話がそこで途切れたのは、シフォンが明確な反応を示したからに他ならない。

 彼女はザイルが口にした単語で起動したかのように、ベットの上で起立した。まるで呪詛に引き寄せられた悪霊が導かれるように、シフォンは言葉を発した。

「父さんと母さんは殺された」

「… …誰に」

「悪魔」

「悪魔って?」

「知らない。でも、悪魔は私に付きまとうの。殺してやる。殺してやる。って私に囁くの。私、死にたくない。だから、嫌だって言ったら、悪魔が言ったの」

「何って」

「お前の父さんと母さんを―――」

 シフォンの口が止まった。彼女の全身は極寒の地に晒されたように小刻みに震え、次の言葉を紡ごうとはしない。

「どうするって」

 ザイルが話を促そうとしたその時。彼女は突如豹変した。

「殺してやるって!!」

 その身に別の霊魂を降ろしたかのような、先ほどまでのおとなしい少女とは思えぬ叫びだった。

 シフォンはベットの持つ反発力を跳躍に変えて、跳んだ。

 ザイルは危険を悟り、素早く身構えるために椅子を蹴る。椅子は壁に当たって跳ね返り、地面を打つ。

 黒耀の獣となったシフォンは、両手両足で着地する。同時に、雑多な地に転がる何かをつかんだ。その何かは長細く、陽光に反射して銀色の光を奏でた。

 ザイルが瞬時に銀のナイフだと察したのも遅く。狂気の矛先はザイルの動体視力をかいくぐって、突き刺さる。

「っ!」

 腹部を狙った彼女の切っ先が届くより先に、ザイルは彼女の肩を押し戻すことに成功し、そのまま距離を離した。

 すぐまた返しの攻撃を予期したザイルは、再び構えをとった。だが、シフォンは動かない。

 その代りに、シフォンは両の手で顔を覆い、嘆きの悲鳴を上げていた。

「私は悪くない。私は弱くて、何もできない。何もしてない。悪くない。悪いのは悪魔。悪魔なの。あくま。私は、私。悪魔は、悪魔。悪魔と私? 違う!!」

 シフォンの発する吐息は言葉というより、呪い。音と言うよりも刃物。叫びは金切り声となって消え、殺意はザイルに向けられる。

 ザイルは常套手段では、部屋の外に出る前に刺されると判断し、意を決した。

 彼の右の拳が正面に掲げられ、周囲に、焦がし砂糖のようなねっとりとした空気が広がる。

「悪魔か。悪魔ならここにいる」

 嵐によって木の葉が揺れる音が、幾重にも重なって部屋中を駆け巡った。それは、ザイルの身体の奥底から這いずりだす、阿鼻叫喚の木霊だった。

 ザイルの顔に目を移せば、右の肩から黒い蛇のような色が顔を目指し、波模様を描きながら進む。肌を伝い、黒き蛇は数秒たたずにザイルの素肌を部屋の闇と同化させた。

「ひっ」

 この世のものと思えぬ禍々しいモノを目撃して、シフォンはか細く鳴いた。その一時、シフォンから殺意は消え、隙が生じた。

 ザイルは急いで踵を返すと、扉のノブを捻り、開けた隙間に身体を滑り込ませた。

 戸外には、中を気にしていた執事が聞き耳を立てる近さにいた。ザイルは執事とぶつかりそうになりながら、すぐさま扉を閉めるよう指示した。

 その時、ザイルの黒染めの肌はまだ右肩に引いていく途中であった。もし、執事がザイルの聖職者らしからぬその黒き姿を見ていれば、驚くどころか依頼をまかせようとはしなかっただろう。あいにく、執事は南蛮錠を掛けるのに躍起になって気づくことはなかった。

「いかがしました」

 扉を閉じて一息ついてから、執事は中の事情を聞いてきた。

「少し刺激しすぎたせいか、暴れられたよ。大丈夫、御子息にはかすり傷つけてはいない。だがあそこまで暴れるとは」

ザイルは頭の中で物事を整理する。シフォンは父と母という単語に強く反応し、精神的に追い詰められている様子であった。これは、執事に訊いたほうが早そうだ。

「尋ねるが、御子息と両親の間に何かあったのか」

 シフォンの言葉を鵜呑みして言うのも失礼に当たるため、遠まわしに執事に鎌をかける。

「何か、と言いますと」

「例えば、両親に不慮の事故があったとか」

「… …」

 心当たりがあるどころか、正解だったようだ。執事の沈黙は、そのままザイルの問いが肯定されたことを示している。

 ザイルが治療のため、と促すと。執事は細々と語り始めた。

「二か月前。新月の暗い晩でした。この館は名も知れぬよそ者に盗みに入られました。そして、偶然居合わせてしまった主様と夫人様が賊に襲われ、二人ともお亡くなりに」

 執事は途中、悔しそうに顔を崩した。

「お嬢様は居合わせてしまったものの、幸いにしてクローゼットに身を隠しておられたので見つからずに済んだようです。しかし、その日からお嬢様はひどく、ありていに言えば常軌を逸するほど気を病むようになられました」

