三六 大英帝国の悩み
一九四二年一月二十三日。
フィリピン、ミンダナオ島の最西端に位置する重要都市、サンボアンガ。
開戦からわずか四日で日本軍の手に落ちたこの都市の郊外には、アメリカ軍が残していった…多少破壊された…基地を基幹に、帝国陸海軍の一大基地が急ピッチで建設されている。
今この基地には英領と蘭領が混在するボルネオ島への上陸作戦を担当する部隊が続々と集結しつつあった。
帝国陸軍は第一軍から第二軍に移された第一機動旅団を主軸に、独立の野砲兵大隊や工兵大隊、補給大隊、自動車化された歩兵大隊等が追加された総兵力八千の堀井支隊が配置されている。
帝国海軍は陸上兵力として、戦車や速射砲を持つ呉鎮守府特別陸戦隊を蘭印方面部隊として新設された第五艦隊の指揮下に置いた。その兵力は三千。
海上護衛部隊には、第四水雷戦隊を基幹に若干の駆逐艦や就役しはじめた戦時急造の小型護衛艦、掃海艇等を加えた大小合わせて二十五隻が参加する。
ちなみに第五艦隊の旗艦は当初金剛型軽巡のいずれかが務める予定になっていたが、運悪く『比叡』と『霧島』がほぼ同時に機関に不具合を起こしたために不可能となり、別の艦が務めている。
航空兵力はすべて帝国海軍航空隊が担うことになっており、三四三空などを主軸に戦闘機百三十、陸攻四十五、陸偵二十、艦爆三十、水上機十五、輸送機十二が第五海軍連合航空隊として配置されている。
またボルネオ島上陸作戦と同時並行で行われる予定の、セレベス島上陸作戦やモルッカ諸島攻略作戦を全般的に支援する目的で、ダバオに第二航空戦隊を基幹とする機動部隊が進出している。
「どうでした?」
「抜群ですよ。やっぱり新しいものは良いですね」
基地の一角にある戦闘機駐機場の一つに、三十二機の雷電が置かれている。
「別に新しくはないですよ。ちょっと整備しただけです」
三十二機の雷電…三四三空第二戦闘隊のそれらは、まるで工場から出てきたばかりのように綺麗な塗装が施されていた。
機体上部は南方のジャングル地帯に機体が溶け込み易いように暗緑色に塗られ、下部は明灰色に塗られている。
そして、胴体と主翼には鮮やかな日の丸が輝いている。
「でもあの新型の無線電話機の性能は大したもんてす。音は綺麗でこちらの声も良く届く。地上の指令所との通信も良好ですから、近々我々の戦い方も変わるかもしれませんね」
長峰大尉が言っている新型の無線電話機とは、帝国海軍沼津工廠が開発した、後に二式空一号無線電話機と呼ばれることになる機上無線機である。
「ほう戦い方が、ですか」
「えぇ、小学校の同級生に今三菱で航空機の開発部門にいる奴がいまして、去年の暮れにそいつから手紙が来たんです。なんでも陸攻に、電探と強力な無線機を載せた哨戒機兼…戦闘指揮機とかいったかな」
「整曹長、ちょっとよろしいですか?」
「あぁすぐ行く。長峰大尉、ちょっと失礼しますよ」
すでに初老の域に達している大林整曹長だが、若者のような軽やかな足取りで呼ばれた所に走って行った。
「相変わらず衰え知らずだなぁ。何か健康法があるのかな?」
「失礼ですよ、中隊長。大林さんは確かに見た目は老けて見えますけど、実際にはまだ五十代ですよ」
少し離れた所で、三四三空第三中隊長の大原中尉の発言を、彼の部下で第十小隊長の福山一飛曹がたしなめる。
「まったくですよ」
周りに集まった部下達は口々にこの発言を非難した。
大林整曹長は海軍航空隊の開隊以来の古参兵で、温和な性格の持ち主でもあり、階級が上の人間からも敬語で話しかけられるほどの人望もある。
対して大林中尉は海軍兵学校出のいわゆるエリート。
おまけに良いところのお坊っちゃまであるがために、どこか日本人離れした風貌を持ち、また礼儀作法も完璧であった。
あだ名は『松山の貴公子』。ただ、航空隊の中では多少浮いた存在でもある。ちなみに歳は二十三歳だ。
「お前達、何をぶつくさ言っとるんだ? 早く来んか」
