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第一章 変わりゆく帝国
二 満州事変


 一九二八年八月一八日
 この日、日本が租借している遼東半島の旅順にある帝国陸軍満州派遣軍司令部に、一人の没落貴族が一人の帝国陸軍の将校に伴われて来ていた。
 この没落貴族の名前は、愛新覚羅溥儀、という。
 言うまでもなく清朝最後の皇帝である。今まで天津の自宅で隠居同然の生活を送っていたのだが、満州派遣軍参謀長の建本末五郎陸軍少将の説得を受け入れて、特別列車に乗ってやって来たのである。

 「ようこそ旅順へ。私は大日本帝国陸軍満州派遣軍の司令官の今原繁と申します」
 と今原はややたどたどしい北京語を操って言った。
 「ふむ、ある程度の話は建本少将から聞いているが、なんでも私にまた皇帝になれと」
 「左様。もっとも取りあえずは執政ということになりますが、なるべく早く皇帝としたいと考えております」
 「清朝の復活か。確かに願ってもないことだが、所詮その国家は日本の言いなりとなるのであろう?」
 溥儀は頬杖を突きながら言った。
 「それはそうですが、貴方にとってどちらの生活が良いでしょうか? 天津で何もせずにただ最後の皇帝と呼ばれて死んでいくのと、曲がりなりにも皇帝陛下と呼ばれるのと」
 今原が意地の悪い笑みを浮かべながらそう問うと、溥儀は溥儀で苦笑いを浮かべながら答えた。
 「ある意味、難しい選択だな。しかし私が独立宣言をしてもはたして民は従うだろうか? だいいち国際社会が認めるだろうか?」
 「そこはご心配なく。既に満州の主要軍閥との話はつけてあります。反乱が起きても彼らを使うもよし、我々に援軍を頼むのも貴方が自由に決めてよいのです」
 「ハハハ、しかし貴方達は失礼ながら大した兵力を持っていないではないか」
 「確かにそうですが、既に朝鮮軍との話はつけてあります。彼らは二個ずつの日本人師団と朝鮮人師団を持っています。さらに我が満州派遣軍には、敵には無い強力な航空部隊があります。手前味噌な話、相当の兵力を持っていると思いますが」
 「まあそれなら良いが」
 「ではよろしくお願いいたします」
 今原はそう言うと溥儀の気が変わらないうちに、この極秘会談を終了させ、溥儀を司令部内の贅を極めた一室に、事実上軟禁した。


 九月二一日。
 事実上の軟禁状態から解放された溥儀は、解放されたのも束の間、その足で長春に向かいそこで清王朝の復興を宣言した。新しい国名はその名も『満州国』。
 と言ってもまだ国家の体はまったくなしていない。あるものといえば寄せ集めの陸軍と細やかな行政府くらいであった。
 しかもその支配地域は激しく狭かった。地方の中小軍閥が協力したと言えども、あくまで協力であって、満州国政府に従っているわけではないのだ。
 しかし、今原らにとってみればそんなことはどうでもよかった。
 今すべきことは、このとりあえず協力してくれる中小軍閥を中心とした満州陸軍を使って、満州の地を統一することにある。
 国家機構はそのあいだに、清朝の旧官僚やら軍閥の連中やらが何とかするだろう、というわけだ。無論、日本人顧問を参加させておくことは忘れていない。
 そして二日後、大して精強ではない満州陸軍は案の定、満州派遣軍に援軍を求めてきた。今原はすぐに指揮下にあったの第二師団と例の第三航空連隊に出撃命令を出した。また朝鮮軍司令官、金谷範三陸軍大将にも出撃要請を発した。二日もすれば数万の朝鮮軍がやって来るだろう。


 その頃日本政府は満州の地に突如として現れた新国家に、どうやら現地の日本軍が絡んでいるという情報を得て愕然としていた。
 噂はだいぶ前からあったが誰も取り合おうとはしなかったのだ。しかし実際問題、現地の日本軍は動いている。
 これを受けて直ちに緊急閣議が開かれた。
 始まるとすぐ閣僚達は、白川義則陸軍大臣と臨時に出席した鈴木壮六参謀総長に事の説明を求めた。
 ところが、当の二人ですら確かな情報を持っていなかったのだ。
 情報がなくては会議など出来やしない。結局閣議は突然始まったかと思いきや、突然終わってしまった。