 シフォンの精神の病に原因があるとすれば、それに間違いないだろう。ただし、ザイルも一応は神父。死という悲劇が交わる以上、悪魔や霊魂という理由づけもできなくない。

 この場合、ザイルにとって悪魔の仕業でも脳の異常であろうと関係はなかった。彼は医師ではないのだから。ただ、今までのシチュエーションを踏まえた上で可能性を解くだけだ。

「おそらく治せるな」

 ザイルはあいまいに切り出した。

「根拠は、昔にも似たようなケースがあった。としか言いようがない。ダニエルが居れば納得いくようにまくしたてられるが、俺はそういうのが苦手だ」

 表裏がない言いようだが、唯一生き残った血族を任すにはあまりにも頼りない文句だった。執事もこれには気を悪くして、一瞬眉をひそめた。けれど、口から出た返答は意外にも表情とは裏腹であった。

「分かりました。お嬢様を、お願いします」

 ある程度答えを渋るかと思っていたザイルにとって、執事のこの言葉は予想外だった。

「ザイル様が来る前にも、幾人かお嬢様の治療を試みた方もいました。医師、エクソシスト、シャーマン、中には詐欺師まがいの者もいました。どなたも見栄と威勢ばかりはよく、実力が備わっているとは思えませんでした。ですが、ザイル様だけは金銭や名誉の損得もなく、『絶対』を使うような虚栄心もありませんでした。だから、私は信じようと思います」

 執事はそう言って、深々と頭を垂れた。おそらくその礼儀は、ザイルの前任者にも何度も向けられた社交辞令なのだろう。けれど、苦労の数ほどある白髪の数が、執事の真摯な姿勢を示していた。少なくとも、ザイルはそう思えた。

「俺が患者を治して、お前が金を払う。他の神父と違って、俺は現実的だ。その分、神の仰せのままにだなんて無責任なことは言わない。それだけだ。それ以外に何もない」

肩書きを担いでいるくせに、ザイルの一言一言は自由気ままと同然で、歯に衣着せぬ貫徹した言葉だった。生涯ジェントルマンであり続けるよう求められている執事にとって、彼の言動はどれも奇異に思えたが、頼ってみたくなる魅力もまたあったのだろう。

そうして、ザイル・エルブランの治療は始まった。


 春の陽気を思わす日光が窓から射しこみ、ザイルが寝ているベットは温かい干し草に包まれたかのような居心地の良い場所に変わっていた。そこは、家具や机の飾り気もなく、つまらない造りをした殺風景な部屋である。ただし、採光と景色だけは抜群で仮住まいとしては悪くなかった。

「ふう」

 短く、冷たい息を吹きかけるような溜息がザイルの口から洩れた。別に今彼が不機嫌というわけではなく、生命の鼓動さえ聞こえてきそうな天気で憂鬱になっているわけでもない。もっか現在ザイルが集中治療しているシフォンについて考えてのことである。

 執事から依頼を受諾してから、ザイルは日に一度の頻度でシフォンとの会話を続けている。まずシフォンの警戒を解く、というその行為はザイルの持つ力を効率よく引き出すために必要であった。そのために、信頼を勝ち得る必要がどうしてもあった。

 だからと言って、毎日無理強いを強いて会っても意味がない。日によって、たった数分で終わることもあれば無言で一日を使い果たすこともある。根気との勝負だ。

 だというのに、この五日間ザイルはシフォンから友好的な言葉を聞いておらず。結果だけ見ると、どうしても悲観的な気持ちになってしまう。

 原因は分かる。初対面が最悪だったということだ。

 社交場にしろ、道端にしろ。人間は第一印象、つまり顔合わせでの外見や言動や挙動、しぐさや癖、これら全てが後発的な関わりあいに影響する。もちろん関係を持ち続ければ変わるかもしれないが、それでも後で尾を引くだろうし接触を拒まれるような状況に発展する可能性もある。

 ザイルは悶々と頭の中で思惑を煮詰める。だが、答えなど最初から自分の中に埋っているはずなど無い。堂々めぐりもいいところだ。

 ところで、シフォンの容体の方も相変わらずだ。この五日間まともに彼女の笑顔を見た覚えがない。精神面的に言っても笑ってもらった方が会話も治療もよく進む。それに、単純に彼女の笑顔がどんなものかという興味もザイルにあった。

 笑顔も見せないほど病んでしまったシフォンだが、それでもザイルが経験した病人の中では最も酷いわけではない。かつて、ザイルが診た患者の中にも悪魔の仕業としか言いようのない狂動を起こす者がいた。名はスーザンという女性だった。彼女はシフォンと同じく、裕福な家庭の生まれであった。

