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十九、少年遊戯(前編)
 不良達も秋津の後に続いて出て行き、其処には裕斗と拓海の二人だけが残された。裕斗は乱れた衣服を直すこともせず、力なく壁に体を凭れさせている。
 ……身代わり、確かに秋津はそう言った。つまり本来なら、拓海が裕斗と同じ目に遭っていたはずだったのだ。拓海はやりきれない気持ちだった。偶然ならまだ良い、単に不良達の興味が逸れて標的が自分から裕斗に変わってしまったというのなら、裕斗が不本意ながら自分の身代わりになったというのなら、身勝手に憤って裕斗を罵って全て忘れて諦めてこれからの自分を保つ事くらい出来るのかもしれない。たが自分とは違って、裕斗はあの状況から不本意な方へ進む事を阻止する事も、そこから逃れる術も持っていたはずだ。裕斗が自分を庇って酷い目に遭ったというのならたまらない。自分は縛られていたからとはいえ、何も出来ずに傍観してしまったのだから。
 本当は何故こんな事になってしまったのか、裕斗に全て問いただしてしまいたい。裕斗が一体何を考えているのかはっきりと知りたい。しかし眼の前で傷付き弱っている裕斗の姿を見ると、これ以上裕斗を疲れさせる事も追い詰める事も拓海には出来なかった。

 しばらく無言の状態が続いた。裕斗は動くのも億劫そうに壁に背をついていたが、何も言い出せずにいる拓海に無言のまま体を引き摺るように気怠けに近寄ってきた。床には剥ぎ取られた服が散乱したままで、裕斗は釦の千切れた薄青のストライプシャツを羽織っているだけだ。しかし裕斗は恥らう事も気まずそうな素振りも見せず、冷え切った無表情で拓海の傍へと寄った。裕斗の肌にはいくつもの鬱血の痕と、強く押さえ付けられて出来たらしい青痣が浮かんでいる。距離が縮まって、それらがいよいよ生々しく鮮明に拓海の瞳に映った時、拓海は直視し続ける事が出来ずに俯いた。
 裕斗は淡々と拓海を縛りつけていたベルトを外し始める。手首に触れる裕斗の指先は血の通ったものとは思えない程、冷え切っている。拘束を解かれた拓海は不安になって裕斗を振り返った。裕斗は果たすべき役目は終えたという顔で、手すりに寄りかかって目を伏せている。拓海に何の言葉もかけるつもりはないらしい。何も訊かずに自分がこの場から早く立ち去る事を望んでいる、拓海と目を合わせようともしない裕斗の態度を見て、拓海はそう感じた。
 ……たしかに自分は裕斗にかけるべき言葉を持ち合わせていない。でも、だからといって、このまま裕斗を放って帰れるわけがない。たとえ裕斗がそれを望んでいるとしても。
 裕斗の指先の冷たさに拓海は覚えがあった。卒業式の日に駅で裕斗に逢った時だ。そして、その日もたしか裕斗の首筋にはキスマークがあった。あの日も、裕斗は今日と同じような目に遭っていたのではないか。そしてそれを自分は何と言ったか。拓海はそれを思い返して消え入りたいような罪悪感に襲われる。
 それだけではない。裕斗がこれまで幾度となく秋津達に陵辱されてきたのだとしたら、そしてそれが裕斗が必要以上に「欲望」を分けて考える事に拘っている理由になっているのだとしたら、どれだけ自分は無神経な事ばかり裕斗に言ってきたのだろう。拓海は初めて今迄何度となく考えてきた裕斗の真意の一部を知った気がした。そしてそれは、今迄自分が裕斗の事を何一つ分かっていなかった事と自分の事ばかり考えて知らないうちに裕斗を傷つけていただろう事を充分すぎる程、拓海に思い知らさせた。それは拓海を、裕斗と顔を合わせられない、逃げ出したいような気持ちにさせる。