 それから五時間後。
 再び集まった閣僚達は、ようやくまともな情報を得た白川と鈴木からとんでもないことを聞かされた。
 それは『朝鮮軍動く』の知らせである。
 日本政府にはその気はまったくなかったが、今原と金谷らの暴走行為に巻き込まれ抜け出せなくなっていることに、この時閣僚達はようやく気が付いたのである。
 「満州派遣軍司令官の今原中将、朝鮮軍司令官の金谷大将。二人には東京への出頭命令を出しました」
 一通りの説明を終えた白川が付け加えるように言うと、時の総理大臣である田中義一は早速、弱気な口調で疑問を呈した。
 「しかし素直に応じるだろうか?」
 「そこは保証出来ません。このまま軍令違反を続ける可能性が大きいです」
 「それにしても彼等の本心は何だ? そこまでして何がしたいのだ?」
 「おそらく現在の日本の状態が影響していると思います。我が国の経済は大戦以来、成長を続けており先の金融恐慌も見事に乗り切りました。その反面、人口の増加を招き明らかな宅地、農地及び資源不足に、そして逆に労働力不足にも陥っています。これらの問題を解決するためには満州は絶好の土地なのです」
 「大蔵大臣のおっしゃる通りです。内務省としても宅地や農地の開発には……関東地方では北総地域と多摩地域の宅地化、幹線用水路の建設等ですが、力を入れています。しかしとても追い付けません」
 と望月圭祐内務大臣。
 「すると、彼らのやっていることを簡単には否定は出来ないですな」
 「少なくとも新聞社は肯定してくると思います。今原中将らはこういう世論の動きも予想しているのではないでしょうか? 世論の力はそのまま満州派遣軍の力となりますから」
 「しかし外務省としては甚だ迷惑な話です。このまま不当な手段で満州を彼らが占領すれば、日本の国際的な地位は甚だしく低下します」
 この世界において、外務大臣を続けている幣原喜重郎が苦々しく言った。
 「総理……いかがいたしましょうか?」
 「……加藤内閣の時、我が国は中国大陸に対する政策方針を改めた。彼等の行動はこの方針に真っ向から逆らっておる。見逃すわけにはいかんだろう。それに重要な事は我が国の国際的立場だ。少なくとも今原中将や金谷大将の横暴に対しては、断固とした態度で臨まなければならない。その後、満州国を支援するにしてもそれはそれ、これはこれだ」
 「しかし……彼等は独断で軍を動かしています。いまさら律儀に中央の言うことを聞くとは思えませんが」
 「言ったであろう。断固とした態度で、と。従わないのならこちらにも考えがある」
 田中は先程までの弱気はどこへやら、力強い口調でそう言った。
 「我々には、最後の切り札があるのだからな」
 そして田中は苦笑いを浮かべた。

  
 九月二四日。満州は奉天の帝国陸軍満州派遣軍の臨時司令部。
 「……妙だな」
 司令室での執務机で、二二日付けの大阪朝日新聞を広げながら今原はつぶやいた。
 「閣下……どうなされたのですか?」
 今原の変わった様子に、建本が尋ねる。
 「とにかく妙なのだよ。私が想定していたような記事がどこにもない」
 「とおっしゃいますと?」
 「とにかく読んでみたまえ」
 そう言うと今原は新聞を建本に手渡した。
 「これは……事実しか書いていないではありませんか……しかも政府の不拡大方針を伝える記事の方が字数が多いとは……」
 無論、これは内務省の差し金である。
 「まぁ政府が賛同してくるとは元々思ってはおらんが……先に手を打たれてしまったか」
 「どうしましょうか? 我が軍が全満州を占領する前にもし、世論が政府側についてしまえば大変な事になってしまいます」
 脇から記事を覗き込んでいた片倉がおどおどしながら言う。
 「確かにその通りだ……しかし、まだ手はある。我々には切り札があるのだからな」
 今原はそう言うと不気味な笑みを浮かべた。
 「では……例の件を実行なされるので?」
 「うむ。ちと早い気もするが、予定などあってないようなものだ。ここぞというときに動かねばならん。今夜、実行する」

