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五、閉架書庫
 どのくらいそうしていたのだろう。眠るわけでもなく机上に伏せていた頭に軽い衝撃を感じて、拓海は我に返った。ゆっくり体を起こそうとすると更に後頭部に鋭い痛みが走る。
 半ば無理やり上向けられた先に、全く歓迎出来ない顔がある。昨日電車内で体を好き勝手に弄ってきた少年、渡辺裕斗だ。目が合うと裕斗は悪戯の成功した子供のような笑みを浮かべた。そこで拓海は後頭部の痛みの正体が自分の髪を裕斗が強引に掴んでいるのだと気付いた。
「離せよ」
 冷淡な態度を見せても怯むような相手じゃないことは昨日のやりとりで気付いてはいたが、拓海はそれ以外に態度のとりようがない。裕斗は拓海の知る人間の中で一番厄介なタイプだ。
 干渉されない程度の距離で人と接する事を好む拓海にとって、裕斗のようなタイプと仲良くやれるとは思わない、むしろ出来れば関わりたくない。裕斗の接し方は干渉どころか傍若無人で、相手の意向など構わずに好き勝手に踏み込んできては拓海の感情を荒らしてゆく。それを楽しんでいる風なのが何より性質が悪い。
「何だよ、お前に会いに来たのに」
 拓海の予想通り、裕斗は平然と笑っている。
「それとも何? 俺の事覚えてないわけ?」
「何で俺が此処に居るってわかったんだよ?」
 拓海は裕斗の質問を無視して改めて裕斗に訊ねた。偶然会ったのならまだしも、自分に会いに来たというのが解せない。
「だってお前、いかにも図書館で勉強してそうな感じじゃん。高校だって超進学校だろ? お前の高校の奴等どうかしてるぜ。電車の中でまで勉強してんだよ。此処来る途中、電車の中でお前の高校の制服来てる奴揃いも揃って参考書開いてんだ、かなり気持ち悪かったね、あれは」
 裕斗はそう言い捨てて拓海の隣へと腰を降ろした。裕斗の物言いは一々挑発的だ。拓海は裕斗の挑発的な態度が彼の素の性格なのか悪意や敵意を持ってあえてそうしているのかを判りかねて返答に詰まってしまう。
「でも俺の勘は半分外れたな。図書館ってとこまでは当たってたけど。優等生面して勉強してると思ったら、わざわざ図書館まで来て寝てんだからさ」
「何か用があって来たんぢゃないのか?」
 裕斗の態度が故意でもそうでなくても、拓海は挑発に乗ってやるような余裕はない。昨日の事で、裕斗のペースに巻き込まれると面倒になるのはわかっている。拓海は出来る限り話を早く切り上げようと尋問に近い口調になる。
「だからお前に会いに来たんだよ」
「もう会えただろ? 帰れよ」
「まだ全然話してないじゃん」
「俺は別に話す事なんかない。それに此処は図書館だ、雑談する場所じゃない」
「……拓海って、全く俺に興味持たないんだな」
 出し抜けに暗い声で言われて、拓海は驚いて裕斗を見た。裕斗はあからさまに傷付いた顔をしていて、拓海は妙な罪悪感を感じてたじろいでしまう。さすがにこのまま追い返すのは後味が悪い。乱暴な話し方や挑発的な態度に惑わされがちだが、悄然として俯いたままの裕斗はいかにも繊細で脆そうな少年に見える。華奢な体や幼さの残る顔立ちは、人に警戒心を抱かせる事なく無条件に好意的な印象を与えるように上手くバランスを保っている。きっと周囲に優しくされてきて人に拒まれることに慣れてないのだろう。
「言い過ぎた。少し気が滅入ってたんだ」
 拓海は宥めるように口調を和らげた。裕斗は黙り込んだまま、探るようにじっと拓海を見つめてきた。裕斗は何か言いたげな表情だが、拓海は裕斗の真意がわからない以上黙っているしかない。ただ見られている居心地の悪さに拓海は堪えていた。しばらくして裕斗が席を立った。帰るつもりなのか、と拓海は半ば安堵して息を吐くと
「何ぼんやりしてんだよ。行くぞ」
 と裕斗が振り返って、ぶっきらぼうな声を出した。

