十二、漂泊の憂い
「何、」
訝しげに問い返した拓海に裕斗は呆れたように笑う。
「単に素直なのか兄貴に大事に扱われすぎてそういう風になったのかは知らないけど、拓海は無防備すぎるぜ。何で俺の言う事をいちいち馬鹿正直に受け止めるんだよ。別に俺はお前に自分の考えを押し付けようとしてるわけぢゃない。ただ俺の考えを言ってるだけだ。聞き流せばいい事なのにお前はそれを真に受けてわざわざ傷付いた顔をする。ほら、今だって、」
裕斗は拓海の頬に手を添えて唇を寄せてくる。唇は拓海の目蓋の触れて、わずかな熱だけを残して離れた。薄く閉じた左目の睫が濡れて、拓海は自分が泣くのを堪えていたことを知った。
「拓海みたいなタイプは、女と付き合った方がいい。お前みたいに人の言う事に惑わされて傷付く奴には男同士ってのは荷が重過ぎる。世の中には自分の意見が正しいと信じ込んで押し付けてくる人間はごまんと居る。そういう人間は否定と批判は得意分野だ。拓海じゃ到底太刀打ちできない。どうせ流されるんなら、障害の少ない真っ当な方へ行った方がいいだろ? 俺は拓海の精神の方まで世話してやるつもりはないからな。だから遊びは終りだ」
裕斗は拓海から離れて立ち上がる。悲しいのか悔しいのか分からないまま、拓海は感情的になって裕斗の腕を掴む。急に掴まれた腕を引かれて体勢を崩した裕斗は呆気なくベッドの上に倒れこんだ。拓海はその上に被さるように体を寄せて泣き出しそうな声を出す。
「何も……何も知らない癖に、兄さんと同じことを言うんだな。そうやって、突き放すなら、何で最初から、放っといてくれなかったんだ……」
終いは途切れがちだった。裕斗は困惑した表情で拓海を見上げる。拓海はそれに気付いて、裕斗の腕を押さえ付けていた力を緩めたが、裕斗は特にそれを振り払う素振りは見せない。
「そういう事は兄貴に直接言えよ。突き放すも何も俺達の間には繋がりなんて何もないだろ? 俺は拓海がどうやって生きてきたかなんて知らないし、拓海だって俺の事は何も知らない。知る必要もない」
「それは、」
「拓海は気付いてないみたいだけど、俺と拓海は元々何の繋がりもないぜ。同じ保育園ってのも只の作り話さ。たまたま受験会場で好みの奴を見かけたから受験票盗み見て帰りに声かけただけ。少し考えれば分かるだろ? 住んでる所も離れてんのに同じ保育園のわけがない。そうでなくても卒業アルバムをチェックするなり同じ保育園の奴に聞くなりすれば分かる事だ。つまり、拓海はそれをするだけの興味すら俺に抱いてない。そのくせ当然のように縋ろうとする。俺はそんなのに付き合うほどお人好しぢゃないんでな」
唐突に打ち明けられた事実に拓海が呆然としている隙に、裕斗は拓海の下をあっさりとすり抜けて体勢を直す。拓海は我に返って動揺を隠し切れないまま言葉を発した。
「嘘だなんて考えもしなかったんだ。子供の頃の記憶は曖昧だし、それに」
「言い訳なんてしなくてもいい。もうこの話は止そうぜ。それより腹減ったな、飯にしよう」
裕斗は拓海の声を遮って立ち上がった。拓海はそれ以上何も言えなくなって、裕斗に言われるままに部屋を出る。拓海自身、何で弁解がましい言葉を口に出してしまったのか戸惑っていた。弁解の言葉もある意味真実ではあるが、自分が兄以外に興味がなかった自覚もあるし、兄との事を考えるあまり裕斗の存在をないがしろにしてきたとも思う。そう考えれば、拓海は自分に興味を抱いていないという裕斗の言葉もまた拓海にとっての真実であるはずだ。それなのにその真実を認めようとせず、言い訳がましいことを口にしてしまった。それが何故、何のためなのかは拓海自身にも判らない。ただ、その理由も裕斗の考えでは、兄と別れた寂しさを紛らわすために裕斗に縋ろうとしているだけらしい。拓海は、浅ましくてもその通りかもしれないと感じる一方で、その理由がそれだけだと片付けてしまうには変な違和感も同時に感じていた。
