十七、屈辱の後先(後編)
階上から男の話声と足音が聞こえ、拓海は急に現実に引き戻されたような気分になって裕斗から離れた。裕斗はすぐ上の階に人が居た事など気にとめる様子もなく、平然と濡れた唇を手で拭っている。拓海はいくら人気が無かったからとはいえ、公共の場で自分から裕斗に口付けた事が恥かしくなって裕斗の顔を見る事も出来ず俯いてしまった。男達の笑い声と階段を下りてきているらしい足音は次第に近づいてくる。上の喫煙所に居たのだろう。喫煙所に人が居た事に気付かなかったという事は自分達の会話も向こうには届いていないはずだ、そう思って拓海は少し安堵した。男達が階段を下りていく少しの間をやり過ごせばいい、拓海は少しの照れと気まずさで俯いたまま考えていた。だからこそその男達が裕斗の知り合いだという事は全くの予想外だった。
話し声と足音がいよいよ鮮明になった時、それまで平然としていた裕斗が急に身を固くした。拓海がそれに気付いて裕斗を見ると、裕斗は酷く困惑した顔で階段上に姿を現した人物を見詰めている。
裕斗の視線の先には、同じ年頃のいかにも柄の悪そうな四人組みの男達が、そういう人間特有の投げやりな足運びで階段を下りてきていた。拓海には全く見覚えのない顔ぶれだ。裕斗は知り合いなのだろうが、裕斗の強張った表情を見る限りその男達と歓迎するべき関係を持っているとは言い難い。
「あれ? 裕斗じゃねえか」
拓海が裕斗に何か聞こうとするよりも先に、裕斗に気付いた四人組の一人が声をあげた。その男が軽快に階段を駆け下りて裕斗の前に立つと、裕斗は反射的に肩を揺らして怯んだ様子を見せる。
「思ったより元気そうだな」
彼は隣に座っている拓海を一瞥して、含みのある言い方をする。運動に長けた者特有のしなやかな身体のラインが褐色の肌に馴染んでいる。身長は拓海とさほど変わらないが、体格には数段の差があった。肩幅や薄手のシャツの上からでも判る程好く発達した筋肉の在り様は、拓海や裕斗の身体とは異質の力強さを持っている。短く刈られた黒髪も端整な顔立ちと身体に似合っていた。しかし拓海には眼の前に現れた人物が単なる健全なスポーツ少年としては映らなかった。それは単純に残りの連れ三人が不良っぽい容姿をしているからだけではない。話し方や自分達を見下す視線が、今までに何度となく拓海が向けられた事のある不良に属する人間が優等生を小莫迦にするような侮蔑を含んだそれと同一のものを持っているからである。圧倒的に力関係が上だと知る者の持つ余裕に満ちた表情は、畏れるものが何一つないと思い込んでいるだけに健全とは言い難い鋭さと危うい雰囲気を纏っている。
拓海は小声で「誰?」と裕斗に訊いてみたが、裕斗は眼の前の男を見上げたままで黙りこんでしまっていた。
「やけに小奇麗なの連れてんじゃん、新しいおホモダチかよ」
「卒業して秋津とヤれなくなんのが寂しいんじゃねえの」
「慣れたもんだよな、初めは一週間くらい休んでなかったっけ?」
遅れて階段を下りてきた三人は、裕斗を見るなり下卑た笑みと言葉を投げかける。裕斗は秋津と呼ばれた男から目を逸らして、その三人を睨みつけ冷めた声で言った。
「関係ない。こいつはヘテロだ」
拓海は不審気に裕斗を見た。裕斗は硬い表情のまま拓海を一瞥してすぐに視線を逸らす。一瞬自分に向けられた瞳には、(話を合わせろ)と有無を言わせずに拓海を従わせようとする裕斗の意思が感じられた。
「懲りないな、まだヘテロに手を出してんのか?」
秋津という男は蔑むように笑って、裕斗の髪を乱暴に掴んで顔を上向けさせる。裕斗は微かに怯んだ様子を見せたきり抵抗しようとはしない。何時になく弱気な裕斗の姿勢に戸惑いつつも、拓海は裕斗を助けようと秋津の手を掴もうとして別の男に逆に肩を掴まれた。
「うわ、細えコイツ」
岩のようにゴツゴツとした指で拓海の肩を掴んだ男は驚いた声を出して揶揄う。
「秋津とは違うタイプだな、一応懲りたんじゃね?」
浅黒いニキビ肌に黄ばんだ歯を見せて、別の男が秋津へと笑いかける。秋津は裕斗の髪を掴んだまま
「へぇ、次は大人しそうな男にしようってわけだ」
と冷ややかに笑う。裕斗は目を伏せたまま何も言わなかった。
現状を把握しきれない儘、対応を決めかねていた拓海は次第に冷静になってきた。目の前の男達が裕斗の知り合いだとしても、明らかに良い関係とは言い難い。それに揶揄されている裕斗があえて黙っているのは相手に何か弱みでも握られているのだとしても、初対面の自分まで侮辱されてそれに堪えてやる義理はない。冷静になったと同時に理不尽な状況に苛立ちを感じて、拓海は肩を掴んでいる手を勢いで振り払った。振り払われた男は不愉快そうに拓海を睨みつけてくる。喧嘩などしたこともないし、体格でも人数でも明らかにこちらの分が悪いのは拓海も承知していた。ただ気持ちの上で、この状況に屈服したくなかっただけだ。どうせなら一発くらい殴ってやりたい、そう思って拓海も相手を睨み返した。
