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十、嘘の繋がり
 拓海が兄の声で起こされたのは、既に日付けも変わってしまって朝の十時を過ぎたところだった。
 きちんと寝巻きを着て、肌は昨夜の名残りを微塵も見せない程丁寧に拭かれている。ただ下半身に残る気怠さだけが、昨夜の情事が夢ではない事を拓海に伝えていた。のろのろと覚醒しきらないままの体を起こした拓海の横に、兄は腰掛けて拓海の頭を撫でる。
「乱暴にして悪かった、何処か痛むか?」
 拓海は照れながら首を横に振った。兄は俯いて拓海から視線を逸らすと、ポツリと呟く。
「本当の俺はこんな人間だ。嫉妬して身勝手な行動をとる。拓海は特別な存在で、弟以上の感情を持ってる。でもこのまま進めばいつまでも優しい兄では居られなくなる。わかっただろう?」
 拓海は驚いて思わず叫んだ。
「それでもいい! 兄さんになら何をされたっていいんだ」
 兄は静かに首を横に振って言った。全て白状する、と。
「俺は狡い人間だ。拓海はそれを分かってない。それもそうさ、俺がずっと隠してたんだから。母親の事……拓海はずっと自分のせいだと思いこんでいただろうけど、あれはお前のせいじゃない。あの女が他の男を連れ込んで遊んでた事は、お前が父さんに言う前から父さんは知ってたよ。俺が先に父さんに教えていたから。あの時の事は、お前の記憶も曖昧になってるだろうけど、俺はその場所に居なかっただろ? 入院してたんだ。……あの女に階段から突き落とされて」
「ど、うして?」
 拓海は初めて聞かされる真実に息を呑む。
「入院といっても大した怪我じゃない。軽い脳震盪を起こしたから一日検査入院しただけだ。あの日、俺はあの女に直接言ったんだ。もう家に男を連れ込むのは止めろって。俺だってその時にはあいつが何をしてるかくらい判ってたし、いい加減ウンザリしていた。でもまだどこかで信じてた部分もあった。子供に言われたらあんな母親だって少しは考えが変わるんじゃないかって。すぐに階段から突き落とされて、その望みは消えちまったけど。異常な物音に気付いた隣のおばさんが通報して、あの女は警察に、俺は病院に運ばれて大事にはならなかった。それで病院に駆けつけた父さんに全部話したんだ。父さんは当然憤ってたんだと思う。ここからは俺の憶測に過ぎないけど、家であの女が帰ってくるのを待っていた。そしたら拓海が無邪気に聞いてきた。「母さんはいつも男の人と何をしてるの?」って。間が悪い事に、丁度帰ってきたあの女はそれを聞いていた。父さんはそれに気付くなり、怒りに任せてそいつを殴ったんだろう。馬鹿な女は、自分が殴られているのは拓海が告げ口をしたせいだと思って拓海を罵った。でも実際は、父さんは俺を危険な目に遭わせた事に憤っていただけで、何も浮気くらいで女に手をあげる人じゃない。だから、拓海は何も悪くないんだ。自分を責める必要はない。今までその事を教えてやれなくて、すまなかった」
 兄は俯いたまま苦しそうに息を吐いた。そして語気を強めてまた話し出す。
「身勝手だと自分でも思う。今までその事を教えなかったのは、拓海が離れていくのが怖かったからだ。拓海は今の俺達の関係を持続させようとして、過去の傷をあえて克服しようとしないだろう。それに気付きながら、俺は見過ごしていた。お前がそれを克服しない限り俺から離れていかないと思って。俺は卑怯な上に歪んでいる。でも、これ以上拓海を追い詰めたくない。……一年前、父さんが出張の帰りに此処に来た。長い間、ほとんど家族らしい会話もしてなかったから、逆に冷静に話し合う事が出来たよ。今まで殆ど親らしい事をしてやれなかったとまず謝られた。それから拓海の事を心配していた。拓海は自分の事を怖がっているから、出来る限り自分の分まで拓海を支えてやって欲しいと言われた。父さんは、あの晩に拓海が発作を起こして倒れたのを母を殴っている自分に怯えたからだと思っている。だから拓海を怯えさせないように、仕事ばかりして家を空けるようになった。あの人は弱い人なんだ、でも俺達に親としての愛情を持っていないわけじゃない」
「兄さんは、俺との関係を終わらせたいの?」
 拓海は兄の独白から滲む意図を悟って、震える声で聞いた。兄は痛いくらいに拓海を抱き締めて
「……俺は父さんを裏切れない。拓海のことは本当に愛している。出来る限りのことはしてやりたい。でも、もう俺は拓海と普通の兄弟以上の関係は持てない。わかってくれ」
 辛そうな声を搾り出すように言う。拓海は、もう何も言えなかった。拓海を追い詰めたくないと言った兄を、自分も十分過ぎる程追い詰めてしまっていた事を感じて拓海は愕然とした。