長峰大尉が司令部に向かって歩きながら大声で呼びかける。
「来んか…って、いったいどこに?」
「気付かなかったのですか? ついさっき、連合航空隊の搭乗員に集合命令が出てましたよ」
偶然、彼等の隣に駐機していた雷電を整備していた佐脇二整曹が、顔をふせその手は動かしつつも呆れながら口を開いた。
「…あっ、そうですか」
「失礼します」
「…入りたまえ」
ロンドンダウニング街十番地…すなわちイギリスの首相官邸の書斎に、首相秘書官が書類を持って入って来た。
チャーチル首相は例によって、お気に入りの葉巻をくわえて窓の外を眺めている。
「何の報告かね?」
尋ねたのはチャーチルではなく、彼の側近であり親友でもある航空機生産大臣のビーバーブルックである。
「…シンガポールからです」
「パーシバル中将か。何と言ってきたのだね?」
チャーチルはだいぶ短くなった葉巻を灰皿に押しつけ、箱から新しい葉巻を取り出しながら問いかけた。
「…内容はマレー半島の防衛ライン及びシンガポール要塞の現状についてです」
「ちょっと待ってくれ。ボルネオ島については何かないのかね? 島の一部とは言え我が国の植民地の一つだろう」
「…おそらく特にこれといって報告することが無いのだろう。いまさら防衛施設を新しく作るにしても、既存のものを強化するにしても、連中には意味が無いだろう。…まぁ連中が我が東洋艦隊を壊滅させることが出来たからこその話だがね」
葉巻のラベルを剥がしながら、皮肉たっぷりにチャーチルは言った。
「…首相閣下のおっしゃる通り、ボルネオ島の守備隊にはある程度戦った後に、早々に降伏するように命令した、と報告書には書かれています」
「ふん。それで、マレー半島が何だと? まさか弱音が書かれているなどということはないだろうな?…湿っているのか?」
チャーチルはなかなか火がつかないマッチを睨んだ。
「弱音どころか非常に強気な表現が並んでいます。マレー半島及びシンガポールの防衛施設に関しては、文字通り鉄壁であると。ただそれらを最大限に活用には、陸軍及び空軍それぞれの兵力が足りないとも書いてあります」
「おかしいですね。さっきはついたのに。…まぁ言いたいところはそこでしょうね。しかしインドから補充するにしても限界があります。ビルマ方面の防備も固める必要がありますし、何よりこの欧州方面もまだまだ兵力が足りませんし…」
「しかし補充しないわけにはいかんだろう。シンガポールが陥落するのは時間の問題であるとしても、あっけなく陥落されては困るからな。今の段階で、我々が出来ることは時間稼ぎしかないのだからな…あぁついた」
チャーチルはそう言うと、葉巻に火をつけ目を閉じてゆっくりと煙を吸った。
そもそも、チャーチルが日英同盟を破棄して対日参戦に踏み切ったその理由は、『大英帝国のプライド』であった。
イギリス単独でナチスドイツに勝てるはずはない。何しろ一時的であったとは言え、本土に上陸されその一部を占領されていたことすらあるのだ。
アメリカの援助無しでは勝てない。あまりにも分かりきっていることだが、元々自分の植民地であった国に頼りきりということはある意味許されることではない。
とは言え、ウェーク沖海戦でアメリカ太平洋艦隊が日本連合艦隊に敗れた、という報を受けた英国海軍の指導者達は対日参戦をためらった。
しかしチャーチルは対日参戦を決断した。
曰く、いくら日本海軍が太平洋艦隊に勝ったとしても多大な損害を被っているに違いない。戦艦を三隻、空母を二隻持つシンガポールの東洋艦隊は少なくとも今の時点では極東最強である。よって日本軍により海上を封鎖され、フィリピンのルソン島に閉じ込められた米軍に補給を行うことは十分可能である。
…要するにイギリスはアメリカに頼りきりではない。アメリカはあくまでイギリスの『協力者』である。そう言いたいのだ。
そしてその後はマレー半島にて日本軍に出血を強要させて、インド方面への進出を遅らせる。