 シフォンと違っていたことは、スーザンの異常の理由が判明しなかったことと、理解しがたい症状を持っていたことだ。

 スーザンは突然奇声を上げて誰かの名を呼んだり、目の前のザイルなど目に入らぬかのように遠い眼をしてそこにはいない何かに語りかけることもあった。他にも、彼女はカーテンを天使の羽根と言い。枕のことをローストチキンと主張してかぶりつき、ザイルを困らせた。そして、ザイルのことをアヒルの子と呼び、スーザンは自分の親よりもザイルを慕ってくれた。一時期は遠回りしながらも彼女との会話が成立することもあり、回復の兆しを見せてくれた。

 だが、スーザンが正気に戻ることはついに一度もありはしなかった。

 スーザンは最後の日、ザイルの目の前で、窓枠の外に転落し、亡くなった。

 正確にいえば、スーザン自身が窓の外に身を投げたのだ。

 スーザンは治療中、おもむろに窓の戸を開き、青い空から流れ込む澄んだ流水のような風を全身で受け止めて、こちらを顧みた。その時最後に見せた彼女の顔は、ザイルが初めて見る満面の笑みだった。

 太陽の白い光を受けた彼女の顔は、聖母のように優しく輝いていた。深緑の森を思わす黒くて長い彼女の髪は風に踊り、高原の若草のようにたなびいて、息をも飲む美の絵画の一場面を彷彿とさせた。彼女の末日の姿は、日を重ねても薄れることなく、ザイルの瞼の裏に残っている。

 彼女の中でどんな感情が動いたのかは、今でも分からない。ただ、つきものが落ちたかのような彼女の姿は妖精のように踊り、ヒマワリに似た笑顔を作って、楽しげだった。これから死に向かうというのに、あまりにも対照的に明るくて、これまでの生に微塵も後悔など無いかのようだった。

 ここから見える景色も、スーザンの居た部屋と雰囲気がそっくりだった。もしくは、それ以上と言っても過言ではないくらい造形的な美を有していた。

 窓というキャンパスにふりまかれた色は、瑠璃色のビーズのように輝く園に彩られて、一個の世界を創っていた。畑を超えた場所の農村と、白いモヤによって切り分けられた山脈が段々と連なり、一層庭の青を際立たす名画の額となっていた。それは、そこらの三流の画家が描いた絵などと比べ物にならないほどの値打ちものだった。

 おそらくこの庭を造るため手入れしたのは、来るときに顔を合わせた小麦色の花屋だろう。園芸の技術もさることながら、単一色の花をよくもあれだけ揃えられたものだ。雇っていたこの屋敷の主はかなりの花好きだと聞いているが、ずいぶんと気前の良い金の掛け方だ。うらやましい。きっと機会はないだろうけど、ザイルも一度くらいは真似してみたいと思う。そう考えてから、やっぱり止めとこうとも思った。

 そういえば、シフォンも花が好きらしい。執事が確かそう言っていたような気がする。察するまでもなく、両親の影響なのだろう。

「待てよ」

 ザイルが閃いたのはそんな時だった。思いついたアイディアは彼にとって画期的と呼べるものだった。だが、他人の目からすれば欠陥だらけの爆弾のような危険な代物で、本来ならもっとよく考えるべきだった。

 けれどザイルには時間も他の選択肢もない。もしザイルがダニエル程に機転がきくのであれば、手紙一つで物事を解決できた彼のように容易く解決していただろうが… …。持てる者とはいつの世でもうらやましい。

 愚痴を言っても仕方ない。ともかく、ザイルは部屋の外にいたフットマンを捕まえて、頼みごとを一つ告げた。頼まれたフットマンは何のためにと問いたくなるのを押し殺して、紳士らしく忠実かつ寡黙に動いてくれた。

 しばらくして、ザイルの部屋に一冊の本が届いた。


 地獄の底の色をした部屋に、泥と死臭で構築され、血肉で晩餐を上げるような戦場みたいなどす黒い床と白い棺のような寝床に囲まれて、シフォンは横になっていた。相変わらず虚ろな光を眠たそうな瞼の間にたたえ、脱力した体をシーツの上にあずけていた。

 シフォンが憂鬱としていると、訪問を知らせるノックが響いた。音は、耳に肌に舌に脊髄の芯にまで届き、それを大脳の片隅で聞いていた。

 返事を待たずに、扉が開いた。

「あー、あぁ… …。シフォン、キクの花言葉を知っているかい」

 シフォンは死骸の骨のように白く薄い指を、微弱な電流で痙攣するカエルの足みたいに動かして、反応した。そして、空気の抜けていた上体を立て、背骨を半回転させてザイルと向き合う。

「キクの花言葉はね。『私を信じて』だ。」

 ザイルはそう言って、シフォンの間近に近づいて、低い彼女の膝枕の上に一輪の黄色い花を置いた。それから、ザイルはシフォンのご機嫌を伺うように彼女の顔を期待のまなざしで見つめる。

 だがしかし、シフォンの眉間は内側に寄っていて、明らかに不機嫌だった。

「これパンジーだよ! ふざけているの。低能なの」

 シフォンはパンジーの花を摘まみあげると、ザイルの顔に投げつけた。勢いが強かったせいか、ザイルの顔面で受け取られたパンジーは破れた羽毛布団のように弾けて、ザイルとシフォンの間を雪のように舞う。

