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七、溢れひたす闇に
 試験までの数日を拓海は慣れないベッドの上で過ごす羽目になった。
 裕斗と別れた後、ふらふらと宵闇の中を彷徨った末体調を崩したのだ。幸い流行りのインフルエンザではなく微熱と食欲不振という症状の単なる風邪だった。それでも一人で家に置いておくわけにはいかない、という祖母の考えで伯父の家で養生する事になった。拓海の父は仕事一本の人でほとんど家に帰って来ない。ここ数年は月に一度顔を会わせる程度で、ろくな会話もしていない。そういう事情で拓海は実の父よりも、父の兄である伯父の方に肉親としての親しみを持っている。伯父の家で暮らす祖母は週に何度か拓海の様子を見に拓海の家へと足を運ぶ。休日などは伯父も祖母の送迎役として付き添ってやってくる。子煩悩の伯父は、拓海に対しても優しかった。大人の威厳には欠けるがその分人の良さそうな顔をしている。偉そうな素振りを見せる事もなく、好んで道化役を買って出る。

「拓の風邪が良くなるように母さんとお参りしてきたんだよ。あと林檎も買ってきた。食べれるかい?」
 拓海は礼を言って林檎の盛られた皿を受け取る。伯父は小さな子供に接するような手つきで拓海の頭を撫でる。
「少し痩せた? 拓は小食だからかな、でも背は伸びるんだから不思議だ。もうおじさんより高いだろう? まぁでも横幅は当分抜かれそうにないな」
 鷹揚な声で言って伯父は中年特有の緩みのある腹を叩いてみせる。屈託のない笑顔は伯父の周りだけでなく、伯父の家の隅々まで行き渡っている。陽射しの匂いの残る寝具や、壁に飾られた色褪せた従姉妹たちの拙い絵画、硝子棚に並べられたアルバムや写真立ては正月に来た時よりも数は増えている。写真立ての中身は振袖姿で微笑む従姉のものへと変わっていた。見渡せば見渡すほど、破綻のない明るい家庭の空気が全ての物に馴染んでいる事を拓海は感じた。伯父も祖母も、自らの持つ幸福を惜しみなく滲ませて他の者がそれに触れることを拒まない。
「気兼ねする事はないさ。受験生は我儘にふるまっていいんだ。暁なんて受験を盾にデートばっかりしてるんだよ。気分転換が必要だって言って毎日出かけてるよ。最近の中学生は大胆なんだな。しかもその彼女が可愛くていい子なんだ。ほんとに父親は出る幕なしさ。でもその子と喧嘩した時は酷く落ち込んでたな、夕飯の時に鍋をひっくり返したんだ。テーブルはひっくり返らなかったみたいだ。あの時は嫁さんと思わず笑ったよ。ちゃぶ台にしておけば、ちゃぶ台返しが見れたってな。それでちゃぶ台を買いに行ったんだけど、その日に暁は彼女と仲直りしたらしいんだ。だからちゃぶ台は庭の物置で出番を待ってる」
 伯父は快活に笑って家族の話を続けた。拓海はほとんど聞き手にまわる事になったが伯父に話しかけられている時は少し気分が和んだ。ただ同時に言いようのないやるせなさを感じるのもたしかだった。当たり前のように幸福で真っ当に生きてゆく人々と拓海はあまりにもかけ離れたところに居た。拓海は無性に兄に会いたかった。


 空港で伯父と祖母に見送られて、拓海は焦がれ続けた兄のもとへと向かった。兄とは一年近く会っていない。しかし拓海には冷静に兄との関係を考えたり兄の真意を危ぶんだりするような余裕はもう残っていなかった。ただ兄に会いたいという気持ちばかりが勝っていた。空港まで迎えにいく、という兄の言葉をわずかな理性で断って、拓海は乗り慣れないバスに揺られていた。兄の住むマンションには引越しの手伝いの際に一度行ったきりだ。もう二年も前のことになるが、拓海には兄の部屋までの道すじを完璧に思い出すことが出来る。会わずにいる間、何度もこの街に住む兄の事を空想していたからだ。繁華な大通りは並ぶ店の顔ぶれも変わっていたが、そこを脇道へと入るとマンションやアパートの並ぶ閑静な住宅街で、小さな公園やひっそりと看板を掲げる寂れた古書店なども二年前と変わっていない。逸る気持ちを抑えることも出来ずに、拓海はバスを降りるとすぐに駆け出していた。
 乱れたままの呼吸を整えようともせず、拓海は呼び鈴を鳴らした。扉が開いて焦がれ続けた面影が視界に映った瞬間、挨拶も忘れて拓海はそこへ崩れるように抱きついていた。
「ちょっと見ないうちに大きくなったな」
 兄は拓海の体を支えるように抱き寄せて笑う。確かに抱かれる感触は違う。それは拓海の背が伸びたこともあるだろうが、兄の体も確かに変わっていたからだ。兄は身長こそ変わっていないが、胸板も肩から背にかけての厚みも増して以前のような少年期特有の弱弱しさはない。無駄な贅肉も過度の筋肉もない均整のとれた大人の男の体がそこにはあった。一瞬、感触の違いに拓海は戸惑ったが耳に響く兄の声が聞き慣れた変わらない優しい声調なのに安心して目を瞑る。全てが変わってしまうわけではない。外面の変化よりも本質を示す声や体温の方が拓海にとっては重要なのだ。
「迷わなかったか? 遠慮なんかしなくても迎えくらい行けたのに」
 しがみついたままの拓海の背をあやすように撫でながら兄は問う。
「だって、兄さんと会うと自制が効かなくなる。迎えに来てもらったら、空港で人目も気にせず抱きついてたと思う」  
 拓海は素直に白状しながら、自分の言った事に自分で照れて兄から離れた。
「体調崩してるって聞いてたけど、そんなこっちまで照れちまう事が言えるんだから大丈夫そうだな」
 兄はまた笑って、照れ隠しのようにぶっきらぼうに言ってみせる。拓海はその分、素直に兄に甘えることが出来た。

 守られているような柔らかい空気に、不安も何もない子供のように甘えきった心持が無防備なまま現実に突き落とされたのは一日目の試験を終えて兄の部屋に戻った時だった。
 此処に来てから兄が自分に対して性的な意味のある接触をしてこないのは、体調を崩していた事と受験中でもある自分への配慮だろうと甘えた気持ちに浸っていた拓海は軽く考えていた。電話ではくどいくらいに繰り返されていた「大事な弟」という言葉を、会ってからは兄が一度も使わなかった事も拓海を安易な考えと向かせた。しかしその安易な考えをあっさり打ち破らせた突然の訪問者だ。
 兄がキッチンで夕食の準備をしている間、部屋で明日の試験に備えて参考書を開いていた拓海は不意に鳴った呼び鈴の音に顔を上げた。
「いい、俺が出るから」
 蛇口を閉める音とともに、キッチンから兄の声がする。拓海は参考書へと視線を戻しかけて訪問者らしい人の声を聞いてそれどころではなくなった。若い女の声だ。
 



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