「止せよ、拓海」
一触即発という状況で、裕斗は酷く冷たい声を出した。
「お前まだ受験終わってないんだろ? 暴力沙汰なんて起こすもんじゃないぜ」
裕斗は淡々と言葉を続ける。納得のいかない気持ちで拓海が裕斗を見ると、裕斗は自嘲的な笑みを浮かべて
「それにムカついてんのなら、また俺を殴ればいいだろ」
と言う。その言葉の意味がわからずに困惑した拓海を無視して裕斗は拓海と睨み合っていた方の男に宥めるように話しかける。
「悪いな、そいつ気が立ってんだよ。さっき俺に手ェ出されそうになったから」
「へッ、それでホモ扱いされてキレてるってわけだ」
裕斗の言葉を受けて興味が移ったらしく、その男は睨むのを止めてにやにやと下拙な笑みを浮かべる。
拓海はすぐに口先だけの言葉に惑わされるその男がひどく滑稽に見えて、少し安心した。喧嘩にならなかったからではない、裕斗がいとも簡単にその男の怒りを打ち消したからだ。裕斗はこういう類の人間の扱いにに慣れているのだろう、拓海はそう思ったのだ。何も馬鹿正直に相手をして事を荒立てる必要も無い、裕斗があえて拓海の事をヘテロだということにしたがるのも、この男達との会話を早く終わらせるためにはその方が都合が良いのかもしれない。拓海は先に見せた裕斗の弱気な態度も、この状況を切り抜けるための演技なのだろうと独り合点して、自分が余計な口を挟むよりも裕斗に任せた方がいいと思い込んでしまっていた。
……浅慮だった、と気付かされたのは、そのすぐ後だ。自分でも愚かしく思える事に、不良達が裕斗を揶揄する際、何度も口に出した「秋津」と呼ばれる男と裕斗の関係の事を拓海は考えていなかったのだ。秋津も残りの三人と同等のものだと片付けてしまっていた。それが痛恨のミスとなって思いもよらない痛手を負わされる羽目になった。
「殴られたのか? ……あぁ、確かに少し腫れてるな」
秋津は裕斗の右頬に手を当てて静かに言う。裕斗は気まずそうに視線を落として表情を曇らせた。
この時、初めて拓海は裕斗にとって秋津の存在が残りの不良達とは異質のものであると気付かされた。思い返してみれば当然の事だ。裕斗が普段とはかけ離れた弱気な態度を見せたのは秋津に対してだけで、そう考えれば単なる揶揄だと思ってしまっていた不良達の軽口も現実味を帯びてくる。
裕斗は秋津に特別な感情を抱いている、拓海は確信した。
――ただそれが恋愛感情だとは、拓海はどうしても思いたくはなかった。無論、それ以外に考えようはない。だが、そう結論づけてしまえば、裕斗の秋津に対する感情を知っているらしい不良達の言動や秋津の態度は裕斗にとってあまりに残酷で痛ましいものではないか。拓海は裕斗の心情を想像して苦しかった。
秋津は不意に裕斗の頬から手を離して、何か面白い事でも思いついたとでもいう風に不良達を呼び寄せて何か小声で話し始めた。不良達は不適な笑みを浮かべて横目でこちらを見てくる、拓海は嫌な予感がした。裕斗もまた如何にも悪巧みをしているという風の秋津達を不審気に見詰めている。それに気付いた秋津が裕斗に何か耳打ちする。裕斗は一瞬驚いた顔をして、その後すぐに声をあげて笑い出した。
「いいぜ。早くしろよ」
そう言って立ち上がった裕斗に先程までの弱気な面はない、別人のように冷ややかに笑っている。
何が起こったのか分からないうちに、拓海は秋津に腕を掴まれていた。逃れようと体を捻ると、乱暴に強い力で後ろ手に拘束される。裕斗は振り返る事もせず階段を上り始めた。拓海は無理矢理背後から押上げられる形で階段を上らされた。混乱した拓海に裕斗の真意を考える余裕はない、それどころかこの状況で裕斗を信じていいのかすら分からない。身の危険を感じざるを得ない状況だ。頼みの綱だった喫煙所に人の姿はない。裕斗は踊り場の端にある障害者用のトイレへと入ってゆく。遅れて拓海も半ば突き飛ばされる形でそこへ押し込められた。
一瞬拘束が解かれて拓海の頭に浮かんだのは、とにかく助けを呼ぶことだ。障害者用のトイレには非常時用の緊急呼び出しボタンがあるはずだ。拓海は洋式トイレの横のタイル張りの壁にある赤いボタンを探し当てて、藁をも掴む心持でそれに手を伸ばした。
その手を掴んで遮ったのは、他の誰でもない裕斗だった。
「な、んで」
瞠目して拓海は震える声で訊いた。
「大人しくしといた方がいいぜ、怪我したくないなら」
裕斗は冷笑して、拓海に触れるだけの口づけを落とした。
「先走ンなよ、裕斗」
「また殴られるぞー」
すかさず野次が飛んでくる。拓海はその野次をぼんやりと聞きながら、あぁ、自分は裏切られたのか、と絶望的な気持ちになった。
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