 かわいそうに、黄色いくすみと変わったパンジーは誰にも惜しまれず、最後に残った茎だけが悲しそうに地をはねた。

「パンジーは『私を想って』だよ。怖い。想うなんて、ずっと考えるってこと。イヤよ。キライよ。私は、私しか認めない」

「すまない。図鑑に載っていた花と似ていたから、間違えてしまった」

「知ってるの? 間違いはウソツキの始まりよ。ウソツキは囚人なの。囚人は言語も思考も自我も抑えられているの。貴方に、お似合いだわ」

「気を悪くして、本当にすまない。今日は、帰るよ」

 ザイルは肩から脱力するほどの落胆を感じながら、引き返そうとした。

「イヤよ!」

 だから、シフォンの方から制止をかけるなんてことは夢にも思わなかったし、実現するなどということもありえなかった。少なくとも、ザイルはそう考えていた。

「イヤよ。ダメよ。貴方は知らないの。花は語りかけてくれるのに。貴方は嘘ばかり聞こうとしている」

 シフォンは自分からカーテンの黒い檻を剥いで、外の景観をあらわにした。ザイルもシフォンも視界を白に染める太陽の日に目を眩ました。それでも、彼女の言葉は止まらない。

「いい。あれが、シクラメン『内気』『恥ずかしがり屋』。隣の花壇にあるのは、フリージア『あどけなさ』よ。聞いてるの? 貴方。私は、私。私は私のために言っているのだから、私のために聞けばいいの。貴方は、貴方。貴方が聞けばいいの」

 ザイルは言い返せず口をつぐむ。だって、うなずくしかない。彼女は正気としか思えない、無邪気な笑みを浮かべていたのだから。それは、群れをなして爛漫と咲く大輪とはまた違い、静々と咲いた野花のような控えめなかわいさという印象を覚えた。

「一糸纏わぬビーナスだって、花だけは頭に挿していたもの。花は服よりも大切なの。私にも貴方にとっても、切って切り離せぬ皮膚なのよ。それなら、花言葉は私たちを指すそれ、なの」

 正しいような破綻しているような理論、ザイルにはどちらであるか判断しかねた。どちらなのかと考えること自体が、偽りなのかもしれない。ザイルとシフォンが話し合い。ただ笑えればいい。必要なのは、言葉と存在。それ以外は、無駄な書き足しだ。

 そうだ。ザイルが居て、シフォンが喋り、一筋の光がある。他はいらない。アフターヌーンティーをたしなむ程度のケーキと紅茶は欲しくなるかもしれないけれど。

 でも確かなことは、今のシフォンが望んでいるのは難しい学説でも高価な薬でもない。花と、宛名と手紙を乗せた一束の花を受け取ってくれる誰かを。彼女は心から欲していたのだった。


 彼女が正気に戻るかどうか。考えてみた。

 その前に、正気とは異常とは何だろう。この時代においては、著しい精神的欠陥が見て取れる行動をとる者を指す。だが、それは見る者にもよる。

 例えば、遠い異国の地においては、ジャングルの中を生活の営みとする原住民は黒い肌と半裸に近い姿をしている。これが彼らの生活だ。

 例えば、宗教的な道理で性交や生贄を聖なる儀式と呼ぶ。これは彼らの文化だ。

 例えば、先天的障害を持ち誰かの助けなしに生きられない身体であっても、健常者以上に生きようとする。それは、彼らの人生だ。

 たとえシフォンが治ったとしても、ザイルの知っている彼女は二度と戻ってこない。そして、完治した彼女は執事や家柄が求める姿でしかない。本当の彼女はいつまでも忘却される。生きていると言えるかどうかも分からないほどに自己を磨滅させてでも、彼女は正気と呼べるのか。

 ザイルはいつも思う。この黒い右手が、異形の力が、他人の人生を奪ってもよいのかどうか。人の温もりを、大切なものを、灯を、持ち去ってもいいのか。

 人の心の礎である記憶を犯すことを、シフォンも神も許してくださるのか。

 否。悩んでどうする。必要な時にだけに使えば、できれば彼女から奪わずに済むようにすればいい。できれば彼女の心が消えてしまわぬよう頑張ればいい。できれば… …。

 おい。そんな弱気でいいのか。


 憂鬱に目を覚ました朝は、ザイルをせせ笑うほどに陽気な天気だった。ステンドグラスに似た窓からは歪んだ光が射しこんで、大階段を虹色に染め上げる。ザイルは断片的な十色に溶けて、背景に一体化していた。この空間だけが時間の中から浮いてしまったかのように、瞬く空気は質量を得て伽藍とする。動いているのはザイルのみを除いて誰ひとりいない階段を、彼は芋虫みたいにノソノソ歩いた。

 この屋敷では、朝早くから朝食を出してくれると言うのでザイルは毎朝早く起きて働きありみたいにせっせと胃袋に食べ物を運んでいる。だが、今日は気分がすぐれない。もう一度寝なおそうか。寝れば、次起きるのは昼飯前だろう。一日三食も食べられるのだから、一食抜いても問題ない。