 ほとんど強制的な物言いに、思わず拓海も従って立ち上がった。裕斗はそれを確認するとすぐに背を向けて歩き出す。椅子の上に裕斗の上着が置いたままだから外に出るわけではないのだろう、拓海は自分も荷物をそのままにして慌てて裕斗の後を追った。
「行くって、何処へ?」
「閉架だよ」
「ヘイカ?」
「お前を探してる時に閉架書庫で面白い物見つけたんだ。お前も見るだろ?」
 裕斗はいつもの口調に戻っていて、一足遅れでついて行く拓海に笑いかけた。
 拓海は裕斗が一体何を考えているのか全く理解出来なかった。急に黙り込んだかと思えば、同意もなく連れまわそうとする。拓海から見れば気まぐれを通り過ぎて奇行ともとれる言動でも、裕斗の中では一貫性があるのかもしれない。ただそこに拓海への気遣いが全く入っていないだけだ。拓海は結局裕斗のペースに巻き込まれている自分に気付いて憂鬱になる。きっと裕斗は、自分とは違い我儘も甘えも許されるような幸福な環境を生きてきたのだろう。愛される事が当然の立場にある者は、自己に対する卑屈さを持たず自信に満ち溢れている。変に他人の顔色を窺う事もない分、平気で無神経な言動をとる。裕斗の傍若無人ぶりは、恵まれた環境とコンプレックスとは無縁そうな整った容姿で形成されたのかもしれない、拓海は裕斗の奇異な言動にそう結論付けた。

 裕斗は軽い足取りで閲覧室の隅にある階段を下りていく。拓海は図書館に来ても二階の開架しか使っていない。一階に閉架書庫がある事すら知らなかった。図書館は緩やかな坂の中腹に埋れるように建てられている。そのため入り口は一、二階両方にあり、図書館に用のある者は大抵二階の入り口を使う。一階は会議室と視聴覚室があるくらいだと思っていた。
「勝手に入っていいのか?」
 閉架書庫の扉の前まで来て拓海は戸惑った。分厚い鉄の扉には立ち入り禁止の札はないが、一般公開されているという雰囲気ではない。
「鍵掛けてないんだから入っていいって事だろ」
 裕斗は平然と言って中へ入ってゆく。拓海はドアノブに鍵穴があるのを見つけ、図書館の管理の杜撰さを改めて感じた。



 暖房の効いていない閉架書庫はひんやりとして薄暗い。蛍光灯は点いているが、天井に届きそうな程大きな書棚が均等に置いてあるせいで、本のタイトルをなんとか確認出来る程度だ。拓海は書棚に並べてある本のタイトルを目で追ってみたが、薄汚れて破損したものや雑誌のバックナンバーが窮屈そうに収まっているばかりでたいして興味を惹かれるものはない。閉架書庫といっても貴重な蔵書を置いているわけではなく、単に古くなって開架に出せなくなったものを移して置いてあるだけのようだ。
「ほら、こっちだよ」
 裕斗は躊躇う様子もなく奥へと進んでゆく。拓海は戸惑いつつも好奇心に負けて裕斗の後を追った。
 一番奥の書棚の前で、裕斗は立ち止まってしゃがみ込んだ。拓海が傍に寄ると、
「お前って警戒心ねえよな」
 と裕斗は拓海を見上げて笑う。その刹那、拓海は腕を掴まれて押し倒された。拓海は体制を崩し、壁に背中を打ち付けてそのまま床に座り込んだ。埃っぽいリノリウムの床も背をあずけている壁も冷え切っていて拓海の体温を奪う。体を起こそうと拓海が床に手をついたところで、裕斗が拓海の手を押さえてキスをしてきた。

 


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