 でもそれを許さないのは、裕斗を放っておけないという気持ちだけではない。裕斗があえて秋津達の企みに乗って、わざわざ自ら酷い苦痛を甘んじて受けた真意を思ったからである。本当の理由は、裕斗以外の誰にも分からないだろう、だが拓海は、何も知らずに裕斗の言う「欲望」や「遊び」に拘泥して身勝手な憶測ばかりする自分に対して、裕斗はその意味を悟らせようとしたのではないのかと考えたのだ。それは裕斗に興味を抱いた事を白状した拓海に、自分の本当の姿と真意を裕斗なりに示したかったのではないか、そう思うと拓海は逃げ出すわけにはいかなかった。
 でも拓海はまだ、裕斗に何と言葉をかけたらいいのか、それとも何も言わない方がいいのか分からずに居た。無神経な言葉を吐くわけにはいかない、そう構えれば構える程、頭の中には色んな感情や言葉の羅列が絡まりあって喉の奥で詰まってしまう。裕斗は考え込んでいる拓海の横で、何をするわけでもなくただ壁に寄りかかっている。その姿を改めて見て、拓海は今はとにかく裕斗の体の手当てを優先すべきだと思った。
 
「……帰れよ、後処理くらい自分で出来る」
 ハンカチを水で濡らしていると、拓海が何をしようとしているか勘付いた裕斗は壁に凭れたまま横目で拓海を睨んだ。拓海は何も答えなかった。裕斗が口で何と言おうと、冷え切った体のまま服の乱れも直さずにいるのは、後処理すら億劫な程疲弊しているからだと判りきっている。拓海は黙ったままハンカチを絞って出来るだけ肌に馴染むようにそれを手の平で温めた。そして、いざそれで裕斗の肌を拭おうと口元に寄せると、裕斗は頑なに拒んでくる。拓海は途方に暮れながらも、裕斗を納得させられそうな言葉を探した。
「秋津って男が裕斗は俺の身代わりになったって言った」
 こう言えば一応の大義名分は出来る。拓海は強引かと思ったが、裕斗の顎を捕らえて手早く頬や口元を汚している残滓を拭った。裕斗は少し顔を顰めて、もう抵抗しようとはしなかった。
「冷たいと思うけど、少し我慢してくれ」
 拓海は裕斗が観念したものだと思い込んで、そう言って拭う手を胸元へと移した。返ってきたのは冷ややかな声だ。
「……俺がお前のために犠牲になったと思って責任感じてるってわけだ。つくづくお人好しだな」
 拓海は作業を続けながら裕斗を見た。裕斗は無表情のまま淡々と言葉を続ける。
「拓海を此処に連れて来たのも、そこに縛ったのも俺だぜ? 第一、お前を助けたいと思ってたらこんな回りくどい真似しなくてもお前が助けを呼ぼうとするのを邪魔しなければ済んだ話だ」
 裕斗の主張は確かにある意味では(もっと)もな話だった。だが拓海が知りたいのはそこではない。拓海は出来る限り穏やかな声を出した。
「俺が知りたいのは、そういう事ぢゃない。何でこういう目に裕斗が遭ったか、だ。でも、話したくないならそれでいいんだ。無理に訊こうとは思ってない。でも、傷の手当てくらいはさせて欲しい」
 拓海はそれだけ言って、汚れてしまったハンカチを洗うために一旦裕斗に背を向けた。蛇口から流れ出る水は春めいてきたこの頃の陽気とは無関係に冷たかった。濯いでいるうちに拓海の指先の体温を容赦なく奪ってゆく。それでも少しでも冷たさを和らげようと、拓海は絞ったハンカチを手の中で何度も擦っていた。
「……加虐心をそそるんだよ。俺みたいなのは」
「え?」
 拓海がハンカチを温めるのに葛藤している隣で、裕斗は唐突にそう言った。拓海が驚いて振り返ると、裕斗は冷めた顔のまま話続ける。 
「俺は傍から見れば、恵まれた環境で何の苦渋も知らず幸せに生きてるように見えるって事。一部の卑屈な人間は俺みたいなタイプは我慢ならないのさ、だから苦しめて屈従させたくなるんだろうな。お前も俺の事そういう風に見てただろ?」