 しかし、客扱いとして来ているとはいえ流石に寝過ごしは常軌を逸していると考え、ザイルは眠気眼をこすって気を引き締める。だいたい、朝の礼拝に比べれば朝飯を食べるなど苦行でも何でもない。

 それ以前に、祈りを苦行と言う時点でザイルが普段の元気な脳細胞を持ってはいないのは明白である。誰の目にもザイルが休息を必要とする身体であることは明らかであったし、瞼の下は黒く、肌は水気なく乾燥気味。顔は数日前と比べて、落ちぶれたとある貴族の軟弱者よろしく痩せこけている。けれど、今日一日はザイルを待ってくれる気はないようだ。

「良かった。ここにいらしたのですか」

 下った階段の麓にいたのは、先日ザイルの頼みを聞いて本を探してきてくれたフットマンだった。童顔な彼と不釣り合いの華美な上着に膝丈ほどしかない半ズボン、髪が金髪のせいか利発な少年といった感じだ。それでもフットマンはザイルの頭一つ分高いので、全体的に見れば青年ぐらいと思える。

「先日は御苦労。おかげで御子息の完治も間もなく、かもな」

 語尾をごまかしたのは気休めを言ってもしょうがないが、労をねぎらうには良いと感じたからだ。実際は、ザイルがシフォンの信頼を得て精神的に落ち着いただけであり、完治と言うには彼女の精神の深淵部はまだ曖昧すぎる。いつ再び発作を起こさぬとも限らない。

 だが、その不安は既に起こりつつあるものだった。

「そうでしたか。いや、それよりもシフォン様が!」

 シフォン? 彼女は二階の部屋に閉じ込められたままのはずなのに、何故フットマンは下から来たのか。疑問はザイルが問うよりも先に音になって返ってきた。

 食事のテーブルが置いてある部屋から、食器棚をひっくり返したような破砕音と鼓膜を裂く甲高い悲鳴が聞こえる。雑多な人ごみに響くような怒声も、それに混じっていた。

 ザイルは階段の踊り場を蹴った。フットマンの横を一陣の風のように通り抜け、声の聞こえた扉を乱暴に押し破る。飛び込んだ部屋にいたのは案の定、シフォンだった。

 シフォンの周りには執事やメイド、他のフットマンが円を描いて囲んでいた。シフォンを強引に取り押さえようとしているのか、彼女が手に持つ銀のナイフを気にしながら背中からフットマンがにじり寄ろうとしていた。

「俺の仕事だ。手を出すな! 貰う金の分だけ働こうってのを断るのか!!」

 ザイルの一喝にフットマンは怯み、執事はやむなくといった感じで後退した。

 さて、ザイルにはシフォンがここにいる理由や原因を知らないが、訊いている暇はなさそうだ。ざっと彼女と部屋を見比べて状況を把握する。

 まず目に付いたのはテーブル、貴族邸によくありそうな縦に細長いテーブルにシーツを被せてある。その上には、一人分の朝食分が置いてある。暴れだした時にこぼれたのか、純白のシーツはジャムと紅茶で鮮血を浴びたように変色している。

 そして、シフォン。彼女は見たとおり、初めて会った時のような発作を起こしている。手には装飾を施され、シンプルな曲線を伸ばす銀のナイフを携える。部屋と人数を変えただけで、そのまま最初の日に戻っている。これまでの努力が霞んでしまうような二度見の悪夢だった。

「ザイル… …」

 それでも、あの日は彼女から話しかけてくれるなんてこと。ありはしなかった。

「私が悪いの?」

 問い。何に対するかは問題ではない。彼女はザイルに救いを求めている。抗えぬ感情に襲われ、自分が崩れてしまいそうな中で、自分を頼ってくれている。

 それを裏切るわけにはいかない。

「違う。シフォンの言うとおり、シフォンの中には悪魔が巣くっている。俺は君の助けになりたい」

「助けたい? 何から助けてくれるというの。私は、私。私が崩れてしまったら、残るものなんてないよ。私は花と花言葉、それに無垢。きっときっときっと、触れれば砕けてしまう花弁みたい。ダメよ。私は穢れてない」

「シフォン… …」

 彼女は現在の精神状態に固執している。まるで何かから逃避してしまいたい、と訴えかけるようだ。自分を、私と悪魔に二分割して、彼女はいったい何から逃げようとしている?

