八、溢れひたす闇に
嫌でも二人の会話は拓海の耳に入ってきた。話しぶりからも兄がその声の主と親しい事はわかる。女特有の甲高い媚を含んだ声質が妙に拓海の神経に障る。
「え? 弟くん来てるの? 見たい見たい!」
「莫迦いうなよ。明日も試験あるんだから邪魔すんなよ」
「ちょっとくらい良いじゃん。紹介してよ」
「だめ。今度埋め合わせするから」
「なによ、ケチ」
「膨れんなって」
女と話す時の兄の口調は拓海に対するそれよりもぶっきらぼうだ。だがそれが逆に遠慮のいらない程親しい仲である事を暗示している。頼み事をされると出来る限りの誠意を見せようとする兄が、あっさりとその女の頼みを却下するということは、兄がその女に対して些細な事では揺るがない信頼を置いているからではないだろうか。しかも会話の雰囲気には二人の関係が親友というだけでは片付け切れない含みがある。拓海は急激に体内の血が冷たくなっていくのを感じた。
「今の人は?」
拓海は力の抜けきった声で部屋に戻って来た兄に訊いた。
「ああ、大学の子だよ」
何気ない風を装って兄は答える。どういう関係、と拓海が続けて訊こうとした時、兄の携帯が鳴った。
「悪い。すぐ戻る」
そう言い残して、兄は携帯の画面を確認するとすぐに慌しく部屋を出ていった。拓海は呆然と兄の背を見送った後も無機質な音をたてて閉まった扉を見つめ続けた。きっとあの女のもとへ行ったのだろう。
・・・・・・結局、何もかも幻想だったのか。突然襲い掛かった現実の暗さに拓海は愕然とした。一人きりなった部屋は、守られている気になって油断しきっていた拓海に手の平を返すように現実を叩きつける。例えば煙草だ。窓際のチェストの上に置かれた灰皿と煙草の箱、兄は煙草の苦手な自分を気遣って煙草を吸わなかったし、拓海自身煙草に詳しくないから深く考えなかったが大抵喫煙者は一つの愛煙のものがあるのではないだろうか。灰皿の横に置かれた煙草は二種類ある、マルボロとバージニア・・・・・・味の違いなど拓海には知る由もないが、度数が違う事くらいはわかる。拓海はこの兄の暮らす空間を共有している者が居る事を疑わずにはいられなくなった。テレビ台に並べられたDVDの中に兄の趣味ではなさそうな恋愛映画が混じっていたり、書棚にさりげなく兄の学ぶ理系科目教材に埋れるように近代の詩集が並べられていたり、些細な違和を感じさせるそれらを見落としていた自分の愚かさが憎い。拓海の中に生まれた疑心は確信に変わりつつあった。兄と先刻の訪問者との関係に一つの結論をつけなくてはならない。
すぐ戻る、と言った兄は中々帰って来なかった。もう日付も変わろうとしている。打ちひしがれて兄の帰りを待っていた拓海は半ば自虐的な気分で書棚から到底兄のものとは思えない詩集を抜いた。何度も開かれ読みこまれた形跡のあるそれは、やはり読書の趣味のない兄が愛読する類ではないはずだ。
つめたい! 光にかがやかされて
さまよひ歩くかよわい生き者たちよ
己は どこに住むのだらう――答へておくれ
夜に それとも昼に またうすらあかりに?
己は 嘗てだれであつたのだらう?
(誰でもなく 誰でもいい 誰か――)
己は 恋する人の影を失つたきりだ
何気なく開いたページを目で追って、拓海は冷静に詩集を眺める余裕すら無くなってしまった。この詩人の意図など拓海にとって問題ではない。拓海がこの詩のくだりを目にした偶然でさえ、拓海には兄ではないであろう詩集の持ち主からの挑発に感じられた。被害妄想じみた意識に連動するように視界が真っ白になっていく。拓海は手にとったそれを怒りに任せて引き裂きたい衝動に駆られた。だが結局それは鈍い音をたてて壁に投げつけられただけだった。水から放りだされた魚のように喘いで拓海はベッドの上に倒れ込んで泣いた。
「寝たのか?」
ひとしきり泣いてシーツの中で放心していた拓海は兄の気配を感じ目蓋をあげた。妙に頭はずきずきと痛んで、体は鉛のように重い。兄は独り言のように問いかけたが、反応のない拓海を寝ていると判断したらしく、点けたままだった蛍光灯を消し間接照明に切り替える。薄明かりが白い壁を橙に染めた。
「・・・・・・兄さん」
「起こしちまったかな、すまない。遅くなった」
拓海は兄に背を向けたまま壁に映し出される兄の影を見つめた。想像以上に自分の発した声は弱々しい。それでも拓海は兄の声を無視して話し続けた。
「俺が十三になった時の事覚えてる? あの日、伯父さんの家で誕生日のお祝いをしてもらった。あの家の人達は皆優しいし、伯父さんも俺達の事まで本当の家族みたいに接してくれた。だから、ずっと伯父さんを父さんの代わりみたいに思ってた。・・・・・・誕生日ケーキが出てきた時、暁が興奮して転んだよね。鼻血が出て中々止まらなかった。もうお祝いどころぢゃなかったし、伯父さんは蒼ざめてずっと暁を介抱してた。邪魔になっちゃいけないと思って二人で家に帰ってきてから、どうしようもなく寂しかった。今考えてみれば幼稚な寂しさだと思うよ。伯父さんはきっと怪我をしたのが暁じゃなくて俺でも同じようにしてくれたと思う。でも、家族っていう絆があって、当たり前のように心配されてる暁を見てると、愛情に満ちた家庭の有様を見せつけられると、たまらない気持ちになった。自分で壊しておいて、そんな資格なんて俺には無いのに、愛されたくてたまらなかった。それを俺は、兄さんに求めたんだ。もっと確実な証が欲しくて。それであの日の夜、・・・・・・愛したくて、愛されたかった。ずっと兄さんしか居ないし兄さん以外は要らないと思ってた。・・・・・・ねぇ、俺は重荷だった? ずっと独りよがり、で、」
背後から力強い腕にきつく抱きしめられて、拓海の言葉は途切れた。
「明日、・・・・・・明日ちゃんと話そう。今までの事も、これからの事も」
耳元で初めて聞く兄の切羽詰った声に、拓海はそれ以上何も言えなくなる。いつも拓海を安心させる兄の体温も声も、最早拓海の不安を増長させるだけだった。これから、その四文字がこの声も温もりも離れていく予感を拓海に与えている。壁に映る重なった二人の淡い影だけ、まるでそれが一つの存在のような像を形作っていて拓海は切なさに息が詰まった。
作中引用してぃる詩
立原道造(大正三年〜昭和十四年)
「溢れひたす闇に」(『暁と夕の詩』昭和十二年十二月)
美しいものになら ほほゑむがよい
涙よ いつまでも かはかずにあれ
陽は 大きな景色のあちらに沈みゆき
あのものがなしい 月が燃え立つた
つめたい!光にかがやかされて
さまよひ歩くかよわい生き者たちよ
己は どこに住むのだらう――答へておくれ
夜に それとも昼に またうすらあかりに?
己は 嘗てだれであつたのだらう?
(誰でもなく 誰でもいい 誰か――)
己は 恋する人の影を失つたきりだ
ふみくだかれてもあれ 己のやさしかつた望み
己はただ眠るであらう 眠りのなかに
遺された一つの憧憬に溶けいるために
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