九、嘘の繋がり
気まずい朝を迎えて、鎖に繋がれた罪人のような気分で試験会場へと向かった拓海はほとんど心ここに在らずといった状態で試験を受けた。自分が一体何をしているのか、何のためか、そんなこともわからないで、試験が終わると逃げるように大学を後にする。校門を出て、他の受験生たちの列に呑み込まれながら、拓海は自分がどうやって試験を受けたのか、解答をきちんと書いたのかのかさえ思い出せなかった。ただ、大学内に居たくなかった。大学は春休みだし、受験日は在学生の立ち入りは禁止されているはずだ。キャンパスには大学生らしい人影は見られなかった。それでも拓海は昨日兄を訪ねてきた女と鉢合わせてしまいそうな気がして恐ろしかった。
それにもうその場所は拓海にとって、兄の学び舎として懐かしさを感じるものでも、志望大学としての憧れを抱くものでもない、兄とあの女を出会わせ、兄を変えてしまった呪わしいものになっていた。そんな場所に一秒たりとも長居したくはない。だからといって、兄の部屋へ戻るのも恐ろしかった。帰らなければならない、きちんと兄の話を聞かなければならない、そう思う一方で面と向かって兄から拒絶の言葉を告げられたら、と考えるとやりきれない。感傷を通り越して死んでしまいたいような絶望的な気分に浸りながら、拓海は重くなってゆく足取りを鞭打つようにして帰路についた。
「おかえり。遅かったな、疲れただろう。夕飯用意してあるけど」
兄は拓海の顔を見るなり、優しい声をかける。兄の態度は平然を装ってはいるが、どこかよそよそしさが残る。拓海はただ首を横に振って、俯いたままソファへと腰掛ける。兄は苦笑して、じゃあお茶を淹れよう、とキッチンへと入っていった。極刑を言い渡される直前の罪人の心持で、湯の沸く音を聞きながら
拓海は身を固くした。
……縋りついて捨てないでと懇願して、兄が自分の思い通りになるというのなら事は容易い。しかしそれをやるだけの勇気すら拓海にはない。その上、兄の態度には寸分の隙も気の迷いもなく、あくまでも落ち着いている。感情的に事を運ぼうとしても流されるような人ではない。テーブルに置かれた珈琲を見つめながら、拓海は何の覚悟も出来ないでいた。
兄は拓海の隣に腰を下ろして、緩慢な所作で珈琲を口に運ぶ。少しの沈黙の後、煮え切らない態度のままでいる拓海に向かって、兄は最初にこう言った。
「昨日、拓海が言った事だけど……俺は一度だってお前を重荷だと思った事はないよ。拓海は俺の大事な弟だ。頼られて嬉しいと思うことはあっても、負担に感じることはない」
拓海は膝の上でぐっと拳を握りしめた。兄の口調は、覚悟を決めてしまった者の持ち得る一種の気楽さを含んでいる。拓海は話を聞く覚悟すら持てないままなのに、兄は既に何らかの覚悟を決めてしまっていて、それを一方的に進めようとしている。拓海はそう感じて理不尽な苛立ちに震えた。
「昨日、訪ねて来た人は誰? 兄さんが俺を単なる弟に戻したいのは、その人のせいだろう」
兄を少しでも動揺させたいだけで発した言葉は、結局拓海自身にはね返ってきた。兄は特に躊躇う様子もなく話し続ける。
「たしかに、その人とは親しい関係だ。拓海の考えてるような仲になるんだと思う。でもそれを盾に拓海に何か言うつもりはないよ。ただ俺もお前も愛情の方向を間違ってしまっただけなんだ。拓海は、あの女、……母親との事がトラウマになって女性に対して嫌悪感しか持てないんだと思う。俺も実際そうだった。でもそれは克服していかなきゃならない事なんだ。俺達が不道徳で不自然な関係になったのは、家庭の環境に問題があったからだ。環境を変えて新しい世界に身を置いて少しずつでいいから、変わっていかなければいけない。今のまま同じ傷を持つ者同士で寄り添って傷を舐めあってても何も変わらないし、トラウマも克服出来ない。色んな人間と接して、女にも少しずつ慣れていけば、きっと本道に戻れる。最終的に拓海も大切にしたいと思える女に出会う日が来る。そして新しい家庭を築いて幸せになって欲しい。そうするのが拓海にとって一番良いことなんだ。俺と二人で過去に執着して閉じこもっても、結局何の解決にもならないよ。そのうち絶対に行き詰る」
拓海は感情的にならずには居られなくなった。あくまでも常識的に事を運ぼうとする兄をどうしようもなく詰りたい衝動に駆られる。
「たしかに、兄弟でずっと今の関係を続けるなんて無理かもね。俺じゃなくて、兄さんには」
言いながら拓海は、自分の発言の浅ましさに嫌気が差すが止められない。いっそのこと打たれて完璧に嫌われてしまった方が踏ん切りがつく。拓海は態と乱暴な言葉を選んだ。
「この間、男に触られてイったよ。はじめは本意ぢゃなかったけど、俺の体は男に触られて、触って興奮した。女が苦手なのは認めるけど、俺の体が男に反応したのは紛れもない事実だ。しかも兄さんとは丸きり似てない男の体だ。俺と兄さんは違うんだ。俺だけ真性だったって事。兄さんはもう俺に欲情なんてしなくなったんだ。兄さんとセックスしてた頃の俺は、まだ背も小さかったし顔も幼かった。高校に入るまでは女に間違われる事も度々あった。でも今の俺はそうじゃない。体も声も男そのものだ。兄さんが俺を単なる弟に戻したいのは、もう俺を以前のように抱けないから……兄さんは俺と違って真性ぢゃあ無かった」