広々としたダイニングのテーブルに用意されていた食事は、豪勢なものではないがそれぞれが手のかかるものばかりだ。伯父の家に招かれた時のような宴席じみた鍋や盛り合わせなどが並ぶ派手さはない。かといって拓海が一人で摂る簡単な即席のものでもない。鰆のあんかけや若竹煮、ほうれん草のひたしなど旬のものが程好い量で丁寧に盛り付けられている。来客があったからといって気を張った風でもない食膳は、普段から裕斗の母が食事にまで細やかな気遣い尽くしていることを充分に表していた。汚れ一つない清潔な洋卓も窓辺を彩る福寿草の黄の色も、此処に一つの理想的な家庭が在る事を示している。裕斗が自己を疑うことなく奔放に生きてゆけるのも、確固たる居場所を持っているからなのだろう。此処も結局、自分の居ていい場所ではない、拓海はそんな卑屈な考えすら抱きがちだった。
「小さい頃は体が弱かったから殆ど保育園には行ってない。それにその頃の写真もアルバムも母さんが家を出て行って処分したから、残ってないんだ」
食事を済ませ、裕斗の部屋に戻るなり拓海は口を開いた。裕斗は拓海の方へ振り返って何か言おうとする様子を見せたが、拓海はそれを遮って言った。
「最後なら、弁解くらいさせてくれ。聞き流してくれて構わないから」
裕斗は何も言わなかった。拓海はそれを了解の意と受け取って話し続ける。
「母さんは子供に興味のない人だったし、当然のように家に男を連れ込んでた。それでもどこかでありふれた家族の絆みたいなのを俺は母さんに持ってた。まだ子供だったから、母さんと男の人が何をしているのかなんて分からなかったし。……でも、結局母さんは俺を罵るだけ罵って家を出て行った。それからは散々だった。母さんと同じ年頃の女の人を見るだけで発作を起こすし、だから小学校にも行けなくなった。父さんは家に殆ど戻って来なくて、帰ってきても俺の事は避けてた。ずっと家に引き篭もっていたけど、それでも夢を見るんだ。母さんが男を連れ込んで、その後俺を殺してやるって半狂乱で暴れる夢。それを見たら発作を起こして病院へ運ばれる。そんな俺を見捨てずに支えてくれたのは兄さんだけだった。ずっと寂しかったんだ。特に、幸せな家族を当たり前みたいに見せ付けられると。だから兄さんに普通の兄弟以上の関係を求めてしまった。兄さんは答えてくれて、俺も学校に通えるくらいには回復した。女の人だって母さんと同じ年代じゃなければ普通に話せるようになった。でも、全てを克服するつもりは無かったんだと思う。俺が弱いままなら兄さんは俺から離れていかないと思ってたんだ。俺の弱さが兄さんをずっと苦しめてるなんて知らずに、愛されたがってばかりだった。……もっと前に、発作を起こした時にでも死んでおけば良かったんだ、俺なんて、」
頬に鋭い衝撃が走り、拓海は床に倒れた。手加減なしで拓海を打った裕斗は舌打ちしてそのままベッドへ腰を下ろす。
「それ以上、余計な事話すなよ。お前の独り言に苛々させられるのなんて迷惑だ」
拓海はのろのろと上体を起こしながら、痛みの残る頬を押さえた。打たれた痛みよりも妙な安堵感の方が強い。父も兄も母でさえも今まで自分に手を上げた事はなかった。打たれる事を承知で乱暴に詰った時でさえ兄は拓海を打たなかった。拓海は今になって裕斗のもとを訪ねた自分の心持を悟った。慰められたかったわけでも、肉体の欲望を満たしたかったわけでもない。拓海自身が持て余す身勝手な自己や罪悪感をただ叱責して欲しかったのだ。同情や偽善的な優しさでは、もう手の施しようがない程に甘やかされ自分を憐れむ事に慣れきった情けない心をどうにかし鞭打たなければならなかったのだ。急に靄がかっていた意識が澄んでいくような気がして、拓海は思わず笑ってしまう。
「何笑ってんだよ。打ち所が悪くておかしくなったのか?」
裕斗は急に笑い出した拓海に吐き捨てるように言う。
「遠慮なしに打つんだな、と思っただけだよ」
「お前に遠慮してやる義理はないからな」
「俺も裕斗には遠慮しない事にした」
拓海が笑ってそう言うと、裕斗は一瞬驚いた顔をしてみせて、
「拓海が俺に遠慮した事なんてないだろ。そういう気遣いがあったら今此処に居ないはずだ」
と笑う。言われてみればその通りかもしれない、と拓海が今までの自分の態度を思い返していると、
「名前、」
と裕斗が不意に呟いた。
「え?」
「俺の名前呼んだの初めてだよな。どういう心境の変化?」
痛い所を突かれた、と拓海は一瞬黙り込んだが、どうせなら全て白状して詰られるだけ詰られたいような居直った気分になった。
「兄さんと同じ名前だから呼びにくかったんだ」