 裕斗が投げやりに言い放った言葉に、拓海は何も言い返せなかった。実際に拓海は今日まで、裕斗が幸せな環境に置かれて愛されて育ってきたのだと信じて疑わなかった。奔放な言動もたまに見せる不安定なところも、裕斗の真意が分からない事さえ、愛されてきた裕斗と自分とでは住んできた世界が違うから仕方のない事だと結論付けていたのだ。それを裕斗に言い当てられて、拓海は卑屈な自分の心持ちを全て見透かされていたのか、と強い自己嫌悪と恥に苛まれた。
 だからといって拓海は、秋津達のように裕斗を屈従させたいと思った事は一度もない。だが、今迄自分が裕斗に対して言った言葉や、自分ばかりが不幸だと思い込んでその苦しみから逃れるために裕斗を利用しようとした事を考えると、結局自分が裕斗に対してしてきた事は秋津達となんら変わりはない、いや無意識だった分、余計に性質が悪い、拓海はそう思って苦しかった。
 自分は今まで裕斗の何を見ていたのか、裕斗の真意も何一つ知らない状態で裕斗に惹かれているだなんて厚かましく信じ込んでいたのか、拓海が今まで勝手に作り上げていた裕斗は単なる身勝手な思い込みの虚像だったのだと悟った。眼の前に居る少年は、拓海が知っている裕斗ではない。いや、初めから知っていたわけではない、勝手に思い込んでいただけだ、裕斗は幸せな環境に守られて傷付く事なく無邪気に育ってきた少年だ、と。本当の裕斗は痛みも何も知らない傷付いた事のない人間ではない、目の前で痛々しい姿で無表情のまま立ち尽くしている少年も、たしかに裕斗なのだ。
 しかし目の前の裕斗は、今まで拓海の知っていた彼とあまりにかけ離れた処にあった。拓海の知る強気で奔放に振舞い表情のころころと変わる裕斗と、今日初めて見た弱気な態度の彼と今こうして感情の消えた冷めた態度を貫いている彼、あまりに違いすぎている。拓海は一体どれが本当の裕斗の姿なのか分からなかった。でも、そのどれも裕斗なのだ。拓海は整理出来ない感情を持て余して、そう思うしかなかった。裕斗という人間をもっと知りたい、自分が裕斗に惹かれているという感情自体は制御出来るものではない、けれど今まで無神経に自分が裕斗にしてきた事や言ってきた事を考えると、自分にそんな事を思う資格などない、拓海は強い罪悪感に泣き出したいような気持ちを抑えて、何も言い出せないまま裕斗の足元に跪いて血と精液で塗れた痛々しい太腿を拭いはじめた。


「……お前も試してみる?」
 太腿を拭い終えて、後は一番酷く傷付いた場所だけだというところで、さすがに拓海は躊躇いから手を止めた。拓海は自分がそこへ勝手に触れていいものなのかどうか戸惑っていたのだ。その事に気付いた裕斗は掠れた声でそう言って自嘲気味に笑う。それはいつもの挑発的な口振りとは違う、ひどく投げやりで自虐的な言い方だった。
「何で俺が裕斗の自棄に付き合わなきゃなんないんだよ」
 内心の動揺を押し殺して拓海がそれだけ言うと、裕斗は不意にいつもの表情を取り戻して声をあげて笑った。
「人の科白パクんなよ」
 拓海は堪え切れずに裕斗の体を抱き寄せた。直に感じる裕斗の肌は以前感じたそれとは別のもののように冷え切っている。裕斗は突然の抱擁に反射的に体を強張らせた。それがまた拓海の感情を酷く揺さぶった。
「……何が本当なのか、わからないんだ」
 拓海は溢れてくる感情の整理が付かないまま震える声でそう言っていた。裕斗が自分の見慣れた笑顔を
見せてくれた事が嬉しいのかもしれない。自分の抱擁を拒むかのように身を固くした事が悲しいのかもしれない。自分の知っている裕斗とあまりにかけ離れた今日初めて目の当りにした裕斗のどちらを本当だと思っていいのか、どう整理して考えればいいのか混乱しているからかもしれない。ただ拓海は抱擁を緩めることもせず、気付けばそんな事を口走っていたのだ。
「……そんなの、俺だってわかんねえよ」
 裕斗は拓海の腕の中で目を伏せて、静かに呟いた。




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