三九 秘密の地下鉄道
一九四二年三月一日、未明。
帝国海軍連合艦隊司令長官、山本五十六は書類に目を通しながら思わず目頭を押さえた。
その様子に気が付いた連合艦隊参謀長、宇垣纒は心配そうに山本長官の顔を覗き込んだ。
「お疲れのようですね」
「あぁ、何しろ今日は朝から霞ヶ関に呼び出されて休む間も無かったからな。…そういえばもう日付が変わったのか。通りで眠いはずだな」
「眠気は判断力を鈍らせます。日吉に着くまであと十分少々ですが、少しでも休まれては?」
「ではそうさせてもらおうか。…それにしてもこの微妙な揺れも中々心地が良いな。もしかしたら眠気の原因はこいつかな?」
彼等は今、客車の中で話をしている。
いや正確には客車ではない。
五両編成の特別電車の三号車、つまり編成の真ん中の車両だ。
そして、何とこの電車は地下鉄である。
『特務第一号地下鉄道線』通称『海軍一号線』は文字通り海軍専用の地下鉄である。
東京市が地下鉄霞ヶ関駅を造る際に便乗して造られ始めたこの秘密路線は、海軍省や軍令部等と秘密地下道でつながった『もう一つ』の霞ヶ関駅から連合艦隊総司令部に直結する『もう一つ』の日吉駅を結んでいる。
十数分後、列車はひっそりとした巨大な地下駅に滑り込む。
『もう一つ』の日吉駅はプラットホームが三個あり敷かれている線路の数も多い。
というのも、一切地上に出ないため、車両や保線機材の留置それらの点検を全て地下でやらなければならないためだ。
車両を搬入するために、霞ヶ関付近で市営地下鉄の線路につながっているにはいるが、余程のことがない限り使われることはなく、普段は重い鋼鉄の扉で遮られている。
「やぁご苦労様」
ホームに降り立った山本長官はどこか気だるそうに言った。
「お帰りなさい長官。お疲れのところ申し訳ないのですが、例の件でまた問題が起こりまして…それでその…」
出迎えた参謀が本当に申し訳なさそうに言った。
「護衛艦隊の件か。なに、構わんよ。この騒音で目が覚めてしまったからね」
なるほど確かに駅は工事中である。しかし騒音という程の音は出していない。…もし出したら地上の住人に勘繰られてしまうから出したくても出せないが。
彼が騒音と言ったのは眠い頭に響いたからだろうが、何より今まで乗っていた車両の防音性能が優れていたからだろう。
ちなみに何の工事かといえば地下鉄の延伸工事である。
最終的には日吉を起点として、横須賀港に直結する『特務第二号線』と厚木飛行場に直結する『特務第三号線』が完成することになっているのだ。
…閑話休題
「そういえば例の航空隊の訓練の状況はどうなっている?」
ワシントンにあるホワイトハウスの大統領執務室で、ルーズベルト大統領はキング海軍作戦部長に尋ねた。
「はぁ、サンディエゴからの最新の報告では訓練は最終段階に入ったとのことです。部隊を率いるスプルーアンス中将は後一週間は欲しいと言ってきております」
キングは…この人物もよく解任されなかったものである…生真面目に答えた。
「そうか。焦ることはない。今回は事が事だからな。訓練は充分過ぎる程する必要があるだろう。…さて、議会でも話題にのぼったが、我が軍はいつ太平洋方面で攻勢に移れるのだね?」
いくらアメリカの工業力が超強大なものでもこの質問には無理がある。しかし答えないわけにはいかない。
「本格的な反攻は残念ながらまだ当分先のことです。太平洋艦隊の戦力がジャップのそれを凌駕するまで、少なくとも二年から三年はかかります。…しかし潜水艦による通商破壊やオーストラリア方面からの航空攻撃は別です…通商破壊はすでに行われていますし、航空攻撃は六月中旬に行うつもりです」
「陸軍航空隊から重爆を基幹とする大航空隊で敵を粉砕し、飛行場を前進させていくというアイデアがあがってきたが、オーストラリア方面からの攻撃はそれにあたるのかね?」
「いえ厳密には違います。今のところ粉砕は出来ても前進は出来ませんので」