 真実が、事実が、彼女が、現実とかみ合わない。酷く出来の悪い聖句を書き上げたようで、答えがはっきりとしない。

 でも、一つだけ正しいと思えることはある。

「俺は、シフォンの本当の姿は知らない。だけど、花言葉を教えてくれたあの日、君の笑顔は、魅力的だった。庭に咲いたどんな花よりも綺麗で可憐で、比べるなんて間違いなんて思えるくらい。俺は、君を知らない。でも、君が素敵な笑顔を持っていると知った。俺は、いつも笑っていられるシフォンを守りたい」

 それは返答とも、解答とも言えない。けれどザイル一個人としての純粋な願い。他者の幸せを願う勝手な思いだけど、決して同情などではない。ただ、彼女だけにはザイルの気持ちを理解して欲しかった。もしも彼女という存在が空虚の底に沈んでしまうとしても、後悔しないための、どこまでも利己的な判断だ。

「分かってるよ。ザイル。分かってる。分かりたくない。私は、私だけに成れない。私は、いろんな私。――― ―――嫌だよ。怖いよ」

 孤独に震える彼女は、嵐の中で揺れる梢のようで、すぐにも心の根が折れてしまいそうだった。時間がない。迷える彼女の魂が原型を留めているうちに、救済が必要である。彼女がザイルを認識し、手を差し伸ばす気力がわずかに残る今がそうだ。

「シフォン。俺はこれから君の治療をする。心の奥底から、悪魔を引きずり出す神様の業だ。だけど、そのために俺は黒を纏わなければならない。心配しないで、俺は悪魔を狩るために悪魔のようになるけど、堕ちるわけじゃない。君の代わりに、君の業を引き継ぐだけだから、少しだけ耐えてくれ」

「分かんない。分かってる? 私は、私。ザイルの信じてくれる、それ。聞いてくれたよ。私の言葉。怖がらなかった。私の、闇。信じるよ。ザイルがしてくれた」

「ああ」

「聞いてるの? ザイルは私の一部だから、私を覚えていなきゃいけないんだよ」

「ああ」

「きっとだよ。きっと」

「ああ」

 シフォンはザイルを見ていない。ザイルはシフォンを見ていられない。黒が、漆黒の生き物が、ザイルの肌を駆け上がる。ザイルを塗った黒は、顔を鉄兜のように包み隠す。目と口があったと思わしき場所だけが、ふつふつと煮えたぎるマグマのように浮き彫りになった。赤い三日月を思わすそれらが、黒い仮面と共に起き上がり、シフォンを確認する。

「神と聖教の名の元に、神託を司りし黒腕を解放。同時に、彼女の深層を犯す過去の感情の摘出を始める」

 ダニエルはこの作業を、吸うと例えた。過去の感情を色と呼び、汚色にまみれる俗世の人間を救う天使だと、彼はザイルをからかった。黒い天使など、地獄で氷づけにされた堕天使ルシフェルと変わりない。ダニエルは違うと否定した。君は、悪魔を狩ることを宿命づけられた大天使ラグエルだと。

 吸う。というようにこの作業は見た目の単純さ通り、高い技術を要しない。頭部に手を当て、彼女の中から精神異常の原因である記憶を取り除くだけだ。記憶と言っても、記憶に付属する感情だけ。記憶障害などの副作用はない。

 だが、記憶に宿る思い出は人の精神の基盤であったり、思想の原点でもある。家族と過ごした湖畔での日々、友との他愛のない会話、甘酸っぱくも苦くもある初恋など、自分という人間を形作るそれらを価値のない灰色に変化させる。

 薬も過ぎれば毒へと変わる。毒と知っても、飲まなければ待つものは知れたこと。それならば、喰うしかないだろう?

 ザイルは紙を舞い落ちるような優しさで、手のひらをシフォンの髪の上に置いた。一本一本の繊維の向こう側から、彼女の温もりと硬い頭かいを感じながら、ザイルは奥の奥に潜む脳に狙いを定めた。

 色が、ザイルの右腕から流れ落ちる。液体はシフォンの頭皮に浸透して骨を越え脳髄に到り、怒りや哀しみや喜びを吸い上げていく。慈悲など無い、工業的な部品が唸り上げて動作するだけの、無味な動き。余韻も残さず、感動も与えず、無痛の苦しみだけが彼女に与えられていく。

 引きずり出されたシフォンの色は黒に融け、ザイルに咀嚼される。消化器官の代わりに黒を通じて、シフォンの感情はザイルの頭の中に流れ込み、消化された。完了を知らせるようにシフォンが痙攣すると、汚物の液体は実直に主の元へ戻った。

 シフォンはこと切れた操り人形のように四肢はばらけて、身体の統制を失う。唯一という武器である銀の牙もこぼれおちて、無力な彼女は短いラストダンスを踊った。倒れる寸前に、ザイルはシフォンの身体を受け止めた。空になってしまった彼女の身体は想像以上に軽く、細く、小さい。

ザイルは片手で受け止めても足りる、その儚い重さを逃がさぬように、固く抱きしめた。


 散らかった部屋は掃除が終わり、長テーブルと数えるほどの椅子しか残っていない。片づけられたはずなのに、人工的な清潔さが先ほどまでの騒がしさをにじませている。

「こちらが、お約束の代金です」

 泥のように疲れて溶けてしまいそうなザイルは、薄い鼓膜の内側で執事の言葉を聞いた。テーブルに置かれたのは、旅行に用いる革張りのトランクバックだ。中に入っているのが全て札束なら、ザイルが向こう五年は安心して暮らせる額である。