 泣く事も出来ずに虚ろな心を引き摺ったまま兄の部屋を後にした拓海は、伯父に出迎えられて一晩伯父の家で過ごした。呆然としたままの拓海には、色々と世話を焼く伯父やその家族に無理矢理の笑顔を返すことすらひどく苦痛だった。幸い伯父達は拓海の喪心を受験の失敗だと勘違いしているようで、何も詮索されずに済んだ。それでも気遣いを返す労力する起こらない拓海は、愛想笑いをしなければならない苦痛に堪えかねて、伯父の心配を振り切って翌朝伯父の家を出た。
 意識もほとんどないまま、闇雲に歩いて駅に辿り着いた。周囲の人の流れに動かされるように切符を買い、改札を通ると行き先も確認しないまま到着した電車へ乗る。何も考えることが出来ないくらい、拓海は喪心しきっていた。電車はゆっくりと動き出し、窓の外の景色は移ろい始める。移ろう景色も朝日に照らされる街並みも何一つ拓海の心を動かすものはない。ただ電車に揺られていた拓海は、車掌に訝しげに話しかけられた。「終点ですよ」と。
 電車を降ろされて拓海は駅のベンチへと力なく座り込んだ。寂れた駅には、ほとんど人の姿はない。次の電車がこの駅へと来るのは一時間も先の事で、当然と言えば当然である。拓海は目的を失ってしまっていた。兄を慕う事が許されない状況へとなった今、拓海を動かす力は何もない。それが拓海はどうしようもなく寂しかった。自分の心持を打ち明ける人間も居ない。そういう生き方をしてきた。自分がこれからどうやって生きていけばいいのかも分からない。生きている実感すらない。拓海は漠然とそう考えると無性に自分を傷つけて痛みで気を紛らわせたいような投げやりな気持ちになってきた。

 不意にポケットに入れたまま忘れていた紙片に気付いて、拓海は半ば無意識に紙片に記された番号へと電話をかけていた。紙片は裕斗が以前強引に拓海に押し付けたもので、書かれているのは裕斗の携帯の番号だろう。
「誰?」
 数回の呼び出し音の後、ぶっきらぼうな声がする。
「拓海、だけど」
「何の用だよ」
 途端に聞こえてくる裕斗の声は棘棘しくなる。何に対して裕斗が不機嫌になっているのか判らず、拓海は黙り込んだ。
「お前が受けた大学って、試験が四日もあるんだな」
 何も言わない拓海に痺れを切らして、裕斗は皮肉っぽく言う。何も考える余裕のなかった拓海は、そう言われて、紙片を渡される時に裕斗に言われた言葉をやっと思い出した。
「電話、待ってたのか?」
 拓海が問うと、裕斗は少し間をあけて呟いた。
「……お前、その前に俺に言う事があるだろう?」
 謝罪の言葉を待っているのだろう、拓海はそう考えたが、自分が発した言葉は全く別のものだった。
「会いたいんだ」
 裕斗が呆れたような笑い声をたてた。
「今、何処に居るんだ?」
「××駅」
「何でそんな所に、……まぁいいや、四時にK駅に来い。会ってやるから」
 裕斗は楽しそうにそれだけ言って電話を切った。拓海は自分が何故彼に電話をしたのかも、会いたいと口にしたのかも、わからないでいた。それをきちんと考える気力すらない。ただ急かされるように時刻表を確認に行った。