「ふむ。まぁ良いだろう。しばらくは持久せねばならんわけだが、スプルーアンス提督の攻勢に期待するとしよう…さて…まったくうるさい連中だ」
ルーズベルトは目の前に広げられた書類を見てつぶやいた。
ウェーク沖海戦での大敗北に代表される相次ぐ誤算により、当初議会が承認した軍事予算は凄まじい勢いで食い潰されている。
慌てて追加の予算の承認を求めたが、これに対する反対が案外多いのだ。
無論、反対している議員は定数から見ればほんの一部であり特に問題はないのだが、これ以上誤算が続けば戦争反対を訴える勢力が勢いを増すことになる。
ルーズベルトにしてみれば断じて許せる話ではなく、めぼしい反戦運動者の動向をFBIに探らせている。
彼の目の前に広がる書類はその報告書なのだ。
日吉の地下に広がる連合艦隊総司令部のとある会議室。
「それで、今回起こった問題とは何だね?」
席につくなり山本長官は口を開いた。
「はぁ、一言で申しますと実戦部隊からの反対運動です。…ご存知のとおりこの度新設される海上護衛艦隊の主力として、連合艦隊から第一二戦隊と第四水雷戦隊を供出することになっておりますが、その二部隊で反対運動が沸き起こったのです」
「…まぁ二部隊ともウェーク沖海戦に参加した身だからなあ。気持ちは分からんでもないが…説得はしてみたのかね?」
宇垣参謀長が尋ねる。
「えぇ、今日も…いや昨日の午後に艦隊司令長官に内定している近藤中将にも助勢をお願いして説得に努めたのですが…何と言うか、近藤中将も今回の役職にあまり乗り気でないようで…」
「…まぁ気持ちは本当に良く分かりますよ」
宇垣参謀長が同情するように言う。
「しかしだからといって命令には従ってもらわねばならん。帝国の存亡はいかに南方から物資を無事に運んでこられるか、ということにかかっていると言っても過言ではなかろう。…仕方ない。今残っている雑務を片づけたら私自ら説得に行こう」
山本長官の提案に反対する者は誰もいない。別の案件を出してくる者もいない。
それを確認すると山本長官は解散を命じ、自身は長官用の休憩室に向かった。
もう睡眠をとることしか考えていないのだ。
「緊急の報告です! カレーの空軍基地より敵大編隊を探知したとの至急電が入りました!」
ロンドンダウニング街十番地にある首相官邸の執務室に職員が飛び込んで来る。
「ナチスめ、この頃静かにしておったと思ったら…迎撃の用意は抜かりないのだろうな?」
「はい。すでにカレー及びその周辺の飛行場から戦闘機が緊急発進している模様です」
「…分かった。追加の情報が入り次第すぐに伝えろ」
「承知しました!」
相変わらずイギリスの旗色はよろしくない。
まずアジア方面では、腰の重いオーストラリア海軍を何とか動かして南下する日本艦隊に一撃をかけさせたが、特に戦果をあげることなく全滅してしまった。
空軍も日本の艦載機と対空弾幕の前に敗退し、シンガポールの軍港と飛行場は激しい空爆を受けてその機能を喪失してしまった。
その後も、一つの機体が一日に五回も出撃したというほどの帝国海軍機動部隊の猛攻を受けて、マレー半島の制空権は日本のものとなった。
そして、二月二十六日早朝。
遂に日本軍は英領マレー半島の東岸で、唯一断崖地形でないコタバルに攻撃をかけた。
戦艦や巡洋艦の猛烈な艦砲射撃の後、艦載機に頭上を守られながら帝国陸軍の上陸部隊は上陸を開始した。
駆逐艦の支援砲火や艦載機の援護のもと日本軍の橋頭堡は膨れ上がり、午後になると揚陸された戦車を先頭にコタバル市街を制圧した。
また、日本と攻守同盟を結んでいるタイ領に上陸した主力部隊は、やはり戦車を先頭に南下し、事前にタイ空軍から有償で借りた飛行場に進出した陸軍航空隊の支援のもと、小マジノ線と呼ばれたジットラ陣地を突破していた。
それから日本軍はいったん進撃を停止して、体制を立て直しているという報告がロンドンに向かってなされたが、それ以外の報告は今のところ無い。
