十三、紺青の溝
目が覚めた時には、裕斗の姿はなかった。代わりに机の上に走り書きのメモが置いてある。
「学校行ってくる。鍵はポスト」
人の事を無防備だと馬鹿にする割に、裕斗は初めて家に招いた人間に鍵の在り処を教え平気で置き去りにする。起こしてくれれば良かったのに、と拓海は独りごちて眠気の抜けきれないまま身支度をした。
高校生活は卒業式を控えただけだった。拓海の通う高校は進学校特有の考えからか、センター試験後の自己採点と最後の進路相談を終えてしまえば卒業式当日までは出席はしなくてもよい事になっている。生徒各自の判断で、予備校に通うなり補習を受けるなりして受験勉強の仕上げをする。生徒の自主性を慮る校風と言えば聞こえがいいが、実際は教師も生徒も試験の点数ばかり気にかけていて人間味の感じられない場所だ。特に受験に必要のない行事は疎かにされる傾向が強く、文化祭も体育祭もそういう行事が好きな一部の生徒以外はほぼ無関心で盛り上がりに欠けるものだ。そういう行事に無関心な立場の拓海も、いわゆる高校生らしい青春からは程遠い日々を過ごしてきた。孤立していたわけではない。クラス内はいくつかのグループに別れ、そのうちの一つに拓海も属してはいる。しかし昼食を共に摂るか、雑談する程度で親密な話をする事もなければ校外で遊んだ事もない。卒業すれば連絡を取り合うこともないだろう。それは人と距離を置いて接する事を好む拓海の性質によるものもあるだろうが、拓海の高校の生徒全員に通じる気質だと言っていい。むしろ拓海の性質自体、その高校で培われたものなのかもしれない。裕斗のように奔放に振舞う生徒は一人も居ない。
裕斗の通う高校は、地元でも大きな私立高校で通う生徒のタイプも様々だ。高校自体にはあまり良い印象はない。それも少人数クラスの特進、進学コースを除いた大多数を占める普通科の生徒の素行が良いとは言いがたいからだ。進学と普通科の壁は大きく、公立高校受験者は大抵滑り止めとしてその高校の進学科を受け、その中でも成績の優秀な者だけが特進科へ振り分けられるようになっている一方で、普通科は名前さえ書ければ受かるという噂が立つほどに敷居が低く、そのために悪い評判の立つような素行の生徒が目立つ。拓海が知っている裕斗の高校の情報はその程度の断片的なもので、実際の校風やカリキュラムなどは知る由もない。裕斗は特に学内の話をするわけでもないので、拓海は裕斗がどの科に属しているのかすら知らない。ただ裕斗が大学を受験している事を考えると特進か進学だろうと推測する他ない。
改めて裕斗の事を何も知らないのだ、と拓海は思い知らされた。裕斗が「お前は俺に興味を持ってない」と詰ってくるのも当然だった。
裕斗の家を出て、駅へと向かいながら拓海の気持ちは複雑だった。三回会っただけの素性も知らない裕斗に今まで誰にも打ち明けた事の無かった自分の内面を曝け出してしまった事、いくら兄に別れを告げられて投げやりな気持ちがあったとしても正気の沙汰ではない。二度目に会った時の言動も、今思い返せば常軌を逸しているが、それは強引な裕斗に惑わされたと言い訳出来る。だが、昨日の事は違う。裕斗に抱かれようとしたのも、過去の事や卑屈な心持を吐き出したのも全て自分からやった事だ。裕斗は初めから自分の内面に興味はないと断言していたし、実際に自分の愚痴っぽい話を聞かされるのを拒んでいた。つまり昨日の出来事は自分の意志だという事になる。拓海にはその「自分の意志」が明確に何を意味するのか分からなかった。……そして裕斗のあの抱擁の意味も。
その答えを出せぬまま拓海は週末を慌しく過ごす事になった。前期試験の結果は絶望的なものだろうとタカをくくった拓海は、願書の取り寄せや担任への連絡など何かと忙しかった。兄の大学に行く事を目的としていた拓海は、後期の願書も兄の大学の分しか用意していなかったのだ。兄をこれ以上追い詰めないと覚悟を決めた以上、志望大学は変えざるをえない。それが自分にとっても最善の方法だろう、と拓海は思った。だからといって今更新たに受験勉強をする気も毛頭ない。センター試験の点数と希望する学部で都合の良さそうな所を適当に幾つか選んだ。受かればそれに越したことはないし、駄目ならそれはそれで仕方がない。先のことは運命に任せよう、拓海はそんな気楽な気持ちに不思議となっていた。
その二日の間に、拓海は度々裕斗に電話をかけようと考えた。それは純粋に自暴自棄になって迷惑をかけたことを詫びたいという気持ちからのものだ。ただ気恥ずかしさと裕斗の言った「遊びは終りだ」という言葉が引っ掛かって行動に移せずにいた。裕斗は自分との関わりを一切断つつもりでそう言ったのかもしれない。明確な拒絶なら裕斗は電話には出ないだろう。それが拓海を怯ませる原因の一つだった。裕斗の中では全て終わった事として処理されていて今さら電話を寄越されても迷惑かもしれない。裕斗がそれで良くても、泊めてもらって何の挨拶もなしに、しかも朝目覚めたら既に裕斗の姿はなかったという終わり方は、拓海には納得がいかない。裕斗に振り回される形で始まった関係でも、最後くらいは短い付き合いになるとしても納得のいく形にしたい。色んな感情が絡み合ったまま、拓海は携帯の発信履歴を眺めるだけだった。
卒業式当日、拓海は複雑な心境のまま高校に着いた。高校自体に思い入れはない。クラスメイトの大半も拓海と同じようで、普段通りに受験の結果や試験内容について雑談している。卒業という言葉の持つ感慨に浸る女子生徒の数名ばかりが目元を拭っているだけだった。儀礼的な祝辞、答辞を無感動に終えて式も卒業生の退場を残すばかりになった時、他の卒業生と共に起立した拓海は講堂を足早に出て行く男の背を見た。礼服を纏った白髪交じりの中年男性である。装いからして誰かの父親だろう。生徒の視線を避けるような素振りだったが、逆に悪目立ちしていた。式に参加する卒業生の保護者に対して明確な決まりがあるわけではないが、卒業生が列をなして講堂を退場してゆくのを拍手で見送った後に席を立つのが暗黙の了解となっているからだ。拓海が講堂を出た時には、その中年男性の姿は何処にも無かった。拓海は微かに胸の底が熱くなっていくのを感じたが、その人を探そうとはしなかった。彼は父さんかもしれない、その淡い期待を一つの優しい思い出として胸に刻んでおく事を拓海は選んだのだ。
最後のHRを終えて、騒がしい教室を足早に抜け出した拓海は、そのまま裕斗に電話をかけていた。これまで怯んでいた事が馬鹿馬鹿しく思えるくらいに、呆気なく裕斗は電話にでた。
「何?」
受話器の先は騒がしい。裕斗の声に拒絶の色はないが、傍に人が居るらしく忙しげだ。
「あ、少し話があって電話したんだけど、」
忙しそうだから後でかけなおすよ、と拓海が続けようとする前に電話は一方的に切られた。
「じゃあ駅で待っててくれ。場所も時間もこの前と同じ。遅れんなよ」
と当然のように言い残して。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。