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二、電車の中で
「あ、やっと気付いた」
 振り向き様に楽しげな声がした。拓海は痴漢の正体を見て呆気にとられた。その人物が驚く素振りも悪びれる風もないのも予想外だったが、拓海は「痴漢」というものは中年の男性、「痴女」というものは妙齢から中年女性あたりだと勝手に決めつけていた。
 しかし犯人の容姿は、拓海の想像とは一番遠いところにあるもの、小柄な男子学生だったのだ。
 その学生は、自分の通う高校から二駅離れたところにある私立高校の制服を着ていた。その高校はあまり柄が良いところだとはいえないが、目の前に居る人物は特に不良ぶった格好をしているわけでもなく、むしろ育ちの良さそうな端整な容姿をしている。華奢な体といかにも美少年といった色白で柔らかそうな頬がそう思わせるのかもしれない。その少年が悪戯っぽい笑みを含んだ瞳を浮かべていないければ、到底痴漢がその少年と気付かなかっただろう、そう思って拓海は訝しげに少年を睨んだ。
「挨拶もなしかよ。俺さ、てっきり喋りかけてくるもんだと思って待ってたのに無視して帰るんだもん。冷てえよな」
 睨まれた事に怯んだ様子も見せず、拗ねたように少年は言う。拓海は何の話か見当もつかずに逆に自分が怯んでしまう。
「朝だよ、試験会場で手ェ振っただろ。やっと知ってる奴見つけたとか思って嬉しかったのにシカトだもんな、お前。一緒に昼食おうと思ったのにさ」
 少年は大人しそうな顔に似合わぬ横柄な口調で捲し立てる。試験会場で手を振られた覚えもないが、まず第一にこの少年に覚えがない。もともと人の顔と名前を覚えるのが苦手な方だから、試験会場にこの少年が居たのを覚えていなくても仕方がない。しかし、たいして広くもない自分の交友関係を探ってみても、この少年と過去に知り合った記憶はない。
 拓海はしばらく考えて、きっとこの少年が別の誰かと勘違いをしているのだろうと結論づけた。
「人違いだよ」
 一体、誰と間違ったのかは知らないが先刻まで体をまさぐられていた事もあって、拓海は極めて冷淡に言った。少年が動揺でもして謝罪すれば許してやるしかない。何にせよ、あと十五分もすれば自分の降りる駅へと着く。多少気まずくなっても少しの我慢だ。
「は? お前、拓海だろ? 萩原拓海」
 目の前の少年は一瞬きょとんとして言った。
……今日はつくづく予想の外れる日だ、拓海はいちいち考えるのが面倒になってきた。フルネームを言い当てられてしまったからには人違いでは通せない。
「もしかして俺の事覚えてねえの? 裕斗だよ、渡辺裕斗! 保育園一緒だったじゃん」
 拓海は頭が痛くなってきた。幼い頃は病気で保育園は休みがちだったし、何かと家もごたついていた頃でろくな記憶がない。必死にその頃を思い出そうとしても、ありふれた幼児の顔がぼんやりと浮かぶ程度で、目の前の少年と結びつくはずもない。裕斗という少年の記憶力が並みはずれて高いのか、自分が人の名前と顔を覚えるのが苦手なせいなのか、もう一つ解せないのは、仮に保育園が一緒でその頃仲が良かったにせよ、あの痴漢のような行為は一体なんだというのか。
「そんな昔の事、思い出せないな」
「開き直んなよ」
「それに、さっき俺の体触ってただろ。あれは何だよ」
「仕返し。無視されて頭きたから」
「あんな事する人間と仲良くなった覚えはないな」
「思い出せないからって開き直んなよ。あ、もう忘れんなよ」
 開き直ってるのはお前の方ぢゃないか、拓海は思わずそう怒鳴りそうになるのをこらえた。明らかに裕斗のペースに嵌ってしまっている。口では敵いそうにない。あと少しで目的の駅に着く、それまでの辛抱だ。拓海はわざとらしく溜め息を吐いてみせたが、裕斗はお構いなしに話しかけてくる。
「前期受けんの?」
「ああ」
「じゃあ国立大が本命? どこの大学?」
「ああ」
「どこの大学? 合格圏内?」
「ああ」
「どこの大学? 前期終わったら遊ぼうぜ」
「断る」
「何だよ、聞いてんじゃんか! (ああ)ばっか言いやがって! それ無視されるよりムカつく」
「わかったから大声出すなよ。迷惑だろ」
 結局、拓海が折れて志望大学名を言うと、裕斗は満足そうに八重歯を見せて笑った。
「遠いとこ受けんだなぁ。一人暮らし?」
「兄がその大学行ってるから、一緒に暮らすことになると思う」
「つまんねえな。じゃあ今日受けたとこは滑り止めかよ」
 拓海は苦笑して言葉を濁した。そろそろ駅に着く頃だ。
「俺、次で降りるから」
 やっとこの強引な少年から解放される、そう安堵していくらか混雑の和らいだ人波を縫って降り口へと向かう。感じが悪いだろうと思いつつも早く電車を降りたいという気持ちが勝った。「まもなく……駅です」という車掌のアナウンスさえもどかしい。

「で、どうだった?」
 既に解放されたものだと思っていた矢先、後ろから裕斗の声がした。驚いて振り返ると裕斗が当然のように背後に立っている。
「君も此処で降りるの?」
「俺は二駅先だよ。で、どうだった?」
「まぁ、普通かな。すこし古文で時間をとられたけど」
 拓海は、試験の出来の事だろうと思ってそう答えた。実際、滑り止めの私大の問題に手を焼く事などなかったが、祐都にとって本命の大学だったら気を悪くするだろうと妙に気を使ってしまう。
「ばか、試験じゃねえよ。こっちの話」
 そう言うなり、拓海のコートの上から股間を握ってくる。その手を退けようとすると襟首を掴まれて唇を塞がれた。電車の扉の前に立っていた数人が二人を見てぎょっとした顔をして電車を降りていく。
「前期試験終わったらココに電話しろよ。ほら、早く降りないと閉まるぞ」
 裕斗は唇を離すと紙片を拓海のポケットに突っ込んで、からかうように笑った。
 
 


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