二十、少年遊戯(前編)
「シャワー浴びたい」
拓海の家に着くなり、裕斗はまずそう言った。
「中がまだ気持ち悪い、それに手当てするんなら傷口をまず洗わないとな」
裕斗の言い方は、まるでそれが自分の体の事を言っているわけではないかのように平然としたものだ。
あの後、簡単な後処理を済ませてから、拓海は半ば強引に裕斗を自分の家へと連れてきた。とはいえ、それは単にあの場所からは裕斗の家よりも自分の家の方が近かったからだ。ショッパーズモールを出て、覚束ない足取りで勝手に駅に向かおうとする裕斗の腕を掴んで、拓海は通りかかったタクシーに殆ど裕斗の意見を聞かずに乗り込んだ。そのまま拓海が運転手に自分の住所を告げても、裕斗は特に何も言わなかった。ただ、車内ではずっと無言だった。拓海は内心で、裕斗は自分の強引なやり方に怒っていて、拓海の家に入ろうとはしないのではないか、と冷や冷やしていたが、それは杞憂に終わった。
「ついでに風呂も沸かしてくるよ。少し身体を温めた方がいいから」
裕斗をリビングに通して、拓海はそう言って浴室へ向かった。浴槽は今朝湯を抜いて掃除をしたままの状態で、湯は入っていない。拓海は蛇口から流れる湯の温度を確認して、湯が溜まるまでの間、タオルや着替えの用意を済ませ、リビングへと戻った。裕斗は床の上に直に座っていて、いかにも手持ち無沙汰で仕方がない、という顔で、拓海に無理矢理着せられていたコートの裾を触っている。
「なんで床に座ってるんだよ、余計体が冷えるだろ」
リビングに戻るなり呆れた顔で拓海が問うと、裕斗は冗談っぽく笑う。
「いいのか? 汚れるぜ、まだ垂れてきてる。あいつ等の、」
言葉の途中で拓海は裕斗の腕を掴んで、そのままソファへと乱暴に座らせた。半ば衝動的なものに突き動かされてとった行動だ。無理矢理体をソファに押し付けられる形になった裕斗は、体に受けた衝撃に微かに眉を歪める。傷口に障ったのかもしれない。その表情にはっと我に返らされた拓海は、また罪悪感に襲われて暗い気持ちになった。
「体……酷く痛むなら、アスピリンならあるけど」
遠慮がちに拓海が問うと、
「いらねー」
裕斗は拗ねた顔でぶっきらぼうな声を返す。拓海は居た堪れなくなって何か飲み物を用意しようとキッチンへと向かった。裕斗は陵辱された事自体には傷付いた素振りを見せていない、だがその話題に触れる時にはどこか自虐的な言い方をしてくる。拓海はそれにどう対応すればいいのか、労わってやるべきなのか、何事もなかったかのように振舞うべきなのか、正直持て余していた。拓海には普段の裕斗が強気で自信に満ち溢れているように見えていた分、不意に裕斗が自虐的な言い方をするのが余計に痛々しく思えてならないのだ。
「何も聞かないんだな」
ホットココアにブランデーを数滴落としたものを受け取りながら、ぽつりと裕斗は呟いた。伏し目がちにカップを口へ運ぶ裕斗の表情からは、裕斗が一体何を望んでいるのかは読み取れない。拓海は裕斗の隣に座り、しばらく考えを巡らせて静かに言った。
「俺が聞いたら、全部正直に話してくれるのか?」
我ながら狡い言い方だ、と拓海は思う。あらかじめ裕斗の了承を得る事で、自分が裕斗に無神経なことを聞いてしまうかもしれないという不安を紛らわせようしている。裕斗はその拓海の心持を悟ったのか、拓海の質問を鼻で笑って言った。
「やだよ、めんどくせー」
あっさりと返された言葉に拓海は二の句が継げられなくなってしまう。でもぶっきらぼうに言った裕斗の表情が思ったよりも穏やかなもので拓海は少し安堵した。裕斗が話したくなるまでこの話題には触れないようにしよう、拓海はそう思った。無理に聞き出したところで、裕斗の為になるような言葉を言ってやる術を拓海は持ち合わせていない、その自覚はあった。