もっともいずれ進撃を再開することは目に見えており、現地では半島に数え切れない程ある橋梁を破壊しながら後退し、遅滞戦闘の準備が着々と進められているはずである。
「…何だって!?」
グルジア生まれの独裁者、ソビエト連邦首相にして共産党書記長のスターリンは思わず驚きを表情に出しながら、彼の腹心であるモロトフ外相の顔を見つめた。
ちなみに場所は、モスクワから直線距離にして約九百キロ離れボルガ川の東岸に位置する都市、クイビシェフ…今のサマーラ…にある秘密地下壕である。
「…間違い無いのか?」
慌てて表情を元の状態に戻しながら、スターリンはモロトフに確かめた。
「えぇ、東京からの電文には確かに…何でしたらご覧になりますか?」
「いやいい。しかしどういうわけなのだ?」
彼はさらに問い重ねた。
モロトフはこう言った。
「在東京の大使館から至急電です。内容は…日本の外相と、大韓帝国と満州帝国の在日大使が我が国との間に不可侵条約の締結を提案してきたというものです」
スターリンは考えた。
(連中の目的は何だ? 兵力を南に向けるために北の安全を確保したいのか…アメリカとの講和の仲介を期待しているのか…)
「…現状からしてここは受けるべきではないでしょうか? 日本はこの手の約束事は守る国だと言われていますし」
将軍の一人が恐る恐る発言する。…自国はそういう約束事を守らない、という皮肉を含めて。
「ふむ、確かに極東軍の一部を持ってこなければこの夏の反攻は不可能だ。外相、東京に指令を出せ。日本との不可侵条約は締結する方向で話を進めるように」
「承知しました。満州帝国のほうはいかが致しましょう?」
「我が国はそんな国を承認しておらん。よって不可侵条約を結ぶ必要も無い。それに満州の陸軍の力量は大したことないらしいではないか」
というのはスターリンのとんでもない思い違いであるが、本人が…理由は不明だが…そう思い込んでしまっているのだから仕方がない。
モロトフはそんなスターリンの評価に多少の疑問を持ったようだが、彼への反対はすなわち死を意味する。
そのまま何も言わずに部屋から出て行ってしまった。
そして再びスターリンは彼の前に居並ぶ部下達を、疑わしい人間を見るように見回した。
彼は後に自分以外の人間を全て敵だと思う程の、極度の被害妄想の持ち主になるが、そんな妄想を抱くのにはそれなりの原因があるものだ。
彼の場合、自身の権力を強大にするために政敵やライバル等、邪魔になるものを片端から粛清してきた、というのがまさにその原因だろう。
そして今、ソ連の外敵は動いてはいない。
幸か不幸か、ドイツ軍はモスクワ占領した後そこから先に進もうとはしなかった。
というのもモスクワを占領した時点で、ドイツ軍は限界を迎えようとしていたのだ。
バルカン半島の情勢から、いくら史実に比べて独ソ開戦の時期が多少早かったといっても、あくまで二週間程だ。
ウラル山脈に疎開したソ連の軍事工場に、何の手も出せないことがはっきりしている以上、ドイツが出来ることは守りを固めることだけだ。
それに基本的な問題として春は戦いにむかない。
雪解けで大地はぬかるみ、戦いどころではなくなるからだ。
そういうわけで、西の敵は、とりあえずは動かない。
東の敵は、自ら動かないことを保証してきた。この機会を逃すわけにはいかない。
もっとも、機会があれば不可侵条約などゴミ箱に放り込んでしまうだろうが。
しかし内部の敵はそんなことお構いなしだ。
ほんの少しでも隙を見せれば、凄まじい勢いでスターリンを失脚させるべく動いてくるだろう。
(モスクワ奪回作戦の発動まで後三ヶ月。…それまでこの連中を信じるわけにはいかん)
スターリンが被害妄想を発症するのは、もしかすると史実よりも格段に早いかもしれない。
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