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二二、少年遊戯(後編)
「止せよ、慰めなんか欲しくない」
 抱き寄せられた腕の中で身じろぎもせず、裕斗はポツリと呟く。
「慰めぢゃない。俺はこういう時、どうしていいのか分からないし、慰め方も知らない。それにそんな資格だってないよ」
 拓海は裕斗の背にまわした腕に力を込めたまま、沈んだ声を出す。
「本当は、好きだなんて言える立場ぢゃない事だって分かってたんだ。俺は裕斗の事、何にも分かってなかった。……秋津達と同じように裕斗の事見てただろって言われて、本当にその通りだと思った。裕斗は幸せな環境でぬくぬくと生きてきたって、だから自分とは住む世界の違う人間なんだって思ってたから。……だから兄さんに振られた時、平気で裕斗を利用しようとした。自分の事しか考えられなくて、無神経な事も沢山言ったと思う。秋津達よりも性質が悪いよな、傷付けようと思ってたわけぢゃなくて、裕斗は幸せだから、俺の自棄に付き合わせても傷付く事なんかないって決め付けてた」
「……それは、」
 裕斗は何か言いかけて拓海の腕の中で微かに身じろぐ。拓海は構わずに言葉を続けた。
「でも、好きって気持ちは本当だ。利用しようとして言ったんでも、同情で言ったんでもない。本当は秋津達に会う前、約束の話の時に裕斗に好きだって言おうか迷ってた。だけど、裕斗に惹かれてるのは分かってたけど、まだ兄さんの事を引き摺ってる自覚もあるし、自分がちゃんと卑屈にならずに裕斗と向き合えるまで言うべきぢゃないと思った。だから約束をした。それなのにさっき思わず言ってしまったのは、親近感とかぢゃなくて、肉体の欲望だけで関係したくなかったからだ」
 拓海が話し終えても、しばらく裕斗は黙り込んでいた。抱き寄せている拓海からは、その裕斗の表情は見えない。しかし、腕に触れている裕斗の肌は少し温かさを取り戻していて、拓海はそれだけでも充分に不安は薄らいでいた。少し冷静さを取り戻すと、現実的な事柄に意識が向きはじめる。浴槽の湯は大分ぬるくなってきているし自分は着衣のままだ、自分の事は後回しにするとしても、とりあえず追炊きをしないと裕斗が湯冷めしてしまうかもしれない、拓海はそう思って、裕斗の背に回していた腕を緩めた。
「このままだと、湯冷めしそうだから追炊きしないと」
 離れようとした拓海の腕を掴んで、引き戻しながら裕斗は困惑気味に問う。
「分かんねえな、何でお前が俺に惚れるんだよ?」
「何でって……自分でもはっきりとは分からないけど、多分、裕斗が俺に同情しなかったから、だと思う。俺は幸せそうな人達を見ると卑屈になってたから、今まで兄さん以外の誰とも深く関わって来なかった。自分の境遇や気持ちを打ち明けたら、他にもっと不幸な境遇の人はいるって叱責されるか、辛い思いをしたんだねって同情されるかのどちらかだと思ってた。そんな事言われたら、余計卑屈になってしまう気がして、誰とも深く関わる気にはなれなかった。でも、兄さんと別れて、自棄になって裕斗に縋ろうとした時、裕斗はどっちの言葉も言わなかった。自分の境遇を不幸だって思っても仕方がないし、与えられた人生を生きていくしかないって言われた時、何故だかすごくほっとした。兄さんとの事も家の事も、辛くても受け入れていくしかないって、初めて思えた」
「そんなのお前に甘えられたくないから言っただけだ」
「それでも俺は救われたんだよ。……あ、でも、だからって、俺の気持ちを裕斗に押し付ける気持ちはないけど、」
 長々と語った後で、拓海は気恥ずかしさと自己嫌悪に似た暗い沈んだ気持ちに襲われて目を伏せた。――また身勝手に自分の気持ちばかり話してしまった。もっと他に、裕斗の話に何か、裕斗の苦しみを少しでも取り除けることを言わなければならないと思っていたのに――肝心な時に何の言葉も出てこない。拓海はそんな自分が歯痒かった。