それに以前に裕斗に言われた言葉――それぞれに与えられた人生があって、それぞれに不幸があり、人はその与えられた境遇で生きて行くしかない――それが裕斗の考えなら、自分があれこれと横から口出しをするべきではない。自分がこれまで生きてきた中で感じた苦痛が本当の意味で自分にしか分からないように、裕斗が今思っている事もこれまでに受けてきた傷の痛みも裕斗にしか知りようがない。それを分かち合おうとする事自体が無粋で偽善的な事で、裕斗自身も下手な同情や慰めなど望んではいないだろう。
拓海は裕斗がココアを飲み干したのを確認して立ち上がった。
「バスルームに案内するよ。そろそろお湯も溜まっただろうし」
裕斗は頷いて、拓海の後をついてきた。
「タオルと着替えは此処、下着は新しいのがあったから気にせず使ってくれ。今着てる服はこの籠に。後で洗っておくから」
脱衣所に着くと裕斗は勝手に服を脱ぎ始めた。拓海は慌てて簡単な説明を済ませ、その場を立ち去ろうとした。裕斗は上半身裸のまま、脱衣所を出て行こうとする拓海の腕を掴む。
「一緒に入ろうぜ」
「……窮屈だろ」
「どこが、一人で入るには広すぎるぜ。それに俺は怪我人だ」
裕斗は拓海の腕を掴んだまま浴室の戸を開けてみて試すように言う。拓海の家の浴室は六畳程の広さで、そのうちの二畳分が浴槽になっている。一般的な家庭の浴室がどの程度の広さなのか拓海には知る由もにないが、自分の家の浴室が一人で入るには広すぎるという事は拓海も常々感じていた。
拓海がどう切り抜けようか考えるより先に、裕斗はさっさと自分の服を脱ぎ捨ててしまい、拓海の服に手をかけてくる。拓海は慌ててその手を遮って言った。
「わかった、体洗うのは手伝うから」
「脱げよ、お前も。濡れるだろ」
「……大丈夫だって、着替えもあるし」
「照れんなよな、今さら」
裕斗は口を尖らせて、先に浴室へと入っていく。拓海はほっと安堵の息を吐いた。自分でも不謹慎だと思うが、直接的に肌が触れ合ってしまうと拓海は平常心を保つ自信がなかった。ただでさえ平生から人肌の温もりに飢えている上、その欲求に容易く自分の理性が挫かれてしまうという事は閉架書庫で裕斗に触れられたときから自覚している。だから、もし裕斗が浴室で戯れに触れてきたら、と考えると拓海はどうしても服を脱ぐわけにはいかなかった。生理的な体の変化を意思で律する事は難しい。それを裕斗に見られるのは嫌だった。
「強情なやつ」
結局服を着たまま腕まくりだけをして浴室に入ってきた拓海をみて裕斗は呆れたように笑う。裕斗は既に自分で体を洗い始めているらしかった。湯気と薄い靄の中で、シャワーの飛沫に打たれて濡れた肌の上
を白い泡が滑ってゆく。
「来いよ、濡れたっていいんだろう?」
裕斗はシャワーを止める事なく、揶揄うように言って拓海に泡立てたスポンジを差し出してくる。拓海は濡れるのも構わずにそれを受け取った。裕斗の肌に弾かれた水滴が拓海の服を湿らせる。仄白い狭霧の中でも裕斗の肌に残る乱暴の痕は目立っていて、その中でも特に首筋に秋津が付けた紅い痣は際立っている。嫉妬、とは言い切れない何か複雑な気分に囚われて、拓海は何度も裕斗の首筋をスポンジで拭った。吸い上げられて出来る痣は、表面上のものではない。皮膚の内側に残されたものが、薄い皮膚を隔ててその内面に傷があると主張しているに過ぎない。秋津が何故わざわざこんな痕を裕斗の体に残すのか、それが拓海には分からなかった。
首筋の痕にばかり気をとられて、裕斗の背中を流す拓海の手は鈍りがちだった。そんな拓海に気付いたのか裕斗は拓海の手からスポンジを取り上げて、そのまま拓海を引き寄せて急かすように言う。
「一番洗わなきゃいけない場所、わかってんだろ?」