 しかし、あまり興味はなかった。

「中身は確認なされないのでしょうか?」

「信じてくれた相手を信じるのは当然だろう。ま、商人に言わせれば馬鹿正直の阿呆だがな。信用商売なら、お祈りの方が良いだろうし。その代りに」

 ザイルは右の拳を執事の方向に押しつけて、三本の指を立てた。

「三つだけ。質問したいことがある」

「… …ザイル様。最初に申しましたことお忘れではありませんよね。我々は外部の人様に噂立たされることを好みません。ですから」

「分かっている。だがこいつはシフォンのためだ」

「お嬢様のため? ザイル様が何をおっしゃられているか私には存じ上げません。お嬢様はすっかり正気に戻られましたし、むしろ昔よりも大人らしくなられました。どこかの王族の遠縁に嫁がせても申し分ない程ではありませんか。それが? これ以上興味本位に騒ぎ立てる理由なのですか」

 お家のため、名誉のため。そう言った一人の人間から切り離された価値観や利己主義は分かっていたつもりだった。幸せなんて、所詮は他人の都合でぶち壊せる。ぶち壊した本人が言えた義理は一つもないけれど、残念だ。

 それにシフォンにとって何が正しかったのか、知る術は今となっては無い。けれど、知らなければいけない。彼女の心と記憶を。彼女の思い出の一部を奪ったからには、責任放棄で失くした彼女を忘れるわけにはいかない。

「打算的に行こう、執事。主を亡くしたお前が守っているのは家の秩序と名誉。それだけだ。俺が訊きたいのはYesもNoも真実味がない解。答えてくれなくたっていい。黙して語らずも一つの応えなんだからな」

「ですが―――」

「だから、打算的に行こうと言うんだ」

 ザイルは無造作に革張りのトランクバックを一つ執事の目の前の地面に落とす。床に響いた低音が、鉛の塊のように重い証拠を示した。

「一つやる。もちろんここの家に返すのではなく、執事個人にな。簡単な取引だ。たった三つの戯言聞くだけの安い仕事だぜ」

 執事の考え方の根本がどこを基盤としているのか定かでない以上、これはいわゆる賭けである。もしも家に忠実に仕えることだけしか頭にない実直な性格だとすれば、こいつは逆効果でしかない。ザイルは、根回しについても定評のあるダニエルのことを思い出して、再びうらやましいと思った。

 執事は困惑した様子を少し見せたが、すぐにザイルの不可思議な目論見と得られる対価の間で揺れるように頭を悩ませ始めた。それで良い。損得勘定を考える奴はそいつで動ける人間だ。焦らなくとも、向こうから進んで喰いついてくる。

「… …」

 執事は無言で動かなかった。ただし、その両手で床に落ちていた革張りのトランクを握りしめて、何事もなかったかのように棒立ちして、だ。どんなに無関心な顔をしていても、薄皮一枚の理性の中には人間らしいものがあったらしい。

 ザイルは執事に何かと責める発言はせず、純粋に必要な問いだけをすることにした。

「一つ目は、主も夫人も無くなった場合。全責任を負うのはお前か? 責任というのはもちろん、屋敷の管理や食材にワイン。それに財産も、だ」

執事は黙したまま、うなずく。

「二つ目。事件は二か月前の新月の晩と言ったか。主と夫人の亡くなった現場を、本当にシフォンは見ていたのか」

 執事はこれも、同じように返してきた。

 このまま単一の解の繰り返しになるかと思えたが、次の問いだけは反応が違った。

「最後に、その晩の出来事。実は、強盗なんていなかったんじゃないか」

 執事は困惑した。それは審判の場所で嘘を見抜かれた容疑者のように、驚愕と絶望が織り交ぜられた罪人の顔にそっくりだった。嘘付きは囚人だ。シフォンの語ったことはあながち真実であったのかもしれない。

「シフォンの病に関しては、当然口外されぬよう閉じ込め、漏らさないのが当たり前だ。だが、両親の死と強盗という不埒者を野放しにするのは納得いかない。なら、誰にも知らせなかった理由がある。ばれてはいけない事実が、あるんじゃないのか」

 執事の感情を見せないとした顔から、風を得た種火のように燃え上がるモノがあった。それは憤怒や嫉妬、復讐心どれとも違う。使命の元に揺らめく敵意という炎だ。

 触ってはいけない堪忍袋の緒に手をかけてしまい。ザイルはそれ以上の言葉を引っ込めた。

「ザイル様。貴方が私どもの弱みを握ったという考えを持つのなら、間違いであると訂正しましょう。私たち、少なくとも貴方のいう治療と呼ぶ現場に立ち会った一同は、貴方のアレを異教の儀式であると証言しましょう。悪魔の形相、異端の力、そして個人の裁量で資金を受け取る傲慢さ。いくら一部の上層階級に認められていたとしても、貴方の邪悪さを大衆に晒せば、どうなるか承知のはずではありませんか。公然と診療所を構えられないのもそのためでしょう。もしも、ここで見聞きしたこと口外するつもりならば、その時は―――お分かりでしょうね」

