六、閉架書庫
乱暴な所作とは対照的に、唇は穏やかに触れてくる。特に欲情されているという感じでもない。拓海は心地良ささえ感じてしまいそうな穏やかなキスに、反抗するタイミングを完全に逃してしまった。
「今日はやけに素直なんだな」
唇を離して裕斗はからかうように言う。
「抵抗して欲しいのか?」
「その方が燃えるだろ、やりがいがある」
真顔で言い返されて、拓海は溜め息を吐く。
「何で俺が煽るような真似しなきゃならないんだよ」
「じゃあ煽らなくていいぜ、抵抗すんなよ」
墓穴を掘った、と拓海が後悔した時にはシャツの下へと裕斗の手が入り込んでいた。指先で体のラインを確かめるように脇腹をなぞる。腋窩へ指が触れ、拓海はくすぐったさに身を捩った。裕斗は楽しげに拓海の反応を見下ろしている。
「こういう拷問あったよな。ひたすらくすぐり続けるってやつ」
裕斗の指の動きは情事のそれとは程遠い、ただ拓海を擽ってこそばゆがらせる事を目的としたものへと変わっていく。拓海は笑い出すわけにもいかず、その刺激に体を震わせながら堪えた。
「何がしたいんだよ」
一向にくすぐる事を止める気配のない裕斗にしびれを切らして拓海は言った。裕斗の行動は全く不可解だ。自分に付き纏うこともキスや過剰なスキンシップをとる事も、裕斗が自分に対して欲情しているというならばまだ納得出来るが、眼の前の彼にそんな様子はない。だからといって単なる冗談や悪ふざけにしては度が過ぎている。拓海は今の状況をどう対処するか決めかねていた。
「可愛い悪戯のつもりだったけど、」
言いながらくすぐっていた手が離れ、拓海の顎に添えられた。裕斗の顔が近付いてくる。キスするつもりだろう、拓海はそう思っただけでそれを避けようとはしなかった。
「お前がそういう主義なら遠慮しないぜ」
唇を触れる寸前で一旦止め、裕斗は試すように言う。拓海が何か言い返す間もなく唇は重ねられていた。先程のキスと全く違う咬みつくような乱暴なやり方に拓海は戸惑いを隠せない。怯んだ隙に舌が割り込んできて、その濡れた感触ばかりが妙に頭の奥に響いた。
「な、に」
好き勝手に口内を蹂躙されて上手く言葉が繋げない。拓海は乱れた呼吸のまま裕斗を睨みつけた。裕斗は濡れた唇を拭いながら薄く笑みを浮かべる。
「男が好きなんだろ? ヘテロならもっと動揺するはずだ」
沈黙を肯定と受け取ったのか、裕斗は拓海のシャツを捲くり上げて胸元へと唇を寄せてきた。無防備な肌が直に冷たい空気に晒されて拓海は身を固くする。裕斗の舌が触れ、その濡れた跡へと冷えた空気が纏わりついて奇妙な感触を残す。
「試してたのか?」
拓海は出来る限りの冷静な声で聞いた。
「ヘテロは相手にしたくないからな。面倒だし」
拓海の首筋に顔を埋めながら裕斗は答える。行為を中断する気はないらしい。
「確証が無かったから試したんだよ。お前の態度も冷たかったし、」
「俺はホモぢゃない」
拓海は裕斗の体を押し戻しながら、きっぱりと告げた。ノーマルだと言えば裕斗が行為をやめるだろうという考えから出た言葉だったが、実際に拓海は自分のことを同性愛者だとは思っていない。拓海は自分の兄に対する感情や欲望を一般に存在する恋愛感情とは違うものだと信じている。拓海にとって兄は唯一無二の存在で、兄以外の人間を必要とはしていないし興味もない。別に男が好きなわけではない。
「へぇ、じゃあ何で勃ってんだよ、ここ」
裕斗は拓海の言葉を鼻で笑って一蹴し、器用に左手で拓海のズボンを開けさせる。下着の上からでも判るくらいにそこは芯を持っている。
「まだ勃つほどの事はしてないぜ」
揶揄を含んだ口調で言われて拓海は赤面する。そのまま下着を下ろされ露になったものを躊躇う様子もなく裕斗が握ってくる。拓海は思わず声を漏らした。
「こういう事をしたらヘテロでも反応するかもな、でも」
裕斗は話しながら、拓海のそれを手で扱きはじめる。
「キスとあの程度の前戯じゃヘテロは勃たない。嫌悪感が先にくるからな。まさか俺が女に見えたってわけでもないだろ?」