 思いの他遠い所まで行っていたようで、裕斗の指定した駅に拓海が着いた時には約束の時間を五分過ぎてしまっていた。人波に押し流されるように改札を出ていくと自販機の前に不機嫌な顔をした裕斗が立っている。薄手のセーターと黒のボトムを着ている裕斗は薄着な分、いつにも増して細身が際立っていた。
薄着の彼を見て初めて拓海は今日がコートを着込むような気温ではない事に気付いた。厚着をしていても暑さを感じないどころか、全く外の温度の事など考えずにいたのだ。
「誘っておいて遅刻かよ。いい根性してんな」
 裕斗は拓海に気付いて、まず毒を吐いた。
「それにしても、試験やつれにしては酷すぎる顔してるぜ」
 拓海をまじまじと見上げて裕斗は不審気に言う。
「気分が悪いなら先に言えよ。別に俺がお前のとこまで行っても良かったんだからさ」
 裕斗は少し口調を和らげて不満を言いながら拓海の手を引いて歩き出す。行き先がどこかも分からないまま、拓海はただ裕斗に従った。

 五分程、無言のまま歩いて着いた場所は裕斗の家だった。裕斗は当然のように拓海を招き入れる。拓海もそれに従って裕斗の部屋へと足を運ぶ。
「で? 振られたのか?」
 部屋に通されてすぐに直球で問われて、拓海は固まった。
「試験なんかでそこまで落ち込まないだろ? 死にそうな顔してるぜ、お前」
 裕斗は心配しているような感じでもなく面白そうに拓海を見つめる。拓海は投げやりな気持ちではあったが、裕斗に正直に答えるような気にはなれず俯いて黙り込む。
「第一、お前が態々俺に電話をよこすなんて、そうとしか考えられないな。慰めて欲しいんだろう?」
 裕斗はあえて拓海にそれを認めさせたがっている。拓海は観念して乱暴に吐き捨てた。
「その通りだよ。だからお前に抱かれにきたんだ。体目当てなら、望み通りにやってくれるんだろ?」
 裕斗は感情的な拓海の言葉を一笑して、ベッドへと腰掛ける。拓海は裕斗の次の行動を待った。
 裕斗は座ったまま特に何もしてくる気配はない、拓海はどうしていいのか分からないまま訝しげに裕斗を見た。裕斗は拓海の視線に気付いて、また笑う。
「何、ぼんやりしてんだよ。お前が誘ったんだろ。先に断っておくけど、俺は死人みたいな顔した奴相手に勝手に発情する程困ってるわけじゃないぜ」
 裕斗は拓海を試すように言う。裕斗が何を言わんとしているかは拓海にも判った。
「どうすればいいんだ?」
 戸惑う様子も見せない拓海に、裕斗は少し驚いた顔をする。しかしすぐにいつもの悪戯っぽい笑みを見せて
「口でしろよ」
と言った。
 拓海は言われるまま、裕斗の足元に跪いて覚束ない所作でベルトを外す。そして露になった裕斗のまだ反応していないものをそのまま口に含んだ。拓海は口淫の経験はなかった。口内に感じる慣れない感触と味に初めて戸惑いを抱く。拓海にある知識は兄にしてもらった時の事だけだ。行為を続けるにあたって拓海は必然的に兄との事を思い出さなければならなかった。胸が苦しくなって段々と今している事に集中出来なくなる。裕斗は泣き出しそうな顔をした拓海を見て溜め息を吐いて離れた。
「下手くそ、お前経験あるのか?」
 拓海は俯いたまま弱々しく答える。
「ない。してもらった事はあるけど……」
「無駄に大事にされてたんだな。お前は振られた腹いせに別の男を誘うような奴なのにな。相手はどんな男? よっぽどの馬鹿だろ?」
 裕斗の侮りを含んだ言葉に、拓海はカッとなって手を振り上げた。打つ前にその手は掴まれてしまい、裕斗に引き寄せられる。裕斗は素早く唇を被せてきていた。拓海は泣きたい気分でキスがどんどん深くなっていくのを受け入れた。


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