もっとも日本軍の視線はあくまでも太平洋に注がれており、日本軍がビルマはともかくインドまで進出してくるとは、チャーチルも考えてはいない。
だが以上のようなチャーチルの思惑は、大和型戦艦の出現とそれにともなって起きた戦い…日本名『比島沖海戦』、イギリス名『ルソン沖の悲劇』…によっていきなり崩壊してしまったのである。
シンガポールからこの報告…旗艦『プリンス・オブ・ウェールズ』以下輸送船に至るまで全滅…を受けたチャーチルは絶句したという。
何しろ『プリンス・オブ・ウェールズ』はチャーチルのお気に入りの戦艦であり、英国海軍がその威信をかけて建造した最新鋭の戦艦でもある。
それが決して前線には出てこないとみていた帝国海軍の戦艦、しかも最新鋭の戦艦に沈められたのだ。
「…何があの艦を沈めたのだね?」
絞り出すようにチャーチルは問いかけた。
「…はぁ、東洋艦隊からの通信を総合しますと、どうやら日本海軍の新型戦艦が出てきたようであります」
「何だと!? 日本海軍の新型戦艦が竣工するのは二月下旬のはずではなかったのか? 情報部の連中はいったい何をしておったのだ!?」
見事に欺かれたと言って良い。同盟国が嘘の情報を教えるわけが無い。そんな甘い発想をするとはイギリスらしくもない。
言い方をかえれば、そんな甘い考えをしてしまうほど、誰一人として、まさか日本と戦争をするなどとは考えていなかったということだろう。
おおいに落胆しつつも、チャーチルは戦略を組み直す必要性に迫られた。
なぜなら開戦してからしばらくは南シナ海、少なくともマレー半島東岸の制海権は確保出来る、という想定だったのだが、東洋艦隊が壊滅した時点で制海権は喪失したと言って良いからだ。
結果的にチャーチルはマレー半島を守る、ということを放棄することを口にさえ出さなかったが決めた。
イギリスが最も恐れることはインドが自国の勢力圏外の地域になってしまうことだ。
なぜならインドはイギリスの経済を支える広大な資源供給地であり、また市場でもあるからだ。
さすがのイギリスも、ガンジーを始めとする独立派の動きを抑えることは出来ず独立の約束こそしたが、あくまでも自国の経済圏に組み込んだうえでの話だ。
もし…考え難いことだが…日本軍が進出して来て現地の軍隊が負けでもすれば、イギリスの権威は地に落ちる。
そんなこんなでインドにいる艦隊は動かせない。
かといってあまりにもあっけなくマレー半島とシンガポールが陥落しても、それはそれで権威に傷がつく。
後に準備不足な状況での決断と言われるチャーチルの決断は、最終的に彼が一番恐れていた大英帝国の権威失墜と世界秩序の変化に繋がることになるのだが、無論本人は気が付いていない。
「作戦発起期日を延期する。か。まぁ元々予定外のことだからなぁ」
大阪の帝国陸軍第四師団の建物の一部を、間借りする形で発足した帝国陸軍第三軍の司令部。
司令官である山下奉文陸軍中将は、その巨体を椅子に沈めて参謀本部からの電文を見ながらつぶやいた。
「まぁ上陸作戦に海軍の支援は必須ですからね。例の新型戦艦がどれほどの損傷を受けたのかは知りませんが」
「しかしおかげで第二機甲師団の配備が間に合いそうなのは幸いなことです」
「あぁ最新鋭の一式を装備した部隊ですか。満州から直接南下するとのことですが…師団長は岡田資中将でしたね」
ちなみにここで言うところの一式とは、大戦前半の帝国陸軍を支えることになる一式中戦車と一式砲戦車、それから一式装甲車の事である。
「なにはともあれ、これで我が第三軍は三個の歩兵師団と一個ずつの機甲師団と航空師団に補給旅団、それに独立の工兵大隊や砲兵連隊を多数配備した極めて強力な部隊になったわけだ。各員は作戦発起日に向けひたすら訓練に励んで貰わねばならんな」
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