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三、危うい均衡
 黒いソファの背もたれに白い足がぶら下がっている。窓から射し込む陽を浴びて、それは小刻みにびくつきながら金色の残像を散らしていた。拓海の立っている位置からはソファの上で何が起こっているのかは見えない。ただその白い足が動く度に母親の甲高い呻きが聞こえた。
得体の知れない恐怖感に体が竦む。「おかあさん」と叫び出しそうになったところで温かい手に視界を塞がれる。
「僕の部屋に行こう」
 兄の優しい声がした。


 耳元で鳴り響く携帯の着信音で拓海は目を覚ました。まだ夢から抜け切れないぼんやりとした心地で通話ボタンを押す。
「悪い、寝てたのか?」
 夢と同じ優し声調が響く。兄の声だ。
「うん、でも電話してくれて助かったよ。またあの夢を見てたんだ」
 久しぶりに聞く心地よい兄の声に、甘えるように拓海は答える。
「試験で気が滅入ってるんだろう。気分転換はした方がいいぞ、今更無理に勉強しなくても拓海は充分に合格出来る学力があるさ。体にだけ気を遣っていればいい」
 諭すように言われ、拓海も素直に同意する。兄は安心したように笑って電話を切ろうとした。拓海はまだ兄の声を聞いていたくて慌てて言葉を繋ぐ。
「兄さん、何か用があったんぢゃないの?」
「特にないよ。陣中見舞いってとこさ」
「そう・・・・・・あのさ、兄さんの所に行くの、もう少し早めてもいい?」
「飛行機のチケット、二十四日じゃないのか?」
「そうだけど・・・・・・」
 受話器の向こうで、兄は沈黙している。拓海は思いつきで我儘を言った事を少し後悔した。ごめん、言ってみただけだよ、と言おうとした時、先に兄が申し訳なさそうに話だした。
「来る分には構わないけど、野暮用があって相手してやれないかもしれない。いや、俺が居ない方が邪魔にならなくていいかもな。でもやっぱり部屋が狭いからなぁ」
 煮え切らない口調に、やんわりとした拒絶の意がある事を拓海は感じた。拓海は出来る限り平然を装って、
「冗談だよ。少し我儘を言ってみただけ」
と笑った。兄はすぐに来たくなったら来ていいんだ、と言ったが、それが彼なりの気遣いだという事は拓海には判っていた。また兄の方も拓海が遠慮する事をわかっていて気楽にそう言ったのだろう。拓海は兄が押しに弱く、頼みごとをはっきりと断る事の出来ない性質だということを充分すぎる程知っている。だからこそ必要以上に甘えたくなる反面、遠慮がちにならずにはいられなかった。過度の甘えや期待は、いつか自分だけでなくきっと兄も壊してしまう。
「じゃあ、寝てたとこ悪かったな。あまり無茶するなよ。大事な弟が病気にでもなったら、俺の方が参っちまうよ」
 兄は笑って、また連絡するよ、と言って短い電話を終えた。拓海はシーツの上に寝そべったまま、酷く憂鬱な気分になった。兄が大学生になりこの家を出てもう二年が経とうとしている。兄が家を出てから、特にこの一年の間に自分と兄との関係が微妙に変わりつつある事を拓海は感じていた。意味もない電話のやりとりの中でも、兄は「大事な弟」という言葉を必ずといっていいほど口にする。二人の関係を一般的な「兄弟」の枠から踏み外さないようにするかのように。兄が自分自身にそう言い聞かせているのかもしれない。でも拓海は、兄から「大事な弟」と聞かされる度に、自分の兄に対する感情を牽制されているような気分になった。そして兄から見放されたような心持がして寂しかった。

 沈んだ気持ちを引き摺ったまま拓海は気怠い体を起こした。カーテンの隙間から見える空は曇天で濃い灰色の雲が光を鈍く遮っている。誰も居ない家の中は、ひっそりとしていて薄暗い。拓海は、もう眠りなおす気分にはなれなかった。特にあの夢を見た日は一人で家の中にじっとしているのは、たまらない気持ちになる。
 九歳を過ぎた頃から、拓海はたびたび同じ夢を見る。黒いソファに足がぶら下がっている夢だ。歳を重ねるごとに見る回数は減っていったが、それでもまだ三月に一度はやってくる。あの夢には続きがある。

 兄に連れられて部屋を出る時、拓海はもう一度ソファを見る。すると背もたれの上に知らない若い男が顔を出している。男は拓海と目が合うと気味の悪い笑みを浮かべる。
 拓海は怖くなって兄に「あの人だれ? おかあさんと何してるの?」と訊ねる。兄は「大きくなったら教えてあげる。それまで今みた事は誰にも言っちゃだめだよ」と言う。
 それから段々と視界が薄暗くなり、急に耳元で大きな音がする。拓海が驚いて音のした方に目を凝らすと、薄暗い部屋の中で父が母へと暴力を振るっている。母は父に髪を掴まれ馬乗りになられた状態で奇声を発しながら足掻いている。そして拓海の存在に気付くと長い黒髪を振り乱して叫ぶのだ。
「余計な事しやがって! クソガキ!  殺してやる!」
 怒りと憎しみに満ちた瞳は血走って爛々として拓海を睨みつける。拓海は常軌を逸した母の眼光に恐怖で身動きがとれなくなる。
 
 この夢を見ると拓海は大抵金縛りにあう。呼吸が上手く出来ずになって、やっと夢から醒めるのだ。夢から醒めても一時間は体がまともに動かない。今では金縛りにも大分慣れたが、九歳の頃は呼吸困難で発作を起こし度々救急車の世話になった。本当に生死の境をさまよった事まである。その頃は夢に殺されてしまうのではないかという恐怖で不眠症になった。それを支えてくれたのが兄だった。夢をみた日はどうしても一人で居るのが堪えられなくて兄が傍に居なければ不安だった。兄との関係が単なる「兄弟」の枠を超えてしまったのは、拓海が丁度十三になった時からだ。その関係は兄が家を出るまでの三年間続いた。拓海は次第に自分の兄に対する感情が兄弟のそれではないと自覚していった。兄も同じだと信じて疑いもしなかった。
 兄は一足先に変わっていく。拓海との関係を「兄弟」の範疇へと戻そうとしている。拓海はその兄の心持と自分の心持があまりにかけ離れていくのを、どうする事も出来ないでいた。
 兄をこれ以上困らせたくはない気持ちはある。しかし拓海は自分自身の気持ちを処理しきれずにいる。表面上は仲睦まじい兄弟関係を維持出来ているように見えても、兄と自分の関係は危うい均衡をかろうじて保っている状態だ、そう思うと拓海はたまらなかった。
 



 
 



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