ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
四、危うい均衡
 夜の間に雨が降ったのだろうか。アスファルトは湿って黒く澱んでいる。太陽が分厚い雲で隠れてしまっているせいで、昼だというのに風は刺すように冷たい。拓海はマフラーを鼻の上まで上げて早足で歩き続けた。向かう先は市立図書館だ。

 拓海は一人で家に居る事に堪えられなくなると、いつも図書館へ行っていた。その図書館は、高校の図書室に毛のはえた程度のこじんまりとした所で、学術書は殆どなく娯楽系の小説や雑誌ばかり置いている。学生用の自習室なんて気の利いたものもなく、四人掛けのテーブルが六つあるばかりだ。そのテーブルも夏休みこそ学生で埋まるが、大抵は数人の老人がちらほらと腰かけている程度で、平日などは特に利用者もまばらだ。その割に本の盗難や破損は頻繁に起こるらしく、入り口の壁には注意を呼びかける大きな張り紙がある。かといって手荷物は持込可で、職員の見回りもない。管理が杜撰なのだ。拓海は大きな図書館特有の堅苦しさのない、気の抜けたこの場所が気に入っている。
 
 図書館は徒歩二十分程度の距離にある。たいした距離ではないが、前日の試験の疲れと今朝の夢の事や兄の態度に気分の塞がった拓海には辛かった。貧血の症状に似た眩暈と耳鳴りが緩やかな波のように絶えず襲ってきて、体の感覚すら曖昧になる。足は動いているはずなのに自分で動かしている実感がわかない。激しくなる動悸ばかりに気をとられて、体の感覚まで処理しきれていないのだ。意識と体が上手く釣りあわなくなる事はこれまでも度々あった。心因性のものでしょう、と医者に診療内科を勧められてから、拓海はその病院にも心療内科にも行っていない。原因は判りきっているからだ。その原因を「治療」という名目で他人に探られる事も無暗に触れられる事も拓海には我慢出来ないことだった。それが自分に悪い影響をもたらすものであっても、それは拓海に深く根付いて今の自分自身を形成している。それを安易に取り除かれると、今の自分の存在まで消えてしまう気がして拓海は不安だった。眩暈や動悸を伴うこの症状も発作のようなもので時間が経てば次第に治まる。拓海は途切れそうになる意識をこらえて歩き続けた。


 図書館に着いた頃には、拓海の体はとうに冷え切っていた。
 カウンターを抜けて閲覧ルームの一番奥の席に身を投げ出すように座ると、拓海はやっと安堵して息を吐いた。室温は人肌程度の生温さで強張った体を慈しむように包む。この緩い空気と静かだが完璧な静寂ではない穏やかな空間は、拓海の不安定な心と体を落ち着かせてくれる。館内には司書や利用者も居るが、干渉してくる事はない。近くに人が居ることを実感できて、だからといって何の関わりも持たなくていい、このくらいの距離感が拓海の孤独感を紛らわせるのにちょうどいいのだ。自分を誰にも損なわれることなく、不安定に揺らぎがちな自分の存在を保つ事が出来る。周囲に人が居れば理性が働く。寂寥や不安に泣きたくなっても、叫び狂いたいような衝動に駆られても、理性がそれを抑えてくれる。兄が家を去ってから、拓海は壊れそうになる自分の均衡をこの方法で抑えつけてきた。

 しばらくぼんやりと椅子に背を預けて動悸こそ静まったが、拓海は到底何をする気にもなれないでいた。テーブルの上に持参した受験対策の参考書を開いて置いてはいるが、全く頭には入ってこない。ただ頬杖をついて読むでもなく眺めるばかりだ。二十五日から始まる前期試験の事を考えると気が重い。試験そのものというよりも、その先の結果が拓海を悩ませている。
 拓海は、兄の傍に行きたいという一心で兄の通う大学を受験する事に決めたし、そのための勉強をしてきた。兄が大学に入って変わったのは、単に物理的な距離だけではない、環境の変化か何らかの要因で兄自身も拓海との関係も微妙に変わりつつある。拓海はそれを最初は離れて暮らしているからだと思った。だから兄の大学へ行き一緒に暮らせば元に戻ると信じたかった。だがそれはあくまでも拓海の望みである。兄と同じ大学を受けると告げた時、兄は特に反対する素振りは見せなかった、その代わりに「大事な弟」と度々口にするようになった。兄が自分との関係をただの「兄弟」の枠に戻したいのなら、拓海の望みも兄に寄せる感情も単なる独りよがりで、兄には重荷にしかならないだろう。そう考えると拓海は辛かった。
 だからといって、受験に失敗したり諦めたりしてもその先どうやって生きていけばいいのだろう。
兄と離れて暮らした二年間、拓海は決して一人で過ごす事に慣れたわけではない。ギリギリの所で堪えていただけだ。それも兄の存在が支えになっていたからだ。その唯一の拠り所を失って、一人きりでひたすら不安や寂しさに堪え続けていかなければならないなど、考えるだけで拓海は気が遠くなる。
 これから自分がどうすべきか考えてみても、どちらを選んでも自分に与えられている路は薄暗い。報われない徒労ばかりだ。拓海は半ば投げやりな気持ちになって机上に突っ伏した。


 


更新遅くなってごめんなさぃ↓
次の話から少しずつ性描写入ります。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。