一、電車の中で
痴漢かよ、拓海は胸の中で吐き捨てた。
夕方の電車内は帰宅ラッシュだかなんだかで、ごったがえしている。
暦の上では春、梅もちらほら綻びかけたと言ってもまだ外は寒い。
風邪をひいたらいけないから、と祖母に渡されたコートと混雑の人いきれのせいで車内は蒸し暑かった。滑り止めでしかない私大の入学試験は、特に頭を悩ます問題もなかったが、だからといって一週間後に始まる国立の前期試験を考えると気は休まらない。
傾いた西日のせいで車窓の外に広がる街は影絵になる。拓海は自分自身も影の一部でしかないような心持になってどうしようもない虚しさを感じた。
ふと我に返るとでもいうのだろうか。例えば、苦戦していた数学の応用問題がやっと解けたとする。解けた瞬間は束の間の達成感と恍惚に浸る事が出来る。けれどしばらくすればその問題が解けたからといって一体何になるんだろうと虚無感に似た疑問が残る。ないものねだりかもしれないが、どうしようもない。試験のための勉強をすれば、それなりの結果は返ってくる。だからといってそれが何のための勉強なのか、拓海ははっきりと自分を納得させれずに居た。
急かされるように大学に合格しなければと思う一方で、大学に入ってやりたい事が特にあるわけではない。かといって大学に入る以外の選択肢は進学校では与えられていないし、自分自身がそれ以外に生きていく術をまだ持っていない。
試験期間中はいつも焦りにも似た苛立ちのような、虚しさのようなどうにもならない沈んだ気分の波が襲ってくる。やめよう、拓海は自分に言い聞かせるように息を吐いた。今、自分が何なのかとか、自分の人生をどうすべきかなど、考えた所で答えが出るわけではない。ただ今は、一週間後に控えた受験を無事終わらせる事だけに専念すればいい。拓海は鞄を持ち直して、車窓に寄りかかりつつ、西日に照らさて汗ばんだ額を拭った。
拓海が太腿に妙な違和感を感じたのはその時だった。
内股に這うようにぴったりと自分の体ではない何かが触れている。混雑のせいで他の乗客の荷物でも当たったのかもしれない、とはじめは思った。しかしそれにしては自己主張が強すぎる気がする、どう考えても無機質な物体が触れている感じではないし、探るように撫でまわされているといった方が正しい。その正体を確かめようにも膝まであるコートのせいで、そこに何が触れているのかは確認出来ない。多分、後方のコートの裾からそれは侵入してきているんだろう。拓海は正体のわからない何かに自分の体の一部を弄られていることに強い不快感を感じた。
……痴漢かよ、苦々しく心の中で吐き捨てて、どうしたものかと途方に暮れた。
拓海は自分が痴漢に遭うなんて事は考えた事もなかった。背丈だって平均よりは高い方だし、いくら華奢な方とはいえ自分の容姿は男そのものだ。つまり今、自分の体に断りもなく触れているのは、つまりそういう種類の人間という事なのだろうか、いや痴女という可能性もある。拓海はぼんやりとゲイの痴漢と痴女とはどちらの方が確率的に高いのか考えてみて、結局想像もつかずにやめてしまった。駅員に突き出すにしても国立受験を控えた残された時間を無駄に浪費するとなれば億劫だ。だからといって自分の降りる駅まで後三十分以上もある。それまで堪えて触らせてやる義理もない。
そんな事を考えているうちに、拓海が抵抗しない事に味をしめたのか痴漢の手の動きは大胆になってくる。内股を撫でるようにしていたそれは、足のつけ根まで這い上がってきて焦らすように臀部へと伸びてきた。拓海はとにかくそれから逃げようと身じろぎしたが、混雑のせいで思うように動けない。人込みの中に立つよりは、と昇降口の反対の窓際に立っていた自分が呪わしい。暑さとは違う汗が額にじわりと浮かんでくる。自分が女だったら、すぐにでも「この人痴漢です!」とでも叫べるのに、それも自分が男だという妙な自尊心と羞恥心とが邪魔をする。一方では痴漢をひっとらえて駅員に突き出してやるか、この場で一発ぶん殴ってやりたい衝動に駆られるが、もう一方で、男子学生が痴漢されましたなんて憤って駅員に訴えるのは滑稽だとか、受験前に騒ぎを起こしたくないという理性が働く。
電車の中で他人の尻撫で回して何が楽しいんだよ!
拓海は心の中で毒吐きながら、よりによって何で自分なんだ、痴漢するにしても余裕のない受験生をわざわざ選んでする必要ないぢゃないか、と理不尽な状況に苛立った。試験の疲れと電車の混雑で、ただでさえ精神的に余裕はないのだ。苛立ちのピークはそのすぐ後に達した。臀部を這い回っていた手が、前へとやってきたのだ。唐突に急所を握られて拓海はカッとなって反射的に振り返った。
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