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十六、屈辱の後先(前編)
「……裕斗の中で、もう遊びは終わってるのか?」
「ああ」
 どうせはぐらかされるだろうとタカをくくって訊いた拓海は、裕斗にあっさりと肯定の言葉を返されてたじろいだ。しかしそれは拓海を核心に迫らせるというよりも混乱させるばかりだ。
「でも、俺に対する裕斗の態度が変わったようには見えないけど」
 拓海は納得のいかない気持ちでそう言った。裕斗の不自然なまでに自然な態度が拓海の中で何か引っ掛かって躊躇わせているのだ。
「それは俺の中での問題だからな。別に拓海の前で一々態度変えたりはしねえよ。遊びって言っても目的くらいある。強いて言えば、拓海は俺の期待に答えてくれそうもないから遊びは終りにした。気は済んだか?」
 裕斗は事も無げに言い放って、挑発的に拓海を見上げた。瞳には面倒な話題を終わらせたいという裕斗の意図が透けて見えて、拓海は黙り込むしかなかった。
「拓海がこだわる事ぢゃないだろ? 大体、遊びって言葉自体お互いが了承して始めたもんぢゃない。俺が勝手に始めたものだ。終わらせるのだって俺の勝手だ」
 何も言えずにいる拓海に追い討ちをかけるように裕斗は言葉を重ねる。予想していた以上に突き放す言い方をされて拓海は呆然とした。
 裕斗の家に泊まった日から拓海はある種の負い目のようなものを裕斗に対して感じていた。それは謝罪の目的とは別のところで、である。謝罪そのものは、兄と別れた苦痛を紛らわせるために裕斗を利用しようとした浅はかな自分を宥めるためのものでしかない。だからそれを理由に裕斗に詰られる事も突き放される事も受け入れるべきだと拓海は考えている。でも、拓海が裕斗に言われた「遊びは終り」という言葉に固執しているのはそれだけが理由ではない。K駅で別れてから、裕斗から電話が来るまでの三日間、拓海なりに真剣に考えて一応の結論は出していたのだ。
 自分は目の前の少年に惹かれている、と。
 だからこそ告げておきたい事があった。それを言うために逃げ帰りたい恥を忍んで、拓海は裕斗に謝罪の品を買った後も、あえて別れずにこの場所に来たはずだったのだ。だが現実は想像していたよりも上手くゆかず、拓海は考えていた言葉を告げる程の余裕もない状況にいる。自分が裕斗に興味を持ったと同時に、裕斗は自分への興味を失ってしまっている、お互いの心情が噛み合う事なく離れていってしまった事実を裕斗の言葉で知らされた拓海は、それがどうしようもなく歯痒かった。
「……それに付き合わされた方の気持ちはどうなるんだよ?」
「だから拓海への態度は変えてないだろう、何が不満なんだよ?」
 裕斗が拓海の心持を知るはずもない。拓海の中で感情的な衝動が増す程に裕斗の声は落ち着いてきて、拓海を宥めるようなものへとなっていく。だが裕斗は、それが逆に拓海の感情を逆撫でてしまっているという自覚はないらしい。
「……そこまで見くびられてるとは思わなかった」
「どういう意味?」 
「見くびってるぢゃないか! 裕斗のいう期待は、俺が割り切って考えてお前の体の欲望を満たしてやれるかって事だろ? 勝手にそんな期待を持たれて失望されるのなんて人を馬鹿にしてる。……終りだって言われた時、俺は兄さんの事で自暴自棄になって裕斗を利用しようとしたから、裕斗はそれに嫌気が差したんだと思った。俺は欲望を分けて考えられないから。だから俺の精神の欲望に付き合わされるのが嫌なら仕方がないと思ってた。裕斗は自分の考えに人を巻き込むなって言ったよな? でもお前だって結局、身勝手な遊びに俺を巻き込んでるぢゃないか」