振り返って見上げてきた裕斗はいつもの試すような笑みを浮かべている。引き寄せられた拓海は体勢を崩して後ろから裕斗を抱く形になっていた。濡れてしまった服を通して感じる裕斗の背中は、熱いシャワーにあたっていたとは思えない程に冷えたままで、拓海はひどく動揺した。裕斗の肌が冷たい儘なのは、肉体的な負担だけの問題ではなく、心因性のものもあるのかもしれない、それでもとにかく湯船に浸からせて少しでも温めた方がいい。拓海は半ば自分自身にそう言い聞かせて、裕斗の挑発的な言葉に従う事を選んだ。
「早くしろよ、それともこの体勢ぢゃやりにくい?」
覚悟を決めたはずが、いざボディソープを絡ませた中指を裕斗の後ろに当てたまま拓海が戸惑っていると裕斗は急かすように揶揄ってくる。
「このままぢゃ少し、やりづらい」
拓海は正直に言った。実際に拓海の胸に裕斗が背中を凭れさせて立っている状態で、手を動かし辛いのは本当だった。
「よく見えるように、四つん這いになってやろうか」
裕斗は拓海を見上げて、悪戯に笑ってみせる。拓海は慌てて首を横に振った。
「そうぢゃなくて、少し身体を離して欲しいんだ。手を動かしやすいように」
躊躇いがちにそう言うと、裕斗は言われた通りに少し身体を離して、拓海は心底ほっとした。身体同士が密着したままだと、単に物理的にどうこうというよりもむしろそれとは別の自分の生理的なものの心配があったからだ。拓海はそういう問題を今ここに持ち込みたくはなかった。努めて冷静に、これから為される行為は作業の一種だと思い込まなければならない、拓海は裕斗にもう一度確認をとって、ゆっくりと裕斗の中へと指を挿れた。
「沁みたら、言って」
裕斗は拓海の指を受け入れて、小さく吐息を漏らした。拓海はゆっくりと指を動かしながら、不安気に裕斗に言った。裕斗の中は、冷えた肌とは対照的に温かい。拓海は裕斗の内側にはきちんと血が通っていて温もりが損なわれていなかった事に安堵しながらも、指先に絡みつくような柔らかな抵抗とぬるついた感触に心地よさを感じそうになって怯んだ心地になる。
「お前の触り方、すっげーやらしい」
裕斗は振り返って薄く笑う。拓海は反射的に赤くなってたじろいだ。
「からかうなよ、」
出来る限り冷静さを装って、拓海は機械的に指を動かそうと試みた。しかし、冷静でいなければならないと思えば思う程、指先に触れる裕斗の内側の熱ばかりを鮮明に感じ取ってしまうのだ。本来なら、真っ当な主義の人間なら、男のそこに指を入れても不快感しか持たないはずなのに、拓海はそう思ってどうしようもない気持ちになった。嫌悪感どころか、初めて感じる裕斗の中の熱と濡れた粘膜の感触に、そこに指先を侵入させているという事に、どうしようもないくらいに興奮して心を乱されている自分が居るという事を拓海は認めざるを得ない。ただその欲望に理性が屈してしまわないようにと自分を止めさせているのは、裕斗への想いと、今の状況に肉体的な欲望を持ち込みたくないという拓海の倫理的な意志である。
裕斗はそんな拓海の心持に揺さぶりをかけるように、何のためらいもなく濡れた声と反応を返してくる。そして拓海の葛藤をよそに裕斗は振り返り様に拓海の首に腕をまわして唇を被せてきた。何の抵抗も
出来ずに、拓海は裕斗の舌が口内にはいってくるのを受け入れた。――これ以上は駄目だ、溺れてしまう――既に霞みがちになった思考の中に警鐘が鳴る。裕斗の舌は拓海の意志すら容易く弄ぶように、拓海の舌を絡めとって濡れた音をたてる。拓海は呼吸も自由に出来なくなるほどの激しいキスに、四肢の均衡を保てなくなって、裕斗の中に触れていた指を抜いてそのまま縋るように裕斗の華奢な体を抱き締めていた。
「……好きだ、」
長く深いキスの後、拓海は裕斗の首筋に顔を埋めて呟いた。肉体の欲望のためではない。その言葉を言わせたのは、追い詰められた拓海に残された最後の理性だ。
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