「へぇ。じゃあ尚更不思議だな。何で今になって呼べるようになったんだよ」
拓海の意に反して、裕斗は怒る素振りも見せずにさらに訊いてくる。
「……わからない、けど殴られて吹っ切れたのかもしれないな。兄さんは俺に手を上げる事はなかったから。同じ名前でも裕斗は兄さんとは全然違う。もう混同して流される事はない」
「……狡いな。やっぱり今まで精神と肉体の欲望を混同してたって事か。そんな事ならもっと早く殴っとけば良かった」
裕斗は急に不機嫌な声を出す。拓海は裕斗が機嫌を損ねるポイントが自分の発言のどこにあるのか探りあぐねて、結局裕斗が事あるごとに口にする精神と肉体の欲望について訊いてみることにした。
「裕斗はそう言うけど、本当に分けて考えられるものなのか? 俺はもう兄さんと裕斗を混同する事はないけど、それを分けて考えられるかは別問題だ」
「お前に俺の意見を押し付けるつもりはないって言っただろ、それは俺の考えだ。別に拓海が分からないならそれでいいさ。お前との遊びは終りにするって言っただろう、俺の考えにも付き合う必要はない」
裕斗は不機嫌に拍車がかかって半ば突き放すような言い方をする。拓海は裕斗の真意が判らない事がもどかしかった。本気で怒っているらしい裕斗を宥めようと肩に触れた手をあっさりと振り払われて、拓海も感情的になる。
「精神的に満たされてるんだろう? 愛されて何不自由なく育ったから、肉体とか精神とかの欲望を分けて考えられるんだ。俺はそれが判らないから、どっちも一人に求めてしまう。兄さんにだって、両方を求めてしまった」
「何でも環境のせいにすんなよ。第一、兄貴には愛されてたんだろう。肉体の面倒を見てもらえなくなったとしても、家族の情くらいは残ってるわけだろ? 何の不満がある」
「ずっと兄さんしか居なかったんだ。俺は肉体と精神を分けて考えられないし、まだ両方とも兄さんに求めてしまう」
「それなら両方求めてればいいぢゃないか。そうはっきり言ってやればいい」
「これ以上、追い詰めたくない」
「お前が本心でそう思うなら、分けて考えるしかないだろ。お前にとっての精神の欲望が家族愛だって言うならな」
裕斗は小馬鹿にしたように笑ってみせる。
「幸せな家庭で育ったやつには分からないよ。愛されてて縋るものがちゃんとあるから、そうやって奔放に思い通りに生きられるんだ」
思わず口をついて出た恨み言じみた自分の言葉にたくみはひどく憂鬱な心持になる。
「分かりたくもないね。自分の境遇を不幸だと思ったところで何になる? 他人と比べて不幸だと思ってもそれをいちいち嘆いても仕方ない。人の一生にしろ境遇にしろ与えられてるもんは違うんだぜ。同じもんなんて与えられてるわけぢゃないし、大きかろうと小さかろうとそれぞれに不幸がある。生き物なんてその与えられた場所で生きていくしかないんだ。満たされてる人間だって居るし、満たされたくても満たされることのない人間だっている。平等なんてのは空想だ。拓海は周りが幸せそうに見えるから、自分も同じように幸せになるべきだって思ってるだけだろ? 他人をそれに当然のように巻き込むなよ」
饒舌に語った内容と裏腹に、裕斗は拓海の首に腕をまわしてしがみ付いてくる。拓海はそれを拒もうとして体勢を崩しベッドの上に倒れ込んだ。自分よりもひとまわり華奢な裕斗の体のどこにこんな力があるのか、拓海は驚きながらも自分の上から退く気配もない裕斗を何とか引き離そうと身じろぎする。裕斗は一層まわした腕に力を込めて頑なに離れようとしない。
「何もしない。だから抵抗すんな」
首筋に裕斗の声が触れる。拓海が観念して四肢を投げ出すと、裕斗も抱擁を緩めつつ拓海の首筋に顔を埋めたまま独り言のように呟く。
「大抵の人間は精神とか肉体とか分けて考えねえよ。それでいいんだ」
拓海はその言葉を聞きながら、この抱擁が裕斗にとってどちらを満たすためのものなのか、それとも両方なのか、どちらでもないのか、ぼんやりと考えた。その答えを出せないうちに裕斗の体温に絆された体にこれまでの疲れが一気に実感を帯びてきて拓海は半ば意識を失うように眠りに堕ちた。
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