 拓海の重苦しい気分を遮って、唐突に裕斗は笑い声を漏らす。その笑い方は自虐的なものではない。どちらかといえば、ショッパーズモールで秋津達に会う前に気落ちしていた拓海へと向けていた揶揄いに近い屈託のないものだ。
「ネガティブだな、お前」
 口調も笑みもいつもの裕斗だ。裕斗は浴槽のふちに凭れるように座り直して、膝を崩したまま急にくだけた口調で話し続ける。
「あれはそういう意味で言ったんぢゃない。お前の勘違いだよ。まぁでも確かにあの言い方ぢゃ誤解するかもな、」
「あれって?」
 拓海は裕斗の態度が豹変したことに戸惑いを隠せないまま聞き返した。
「あいつ等に犯られた後に言ったことだよ。『お前もそういう風に見てただろ?』って言ったのは、拓海を責めるつもりで言ったんぢゃない。つまり、拓海も俺の事を秋津達と同類だと思ってただろうって言いたかったんだよ」
「え、どうして裕斗が同類になるんだよ」
 拓海は急に打ち明けられた事実に頭が追いつかないでいた。裕斗は動揺した拓海を見て呆れたように笑う。
「いくらなんでも人が好過ぎるぜ、そんなんぢゃ悪党に利用されるのがオチだ」
 あからさまに揶揄われて拓海はむっとした表情になる。裕斗は薄く笑みを浮かべて話し出した。
「考えてみろよ。俺だって拓海の意見は無視して散々体を弄んできただろ? 電車で痴漢まがいの事をやったのだって、いわゆる優等生ってのを間近で見て苛めてやりたくなったからさ。俺のやってた事も秋津達と変わらないぜ」
 薄く浮かんでいた笑みが消え裕斗の瞳に翳が差す。濡れた前髪から滑り落ちる雫が裕斗の頬を濡らして、拓海にはそれが涙のように映った。
「あの頃は散々な気分だったからな。真っ当な世界に憧れてたんだよ。自分の今置かれてる環境とは全く違う環境で暮らす奴と関わってみたかった。試験会場に居る奴は皆それなりに真面目な環境で過ごしてる奴に思えたし、少なくとも普通科に居るような連中は一人も居なかったからな。でもその中でも拓海は際立ってたぜ。全然緊張してる素振りもないし、こんな試験余裕ですって顔ですまして一人で座ってたから。つまり、俺もお前が幸せな人種だと思い込んでたんだよ。だから電車の中で、初めは声かけて仲良くなるつもりだった。けど、思い悩んでるような顔したお前を見たらさ、受験如きで悩んでんぢゃねえよとか思って苛めたくなった。だから俺を利用しようとした事にお前が負い目感じる必要はない。俺だってお前を利用するつもりだったんだからな」
「今は、利用する気はないって事?」
 問いかけで返した拓海は、裕斗からどんな返答を期待しているのかすら分からなかった。自分が裕斗を利用しようとした事には、罪悪感と自己嫌悪を強く感じてきた癖に、裕斗が自分を利用するつもりだったと聞かされても不思議と何の苛立ちも覚えない。むしろその頃の自分の存在に裕斗が何らかの利用価値を見出した事実に、妙な喜びさえ抱いてしまっていた。しかし、その一方でその利用価値を崩してしまいたいと望んでいる自分が居るのも確かだった。多分、裕斗が利用しようとしたのは、自分の肉体の欲望と、傍から見れば真っ当で、何の挫折も知らぬ優等生にしか見えない自分の表層だったのだろう。後者はもう裕斗の中では崩れてしまっている。拓海は、他の人間でも取替えのきく身体や表層に利用価値を認められるのではなく、もっと別の拓海しか持ち得ない部分を裕斗に求められたかった。だが、求められたいと思っている事自体、裕斗に見返りを求めてしまっている事になる。相手を思いやる気持ちだけで、献身的に自己を犠牲にしてまでただ利用されてやるという寛容さが自分にない事を拓海は知っていた。それ以前に、今の自分が裕斗にとって利用価値があるものかすら自信が持てない。問いかけた拓海の心は複雑だった。
「だから、言っただろ? 遊びは終りだって。拓海に利用されてやらなかったのに、拓海を利用しようとすんのはフェアぢゃないもんな」
 きまり悪そうに裕斗は笑って、立ち上がった。
「あがろうぜ。あんまり長く浸かってたら、のぼせそうだ」