「真偽もはっきりしないことを言いふらすつもりはない。汝の隣人を信じよ。私はひと言たりとも語らず、黙秘しよう」

「よろしく、お願いしますね」

 後はひと言も交わさず、感謝の意も別れの言葉にも送られず、ザイルは独り屋敷を発った。

帰り際の道すがら、締め切られたカーテンの向こう側から視線を感じたけれど、誰であったのか知る機会は、もう二度とないだろう。


彼女の色は、黒濁りの赤と少しの青だった。それがザイルの知れた彼女の感情の霞みだ。

 赤は炎、怒りや憎しみを表わす。

 青は、哀しみと憐憫、それと寂しさだ。

 両親はシフォンを置いて旅に出かけることもあったから青は分かる。短い期間とはいえ、家族と離れるのは心に隙間風が吹く原因になる。だが、赤は何だ? 両親を殺めた犯罪者に対してか? 違う。あくまでも病気の源泉となったものはキッカケの日ではなく、彼女の過去に長い間蓄積していたものだ。それらが、殺人という行為を目の当たりにして崩壊しただけだ。いや、それなら殺人を見ることがキッカケになるかどうかも怪しい。

 執事の反応を思い出してみれば、答えは導きだされる。そして、ザイルが診た彼女の身体にもヒントは潜んでいた。

 殺人犯は部外者ではない。当事者は当事者の行為によって破裂させた。つまりあの貴族邸の主と夫人を殺害したのは、シフォン本人である。

 花言葉について話を聞いた時、ザイルとシフォンは図鑑を広げ、良く分からない単語や理論を交え、共に寄りそう機会があった。その際、意識して見たわけではないが、彼女のほっそりとした白く艶のある首筋を下に辿った、自己主張を遠慮している胸元を見て、違和感を覚えた。

 別に歳の割に控えめであるとかめっそうもないこと考えたのではなく、彼女の美白に黒い痣があることに気付いた。

 彼女から訊くことはなかったが、一介の貴族の令嬢に傷を負わせることができる立場と言えば、二人しかない。それは両親である。

ストレスの捌け口か、それとも愛情を欠いた故か。両親にとっては、彼女は娘ではなく花にも劣る価値しか持たない、家を構築する部品でしかなかった。愛を求め、暴力から逃げるため、彼女は家族関係も心も壊してしまったのだろう。

 だから、執事や家の者たちは事実を隠した。親殺しは死刑、という常識的な法の刃からシフォンを守るためだ。唯一の配偶者を亡くした家など、滅亡は目に見えて明らかだ。これは、芽生えるべきではない破滅の種。俺は、何も知るべきではなかった。

 でも俺が彼女にできること、それだけは変わらない。忘れてしまいたいほどの記憶の感情だとしても、執着心で心が保てなくなるほどに狂おしく愛おしいモノだ。感慨もなくそれらを消してしまえるほど、俺は他人じゃない。

 俺は、忘れない。


 冬を越し、春が訪れ、草花が地面を潤す季節に、シフォンの居る屋敷は相変わらず同じ場所に建っていた。周りの農村も移動することなく山脈の下に群れをなして、たたずまいは何も変わりない。

 ただ、一つの色が加わっていた。

 かつて、捨てられた農作地となっていた廃田の全てに花が植えられていたのだ。

 紫の絨毯は初夏が近い温かな風に撫でられて、身体をすり合わせるように仲間の花弁や茎に触れている。仲が良く、一生を共にするかのごとく。別れなど永遠の時間に存在しないと主張するようだ。

 彼らの名は、ヘリクリサム。ザイルが贈る宛名も本文もない花言葉。シフォンの代わりに植えた彼らは、長く栄え続く。


 君の代わりに植えた花、俺が代わりに植えておこうと思う。

 そして俺は花言葉の通り、君のために、君の代わりに、君の思い出を「いつも覚えていたい」。









End


 おはようございます、こんにちは、こんばんは、はじめまして、また会いましたね?

 あとがきの書き出しを思いつこうとした結果がこれだよ。と思いつつ。久しぶりに短編を書き終えました。実は一度別の短編を書いたのですが、気に入らないので清書しませんでした。(苦笑)

 今回のテーマの記憶の感情というのは某ジャンプのワンシーンを見て思いついたのですが、世界観やキャラで右往左往していました。まぁ、最初は中二病的な展開を考えていたんですけどね。恥ずかし…

 精神病というテーマも選んだのは、最近読んだ本に影響されたのもありますが、前々から書いてみたかったテーマでもありました。人間の脳みそって不思議ですよね。他の動物と違って複雑で、ロマンチストで、合理的なんですから。いつか解剖して解明を(ry

 と無意味な危険発言は止しときましょう。長々と書いといて、言いたいことが言えてませんが、あれです。

 皆さん。今生きて、泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり、良い思い出や悪い思い出も含めて、貴方の一部分を大切にしましょうね。


 ぶっちゃけ、作者にはいじめられて泣いてた記憶くらいしかないです。あと、初恋で告って殴られたりとかな!(自虐!!!)

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