 今原が言う切り札とは、後に『柳条湖事件』と呼ばれる、南満州鉄道の爆破事件である。
 言うまでもなくただの自作自演だが、今原らはこれを張学良軍の残党によるものと決めつけ、今までにない激しい攻撃を開始した。
 取りあえず『正当防衛』という何とも胡散臭い大義名文を得たのであった。


 九月二五日。東京永田町の首相官邸のとある会議室。
 「それにしてもここまでやるとはな……」
 田中の発言に代表されるように、閣議は相変わらず重苦しい空気に包まれていた。
 「しかし満鉄が運転を見合わせているとの情報はありません。爆破はかなり小規模なものだったようです。ただ、大義名分をとるための自作自演の行為です」
 「ところで陸軍大臣。例の出頭命令に対する回答はきたのですか?」
 幣原が尋ねると白川は肩をすくめながら首を左右に振った。
 「黙殺です。連中は完全に中央の言うことを無視していますね」
 と例によって臨時に参加している鈴木がぼやくように言う。
 「新聞社には今回の事件についても書かないよう、通達を発しています。しかし、完璧に押さえ込むことは出来ませんし、もしそれを実行しても、どこからか不満が噴出して今回の件について満州派遣軍を擁護する記事を書くでしょう。そうなれば世論は間違いなく政府の不拡大方針に反抗します」
 望月が言うと、田中は大きく息を吐いて拳で自らの膝を叩くと、閣僚達を見回して、宣言するようにこう言った。
 「中央の命令に従わないのならば、実力を行使するまでだ。海軍大臣、直ちに艦隊の編成にとりかかってくれないか?」
 「……分かりました。幸いというか、ちょうど佐世保には訓練のために戦艦や空母を含む部隊が停泊しています。早速出撃命令を軍令部を通じて発します」
 海軍大臣の岡田啓介海軍大将は田中の決意を感じ取ると静かにそう言い、そして静かに会議室から退出して行った。
 「り、陸軍といたしましても連中に圧力を加えるために、直ちに九州地方の部隊を大陸に派遣します」
 「陸軍は……」と言われることを恐れたかのように、鈴木は慌てて言うと、どたどたと会議室から出て行った。
 「さて……私も行くとするか」
 鈴木が退出してから一呼吸おくと、そう言って席を立った。
 「総理……どちらへ?」
 「どうせなら使いたくはなかったが、切り札を切りに行くのだよ」
 田中は疲労に満ちた表情に僅かな笑みを浮かべ、閣議の終了を宣告した上で退出した。


 九月二六日。二日前から前線部隊の視察に赴いていた今原らは、その視察を終えて奉天の司令部に戻ってきていた。
 「参謀長、東京から何かあったかね?」
 「いえ東京からは何もありませんが、南京からなら来ました」
 奉天で留守を預かっていた建本がそう報告すると、一枚の電文を今原に手渡した。
 「ほう、蒋介石からかね? なになに……」
 今原は椅子に腰掛けると、その電文を声に出して読み始めた。
 「『自作自演の鉄道爆破や満州国なる国家を無理矢理創るなど日本帝国主義の横暴である。国民党政府は強く抗議する』か。ふん、知ったことではない。言わせておけ」
 「……承知しました。それで前線の様子はいかがでした?」
 「あぁ、皆の戦意は高かったな。満鉄を破壊した輩を許すわけにはいかん、といきり立っている軍曹がいたほどにね」
 今原はその軍曹を馬鹿にするように笑いながら続ける。
 「軍閥の連中は概ね三つの種類に分けられた。一つは清王朝の復活に喜び戦意旺盛なもの。一つはこの機に対抗する軍閥を潰してしまおうと別の方向に息巻いているもの。一つはただ自らの利益のために戦っているもの。この点に関しては予想通りだったよ」
 「失礼します! 錦州攻撃隊より入電、『我が軍は爆撃部隊の奮闘もあり敵部隊を殲滅せり』です」
 司令室に入って来た通信兵が電文を読み上げる。
 「よし! 『貴隊はそのまま敵を追撃、山海関まで予定通り進撃せよ』直ちに返信してくれ」
 「はッ! 『貴隊はそのまま敵を追撃、山海関まで予定通り進撃せよ』直ちに返信します!」
 通信兵が復唱して出て行くと、今原達はこれからのことについて、その他の参謀や、朝鮮軍関係者も交えて内輪の議論を始めた。
 中央政府の様々な圧力が海を渡り、切り札が向かってきていることも知らずに。




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