兄を貶めようとする歪んだ気持ちから発した自らの言葉に拓海自身も傷付いて、拓海は自嘲した。兄は初めて乱暴な言葉を使う拓海に呆然としていたが、次第に怒りを露にして拓海の肩を掴んだ。
拓海は打たれると思って反射的に目を瞑る。だが痛みを感じたのは頬ではなく背中だった。ゆっくり目を開けると拓海は床の上に押し倒されていた。肩は痛いくらいの力で床に押し付けられている。後頭部だけは、兄の腕に抱えられていて無事だった。拓海は至近距離にある兄の顔を混乱したまま見上げた。
兄は拓海を押さえ付けたまま怒りを押し殺した低い声で言う。
「俺が、拓海を女の代わりにしてたって言いたいのか?」
拓海ははじめて見る兄の苛立ちを滲ませた表情と声に何も言えなくなる。不意に左肩を抑えていた手が離れて、そのまま下着の中へと入り込んで来る。兄の手は乱暴に拓海の下半身を弄った。
「普通、いくら女みたいでも実の弟をそれだけで女の代わりに抱けると思うか?」
冷たい兄の声が響く。拓海がその声に身動きもとれずにいるうちに、兄の手は拓海のそこを離れ、素早く拓海の服を乱してゆく。
「それに、こんな事も」
兄は冷笑して、まだ反応しきれずにいる拓海のものを口に含む。兄の心を計り切れないまま、拓海は急激に熱をあげた自分の体に小さく喘ぐ。兄の触れ方はいつになく乱暴で性急だ。拓海の体を知り尽くしている舌は、敏感な所ばかりを刺激して、痛いくらいに拓海の熱を引き出そうと吸い上げてくる。拓海の意思も伴わないくらいの速さで、熱ばかりが上がっていき、そのまま拓海のそれは兄の口の中で果てた。一箇所に集中していた熱と快感が一足遅れて拓海の全身へと巡り出す。拓海は力の抜けてゆく体を持て余したまま、初めて見せる兄の苦悩の色に滲んだ表情に戸惑った。
「何もわかってない、拓海は、」
兄は、拓海の精液を自らの手に吐き出して苦しげな声を出す。
「俺がお前をどういう目で見てんのかも」
その声を聞いた途端、拓海は自分の中に兄の指が入ってくるのを感じて、小さく声を漏らした。まだ慣れ切っていないそこを押し広げられるような異物感に拓海は肩を震わせる。精液は潤滑剤の役割として機能するに至らず兄の指が動く度に擦れるような痛みが走る。拓海は顔を苦痛に歪めて、ただその痛みに堪えた。
「っ……そんなこと……」
苦しそうな拓海の表情を見かねたのか、兄が指の代わりにそこへ舌を這わせようとしているのを知った拓海は、顔を赤らめながらはじめて抵抗する素振りを見せた。兄は構わずに拓海の足を開いて、顔を寄せてくる。力では到底敵わないと知りながら、拓海は恥ずかしさから身を捩った。
「此処も使ったのか?」
頑なな拓海に観念したのか、兄は拓海の上から退いて潤滑油を出した。拓海の上へとそれを垂らしながらぶっきらぼうに問う。
「え?……っ」
冷たい液体を下に浴びながら拓海が兄の質問の意味を判らずにいると、また兄の指が乱暴に挿入されてくる。拓海は声を詰まらせた。
「お前は此処も他の男に触らせたのかって訊いてんだよ」
ぐっと中で指が動かされる。改めて兄に詰問されて、やっと拓海はその意味を理解した。
「……そんな事、出来るわけないぢゃないか」
「……どこまでしたんだ?」
「触りっこだよ、後ろは使ってない」
しばらく間があって、兄は少し冷静さを取り戻した触れ方になる。拓海は兄の怒りが嫉妬なのではないか、と思うが口には出せない。単純に期待を抱ける程、これまでの経緯もこの関係も簡単なものではないことを拓海は十分に知っていた。それでも、拓海は兄に触れられる懐かしさを思い起こさずにはいられない。抱き寄せてくる兄の腕に、今は何も考えずに抱かれていたい。拓海は兄に体を委ねた。
「お前に欲情しなくなったから、離れようと言ってるわけじゃない」
拓海を背後から抱きしめたまま兄は静かに言う。
「見た目云々の問題でもない。わかるだろ? 弟相手にこうなる奴が、ノーマルなわけがない」
「兄さ、」
拓海は後ろに熱を持ち固くなった兄のものを当てられるのを感じて声を漏らす。
「こういう時くらい、名前で呼べよ」
兄にそう言われて、拓海はさらに自分の体が熱くなっていくのを感じた。自制も効かないくらいに兄を貪欲に欲している。
「……ゆう、と」
拓海が躊躇いがちに名前を呼ぶと、中に兄のものが入ってくる。拓海は何度もその兄の名を繰り返し読んだ。熱に浮かされて目の前の兄の感触しか分からなくなる。自分と兄以外は存在していないかのような錯覚。それ以外の色は消え、過去も未来も世界も存在しない事になる。不安も恐怖もない、感覚は全て内面へと響く快感へと集約していく。拓海は意識を失うまで激しく自分を支配する快楽原則に従って、熱に溺れた。
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