 堪えきれなくなって拓海が感情の勢いに任せて口走った言葉は酷く支離滅裂なものだった。責めるような口調で拓海が詰っても、裕斗は動じる様子もみせない。ただ眼を伏せて
「悪かったよ」
 と呟く。その謝罪の言葉で、拓海は行き場のない苛立ちを言葉にする道を断たれてしまう。かといって胸の内に流れ出す怒りとも悔しさともとれない遣る瀬無さは止まる事はない。だから罵るより先に、手が出てしまったのだ。乾いた音と右手に残る痺れるような痛み、それを感じて初めて拓海は勢いに任せて裕斗を打ってしまった事に気付いた。裕斗は打たれた事に驚きもせず、痛がる素振りもみせなかった。ただ無表情のまま見つめられて、拓海は罪悪感に似た後味の悪さを感じるばかりだ。裕斗は顔には出さないが、自分は酷く力を込めて打ったはずだ。裕斗の口の端には薄く血が滲んでいる。その自分が負わせた傷を目の当たりにすると、それまで自分を支配していたはずの苛立ちも嘘のように消えてしまって、拓海は頭の中が冷えていくような気分になった。
「大丈夫か?」
「よく云うぜ、手加減無しで打っといて」
 不安になって拓海が打った頬へと手を当てると、裕斗は怒るわけでもなくぶっきらぼうに笑う。叩かれたはずみで八重歯で唇を切ったらしい。上唇の端から滲む鮮血が小さな八重歯を赤く染めている。かすかに熱を持った左頬と唇の傷を確認した拓海は、裕斗の体が自分の想像以上に脆い事に改めて気付かされた。普段の裕斗の強気な態度ばかりを見せ付けられている拓海にとって、裕斗の華奢なつくりの肉体の本質は見過ごされがちなものである。裕斗自身が打たれて平気な風を装ったとしても、裕斗の身体それ自体は見た目通りに傷を負いやすく強靭なものとはかけ離れたものなのだ。そう思うと尚更手をあげた拓海は後味が悪かった。
「冷やした方がいい、腫れるかもしれないから」
 拓海がハンカチを濡らしにいこうと立ち上がると、裕斗はその腕を掴んで隣へと強引に引き戻す。
「たいした傷ぢゃない。舐めてくれれば治る」
 出し抜けにそう言われて拓海は思わず赤くなってしまう。裕斗はいつもの拓海をからかう口調に戻っていて、先程までの遣り取りの緊迫感も沈んだ空気も全て打ち消してしまっている。ただ未だに罪悪感を引き摺ったままの拓海はそれに直ぐ対応し切れずに戸惑った。
「冗談だ、そんな顔すんなよ」
 裕斗は自分で口端を舐めて八重歯を見せて笑う。自分がどんな顔をしていたのかを考えて拓海は妙に気恥ずかしくなった。 
「でもお前って本当にネガティブだよな」
 急に裕斗は面白そうに笑い出す。困惑した表情の拓海を一瞥して裕斗は続ける。
「遊びは終りって言った後に、今まで通りこうやって会ってるんだぜ? もう一つくらい解釈の仕方があってもいいだろ?」
「何、」
「例えば、俺が本気で拓海を口説く気になったとか、」
「なッ……思えるわけないだろ! あの状況で終りって言われたら」
「それもそうだな」
「それに、本気で口説こうと思ってる相手に普通こういうモノ買わせないだろ」
「口説いて落とせるとは思ってなかったからな。これは拓海の代わりに使うんだよ。丁度お前のあれってこれくらいの大きさくらいだったし」
「何だよ、それ」
「どうせ大学入ったらお前とは離れる事になるんだし。新しい相手が見つかるまでコイツで我慢するさ。そういえば拓海は合格発表済んだのかよ? まぁ、どうせ受かってるんだろうけど。あ、じゃあやっぱり一つ分けてやるよ。俺からのささやかな合格祝いだ。拓海も兄貴の代わりに使えばいい」
 裕斗は真顔でそう言って、黒い包装紙に包まれたそれを強引に拓海に押し付けてくる。もう会話は普段通り裕斗のペースになっていた。拓海は心の中で少し安堵しつつ、自分の心情を裕斗に伝えるのは今しかないと思った。裕斗に無理矢理渡された玩具を押し戻しながら、覚悟を決めて自分でも驚くくらいに静かな声で言う。
