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十四、紺青の溝
 
 三日ぶりのK駅構内は相変わらず人が多かった。待ち合わせの時間より三十分も早く着いてしまった拓海は、人込みを逃れたい気分もあって街を散策することにした。裕斗の住む街は駅周辺こそ栄えてはいるが、駅前通りを抜けると長閑な住宅地に変わる。手入れの行き届いた街路樹と並ぶ家々の生垣の緑が気だるい春の午後の空気を彩っていた。木々の揺れる音に耳を傾けながら短い散歩を済ませて駅に戻ると、制服を着崩した裕斗が駅前の時計台に凭れるように立っていた。
「何でそっちから来るんだよ」
 拓海が傍に寄るなり訝しげに問う。
「早く着いたから、少し歩いてたんだ」
 裕斗は拓海の言葉には返事をせずに歩き出して、通り沿いの駐輪場の奥にポツリと置かれた古びたベンチへ腰を下ろした。
「座れよ。話って?」
 裕斗の声も態度もいつも以上に素っ気ない。言われた通り拓海が隣に腰掛けると、寄りかかるように拓海の肩に頭を乗せてくる。裕斗の素っ気なさの原因は拓海に対して不機嫌になっているというよりも単に疲れ果てているという雰囲気だった。
「この前、泊めてもらったお礼も言ってなかったし、自棄に付き合わせて悪かったなと思って」
 遠慮がちに拓海は口を開く。
「……別に自棄に付き合った覚えはないけど」
「でも急に押しかけたようなものだし、色々聞かせて迷惑かけた。それに感情的になって裕斗にも失礼な事言ってしまった。反省してる。裕斗は遊びは終りだって言ってたから、今さら連絡するのも迷惑かと思ったけど謝りたかったんだ」
「あぁ、そういえばそんな事も言ってたな」
 裕斗は他人事のように呟く。拓海は裕斗の言う「そんな事」が自分の失言を指すのか裕斗の「遊びは終り」という言葉を指すのか判断しかねた。絶えず電車の通り抜ける騒音が響き、駐輪場にも学生が入れ替わり立ち替わり姿を見せるので、この場所は落ち着いて話をするには向かない。その上、当初の目的だった謝罪の言葉を言ってしまった後では、拓海は何をしていいのか途方に暮れるしかない。普段、強引に事を進める裕斗が口数も少なく怠そうに視線を空に向けたままなのも、拓海を戸惑わせていた。
「何だか、いつもと感じが違うな。体調でも悪いのか?」
 拓海は遠慮がちに訊いた。
「疲れてるだけだ。今日は」
 裕斗は何でもないような口調でそう答えたが、投げ出すように寄りかかっていた裕斗の体が一瞬強張ったのが拓海には分かった。言葉通りに受け取るには、裕斗の見せたその些細な変化は不可解だ。小さな疑心が一つ生まれると、それを取り巻く全てのものがその疑心を中心に色を変え始める。客観的に物事を判断しようとして理屈っぽくなる割に独りよがりのネガティブな思考に囚われてそのまま結論を急ぐ拓海の性質は、兄との別れを経験しても尚変わってはいなかった。拓海の訝しげな心持を孕んだ視線に気付いた裕斗は、拓海から体を離してベンチの肘掛へ凭れるように座り直す。距離が離れた事でおのずと拓海からは裕斗の表情も姿も確認しやすくなる。
「うちの高校ぢゃ、卒業式が終わった後に打ち上げがあるんだ。全校生徒あげてのレクリエーション、まぁでも子供騙しさ。俺はその委員で、準備や進行で一日中走りっぱなし。だから疲労困憊してるってわけ」
 裕斗は拓海の気持ちを見透かしたように笑う。本来なら裕斗のその言葉で拓海も納得がいくはずだった。ただ裕斗の弁解を聞く前に、拓海はその疑心を増幅させるあるモノに気付いてしまった。その発見の後では、裕斗の言葉は余計に拓海の気持ちを逆撫でるだけだった。
「……これも、レクリエーションの一環か?」
 拓海は裕斗の首筋に触れて訊いた。裕斗は一瞬、きょとんと拓海を見上げたが直ぐに拓海の言わんとするところを理解して身を固くする。それは裕斗自身にも思い当たる事があるという事だ。裕斗の首筋に鮮明に残る小さな鬱血の痕が、単なる打ち身や痣の類でないことくらい拓海にだって判る。裕斗はもう弁解するつもりもないらしい。顔を背けて如何にも面倒くさそうに息を吐いてみせる。
「遊びは終りって、そういう意味だったんだな」