 慰める言葉も励ます術も持たない。ただ自分が持っているものは、外へと上手く示す事の出来ない曖昧で脆弱で、でも確実なものを内に秘めた身体の存在だけだ。

 どちらかが言い出したわけでもなく二人は身体を寄せ合っていた。
 湿り気の残る二人の髪へと、窓から差し込む静かな西日が纏わりつく。眠りにつくには早すぎる宵の時の長さを、遊びを終わらせてしまった心と身体が持て余してしまっていたからなのかもしれない。
 浴室を出て、拓海の部屋で髪を乾かしているうちに、ごく自然なことのようにそういう空気になっていた。裕斗が平生のように強引に求めてきたわけでも、拓海から誘ったわけでもない。どちらから、というわけではなく、夕闇の仄かな色がシーツの上に影を落としていくように、気付けば唇を合わせていた。
 ベッドの上に、向かい合う形で横になっていた拓海の胸へ裕斗が手を伸ばしてくる。その触れ方に、いつもの欲望を引き出すための露骨さや性急さはない。ひとつひとつ、その存在を確かめるように静かに肌の上を撫でてゆく。拓海も腕を伸ばして裕斗の肌へと触れた。温もりを取り戻した滑らかな皮膚を指先に感じながら、肋骨を辿ってゆく。柔らかい皮膚の下から揺ぎ無い心音が掌へと伝わってくる。拓海はその拍動を感じているだけで、今までの不安定で曖昧な自分の内側が充分に満たされていく気がした。
 鼓動をもっと確実に感じたくなって、拓海は裕斗の胸に耳を寄せた。裕斗は腕を回して拓海の頭を抱き寄せてくる。しばらく拓海が心音を聴いている間、裕斗の指は拓海の髪を優しく梳いていた。優しすぎる指先に髪を弄ばれているうちに、拓海は自分が裕斗に優しく扱われている事が可笑しくなって、思わず笑みを漏らしてしまう。
「裕斗に頭撫でられてるなんて変な感じだ」
「俺もお前の頭撫でてんの、変なカンジ」
 胸に頭を寄せたままの拓海を見下ろして、裕斗は穏やかに笑う。
「俺、やっぱり裕斗の事、今まで全然知らなかったんだな。初めて見た、そういう風に笑ってる顔」
「俺だってお前が素直に笑ってんのなんて初めて見たぜ」
 裕斗は照れ隠しのように、いつものからかう口調へと戻してぶっきらぼうに言う。裕斗が喋る度、心音とは違う声の響きが頭の中へと染み込んでゆくのを感じながら、拓海は裕斗を見上げた。
「もっと裕斗がどんな人間なのか知りたい。今日まで、裕斗の真意が全く分からなかったんだ、多分、表面的なものしか見てなかったから。裕斗とは理解り合える関係になりたい」
「お前って、たまに真顔で恥かしい科白云うよな」
 真剣な気持ちで言った言葉を揶揄で返されて、拓海は恨めしげに裕斗を軽く睨んだ。裕斗はその視線を悪戯っぽい笑みで受け止めて言葉を重ねる。
「自分がどんな人間か解る奴なんて居やしない。自分でも掌握出来ないものを、他の人間が完璧に理解しようなんて不可能だよ。拓海に会った時の俺も、秋津達と居る時の俺も、今の俺も、全部確かに俺なんだろうけど、それが全てぢゃない。性格なんてはっきり決まってるものぢゃないし、本当の性質なんて存在しない。ただ周囲がどう判断するか、だ。拓海には、秋津は悪人にしか映らなかっただろうけど、それはあいつの単なる一面に過ぎないんだぜ。ふとした事で、判断材料も認識の仕方も変わってしまう。だから、解り合う事なんて幻想だ。そんな事望んでたら、どっかで行き詰るぜ」
 裕斗は宥めるような言い方だったが、拓海は真剣に伝えた望みを遠まわしに断られた事に沈んだ気持ちになった。解り合えない、と言われてしまったら、裕斗へと向かう感情をどう扱っていいのか分からない。黙り込んでしまった拓海の頭をもう一度撫でて、裕斗は笑う。その手は拓海の肩へと下りて、右肩を軽く押された拓海は、裕斗の胸を離れて仰向けになった。裕斗は拓海を見下ろして、悪戯な笑みを浮かべたまま唇を被せてくる。拓海は困惑しながら裕斗のキスを受け入れた。
「俺は、解り合うよりも求め合う方がいい」
 唇を離して、裕斗は試すように言ってくる。拓海は自分の感情の居場所を与えられた気がして、裕斗の背に腕を回して微笑んだ。
「……俺も、その方がいい」
 
 優しく撫でてくる手付きは、兄のやり方と似ている。でも、兄に触れられている時に感じたあの安心感はない。触れられれば触れられる程、自分も裕斗の存在を確認したくなる。
 欲情、とは違う、もっと強い情動だ。その情動は拓海の身体の中を静かに満たして、裕斗の感触を少しでも逃すまいと感覚を鮮明にしてゆく。欲情に駆られて溺れてゆくような激しさはない。ゆっくりと沈み込んでゆくような穏やかで甘い快感を裕斗に触れられる度に拓海は感じていた。色を薄紫へと変えてゆく夕闇を背に浴びた裕斗も柔らかな水底へと共に沈んでいくように思えて、拓海は恍惚としてその背に腕を回して、何度も裕斗の肌の温もりを確かめた。

 



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