ほら、と裕斗は拓海の手を掴んで自分の股間へと当ててみせる。拓海は羞恥と焦燥とがない交ぜに襲ってきて、言い返す言葉も浮かばない。諦めに似た投げやりな気持ちで、為されるがままに裕斗へと触れた。次第に裕斗も欲情してきたらしく、小さく体を震わせて拓海の膝を跨いで体を寄せてくる。起立した互いのものが触れ合って、拓海は小さく声を漏らした。裕斗は右手でその二つを擦り合わせるように触りながら、左腕を拓海の肩へとまわして唇を重ねてきた。拓海には自分が何故こんな事をしているのか省みる余裕も残っていなかった。下肢を湿らせている蜜も、触れ合った体の熱も、胸に響く速い鼓動も自分のものなのか裕斗のものなのかすら判断出来ない。渇望しながらも長い間与えられなかった人肌の感触と温もりに意識を奪われて、溺れてしまいたいような衝動に呑み込まれていく。
束の間の恍惚は余韻を残さず忙しなく去っていく。セックスとはいえない遊戯の後、拓海は虚しさでも後悔でもなく、言葉に出来ないくらいの強い恐怖心に襲われた。今まで信じて守り抜いてきたものを自分自身で壊してしまったような不安だ。拓海は自分の事がわからなくなった。慕う人がありながら目の前の少年に流されてしまったことだけではない。たいして親しいわけでもない他人同然の彼に触れられて吐精したという事実を自分自身どう処理していいのか判らない。裕斗との行為は、初めの穏やかなキスこそ兄を思い起こさせるものがあったが、それ以降は全く別のものだ。兄の触れ方は慈しむような柔らかいものだ。抱かれる度に自分の存在を静かに認識できるような深い安心感に満ちている。裕斗との場合は違う。焦燥に駆られて何も考えられなくなるような自我も保てないものだ。だから今、どうしようもない不安を感じるのだ。別のものだと考えようとしても、射精したという事実は変わらない。それが拓海の不安に拍車をかける。今まで拓海の中で培われてきた兄との愛情を確かめる行為そのものを、誰とでも出来るような瑣末な事だと認識しなくてはならなくなる。拓海は浅ましいとは思いながらもそれだけは避けようとした。
「好きな人が居る」
はぐらかされないように拓海は言いたい事だけを口にした。書棚に凭れたまま指先に絡みついたままの精液を持て余していた裕斗は、唐突に発された拓海の言葉に顔をあげる。
「その人は男だ、でも俺はその人しか好きじゃないし、他の人を好きになるつもりもない。だから別に男が好きなわけじゃない」
そこまで言い切って拓海が改めて裕斗を見ると、別人のように冷ややかに笑う裕斗の顔があった。
「狡いな、気の迷いとでも言いたいのか?」
拓海は何も言い返せず黙り込むしかなかった。
「お前がどんな恋愛観を持ってんのかなんて知らないし興味ねえよ。別に俺は恋愛ごっこがしたいわけぢゃない」
裕斗は薄く笑みを浮かべたまま、拓海の首筋を指でなぞる。
「意外と締まってんだよな、お前の体。もっと貧弱かと思ったけど」
指は首筋から胸元へと下り臍の当たりで止まる。拓海は裕斗の真意がわからないまま話の続きを待った。
「最初から俺はお前の体以外興味ないよ。拓海が誰に恋焦がれてようと関係ない。欲望には肉体の欲望と精神の欲望がある。男は好きじゃないとお前が思ってても、お前の体は男に欲情するだろう。全く別の二つの欲望をごっちゃに考えるから矛盾が生じる。切り離して考えろよ。俺は拓海には肉体の欲望しか持たないし、拓海の肉体の欲望しか関心はない。だからお前の精神の欲望に答えるつもりもなければ尊重する気もさらさらないね」
饒舌に語られた裕斗の持論を、拓海はすぐに理解は出来なかった。考え方が自分とはかけ離れすぎている。ただ拓海は自分が感じた恐怖の一端が、裕斗の考えからもたらされたものだと知った。もし肉体の欲望と精神の欲望というものが別個のものとして存在するのなら、裕斗のやり方では肉体の欲望にばかり過剰に働きかける事になる。そうなると精神と肉体のバランスは崩れて保てない。自分の感じた恐ろしさは、同じように渇望していた二つの欲望の一つだけを無理やり満たそうとして自分が保てなくなった事かもしれない。そう納得しかけて、拓海に一つの疑問がわいた。裕斗が何故肉体の欲望に固執しているのか、だ。どちらか一つだけで足りるものなのだろうか。それとも裕斗には精神の欲望を満たす者が居るのだろうか、それとも・・・・・・
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