 拓海は半ば独り言のように呟いた。――つまり、裕斗にとって自分は肉体の欲望を満たすためだけの存在で自分との関わり自体もまさにそれである、それだけを求める裕斗に内面の私情を持ち込んだのは自分自身で、それに付き合わされるつもりのない裕斗は遊びは終りだと言った、そう言って日も経たぬうちに裕斗は新しい遊び相手を既に見つけてしまったのだろう――考えたところでそれまでである。裕斗は初めから自分の精神的な欲望は興味も尊重もしないと断言していたのだから。
「棘のある言い回しだな。言いたい事があるなら、はっきり言え」
 裕斗はあからさまに不機嫌な口調になった。拓海は感情的になって裕斗を詰ったり、痴話喧嘩まがいのことをしたりするつもりはなかった。重苦しい気分を圧し込めたまま、出来る限りで冷静な声を出す。
「喧嘩したいわけぢゃないんだ、どうせ口では裕斗には敵わないし。ただ、俺は裕斗の言う遊びの意味がよく分かってなかったんだ。でもやっと分かった。体の関係の事だったんだろ? 俺は肉体だとか精神だとかを混同してしまうから遊び相手には向かないだろうし、それで裕斗はもう新しい相手を見つけた。言い方が気に障ったのなら謝るよ。変に誤魔化されるよりは、はっきり言って欲しかっただけだ」
「拓海がそう思ってるなら、別に構わない。解釈なんて自分の主観でしか出来ないからな」
 裕斗は否定も肯定もせず、まるで他人事のように言う。はっきり言ってくれればそれで済む話なのに、と拓海はもどかしい気持ちになる。このまま終わってしまえば、最初から最後まで裕斗の真意がわからないままだ。だからと言って微かな苛立ちと憂鬱に押されて口論になるのは避けたい。前回、感情的になって身勝手な言動をとった事を謝るために疲れているらしい裕斗を呼び出しておいて、そこで口論になってしまえば本末転倒だ。第一、裕斗が他に遊び相手を作ろうと素っ気無く振舞おうと、それは裕斗の勝手でそのことを拓海が責める筋合いはない。そう思えば思う程、不思議と苛立ちは募る。整理のつかない拓海の心を知ってか知らずか裕斗は挑発するような言い方をしてみせる。
「遠慮しないんぢゃなかったのか? お前って怒ってる時あからさまに顔に出す癖に黙り込むよな。だから簡単に付け込まれるんだよ」
「付け込まれるって、」
「表情なんて気付かなかったで済む話だからな。嫌だと言えば良いのに言わないから拓海は結局俺に流されてきただろ? それとも電車でも図書館でもあぁいう事されんのがお前の望みだったわけ?」
 挑発に乗ったところで結果は目に見えている。むしろ裕斗が挑発的な言葉を使うのは、自分を戸惑わせて彼の真意を悟らせまいとしているように拓海には思えた。裕斗がそのつもりならどうしようもない。拓海は諦めて立ち上がった。
「……帰るよ。今日は謝りたかっただけだから」
 陽は傾いて春日の曇りを物憂げに染め始めている。埃っぽい空気も次第に肌寒さを感じるものになってきた。陽が落ちれば更に冷え込むだろう。疲れている裕斗を此処でいつまでも付き合わせるのも気が引ける。それが情事の後だというのなら尚更だ。裕斗は怠そうに立ち上がると、そのまま拓海の手を掴んだ。その指先は冷え切っていて、拓海はその冷たさに驚いて裕斗を見つめた。
「謝るのは態度ぢゃなくて言葉なんだな」
 いつもの試すような口振りだ。
「態度で示した方がいいのか?」
「あぁ。都合のいい事だけ言葉にして、言い難い事は態度で示すってのは卑怯だぜ」
 裕斗はそう言って歩き出す。拓海も一歩遅れて裕斗の後を追った。
「どうすればいい?」
「そうだな、考えとく」
「分かった、」
 駐輪場を抜けて駅前に着くと裕斗は振り返って言った。
「俺は別に新しい相手なんか見つけてないぜ」
「え、」
「これを付けた奴とはお前と会う前からそういう関係があるって事」
 裕斗は冷淡に笑って自分の首筋を手で押さえてみせた。拓海はその笑みの意味も分からないまま呆然と立ち尽くして、去っていく裕斗の後ろ姿を見つめた。 



  


 





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