「合格発表は十日だけど、多分駄目だったと思う。それにもし受かってたとしても行かない。別の大学を受け直すことにしたから」
「何で? 兄貴に振られたからか?」
「それもあるけど、兄さんには彼女っぽい人が居るみたいだし、……やっぱり俺も兄さんに頼らずに生きていけるか試さないといけないと思って」
「そっか、それなら尚更これが必要になるぢゃないか。遠慮すんなよ、一つ分けてやるから」
「……人が真面目に話してんのにからかうなよ」
「俺なりの思いやりだよ」
「別のものがいい」
「意外と強欲だな。何が欲しいわけ?」
 やっと本題に入れる、と拓海は息を吐いてはっきりと告げた。
「約束だ」
「約束、」
「もう一度、付き合って欲しい」
 裕斗は唐突な拓海の言葉に一瞬驚いた顔をして、それから眉をひそめて首を傾げた。結論を言い急ぐあまり言葉が足りなかったと拓海は気付いて慌てて弁解をする。
「付き合うっていっても、恋人とかそういうのぢゃなくて、普通の付き合いでいいんだけど、」
「ああ、そういう意味か。なんか色々混乱した。で、もう一度っていうのは?」
「多分、今の儘だと前みたいに身近な温もりに縋りたくなって、また裕斗を利用しようとするかもしれない。裕斗がそれに応じないのは分かってるけど。だからと言って甘えるわけにはいかないし。裕斗に言われて気付いたんだ。俺自身、卑屈な所があって過去の事を引き摺ってばかりだから、幸せな環境に恵まれてる人間を見ると、どうしても住む世界が違う気がして距離を置いてしまう。でも流されてしまうのは臆病な癖にどこかで愛されたがっているんだと思う。だけど裕斗の云う通り、結局は自分の人生も過去も変えようのない事だし、誰かに縋るんじゃなくて自分で責任を持って生きてかなきゃいけない。まだ充分とはいえないから、もう少し自分に余裕が持てるまで強くなれたら、もう一度裕斗と最初からやり直したい」
 拓海がそう告げると一瞬裕斗は何か言いたげな顔をして、直ぐに眼を伏せて暫く黙り込んだ。拓海はそれ以上重ねる言葉もなく、ただ裕斗の返事を待つほかない。伏せた瞳の奥で裕斗が何を考えているのか拓海が探りあてるよりも先に、裕斗は小さく笑って顔をあげた。
「つまり、拓海は俺に興味を持ったって事だな?」
 声も表情もいつもの揶揄いの色を含んでいる。今度は拓海が眼を伏せる番だった。肯定するより他はないのだが、揶揄うように裕斗に云われると妙に照れくさくなる。はにかんだ拓海を笑って、裕斗はまた試すように言った。
「いいぜ、約束してやる。でも俺は気が短いからな。あんまり待たされるとお前の事忘れちまうかもしれないぜ」
 拓海は裕斗の言葉に顔をあげた。裕斗が笑みを濃くしたのは自分が不安気な顔をしていたからだろうか。拓海はそのまま首に腕を回されて引き寄せられた。裕斗は顔を近づけて至近距離で囁く。
「キスしろよ。お前から」
 驚いて目を見開いた拓海に、裕斗はさらに注文を加える。
「俺が忘れられなくなるくらいのを」
 拓海は言われるままに唇を重ねていた。元から受身にまわる性質の拓海に積極的なやり方が分かるわけもなく、緊張感ばかりが増して鼓動が煩くなる。おずおずと舌を唇に当てると微かに血の味が舌先へと触れる。裕斗はやんわりと唇を開いて拓海の舌を受け入れた。濡れた音を立てて、緩く舌先を吸われる。深い割に激しさのない穏やかなキスも、結局主導権は裕斗の方へといつしか移ってしまっていた。拓海は差し出した舌を裕斗の口内で弄ばれながら、こっちが忘れられなくなりそうだ、と緩やかな快感に浸りながらぼんやりと考えていた。


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