愛、深き故の行為
真は、左隣に座る――付き合ってちょうど二年になる彼女――愛生の両太腿の上に、ゆっくりと自らの頭を乗せ、横を向いたまま寝そべった。
「……どう? 高さ」
愛生が聞く。真は頭の位置を確かめるように、小刻みに身体を動かすと、
「うん。大丈夫」
そう答えて、笑顔のまま目を瞑った。
愛生は、右手にあるテーブルに手を伸ばした。――その手に取ったのは、“耳掻き”。
――彼女は長い髪をかき上げると、上を向いた真の右耳を左手で摘まみ、利き腕である右手で持ったその耳掻きを――穴にゆっくり、挿入した。
「じっとしててね」
愛生が耳元で、甘い声で囁く。
――ガササッ……
真の中耳腔に、耳掻きの先端が皮膚を擦る音が響いた。
「アッ……」
真の口から、思わず声が漏れた。
「……結構、溜まってるね」
愛生は身体を少し仰け反らせ、天井の蛍光灯の光が穴の中に入るようにした。そして、自らの頭が影にならないように、位置を変えながら真の穴を覗き込む。
「前にやってもらったの、いつだっけ?」
「……三ヶ月くらい前かなぁ」
愛生は耳腔内の状態、掘り出す対象の位置を確認すると、早速作業にかかった。
――ガササッ……ガサッ……
「……うふふっ」
愛生が、堪えきれなかったように笑う。
「どうしたの?」
「……そこの窓にね」
真が目を開けると、ベランダに続く大きな窓が見えた。
夜の為、鏡のような役割を果たしている。
「真の気持ち良さそうな顔が映ってたの。……それ見てたら、なんだかうれしくって」
「ふふっ、恥ずかしいなぁ」
――ガサガサッ……
*
――真は、至福を味わっていた。“膝枕”……からの“耳掻き”。それはどんな男であっても一度は体験したい“夢の行為”であることは、もはや言うまでもない。
さらに言えば愛生は、『真にはもったいない』と周りからは揶揄されるほどの美人だった。百八十センチを越える長身で、モデル顔負けのスタイルを保っていた。
日本人離れした、西洋の彫刻を思わせる美貌。某シャンプーのCMでしかお目にかかれないような、輝く髪。……街を歩けば男達からは“三度見”され、渋谷・原宿を歩けば一日最低五回はスカウトマンから声をかけられる。大学時代はミスコンで、史上類を見ない圧倒的勝利を収めた。
――そんな彼女と“普通”そのものといった真が付き合っているのだから、「不思議なこともあるものだ」と友人達は皆首を傾げた。――しかも告白をしたのは愛生からだというのだから、また“不思議”である。
真は幸せだった。まさか大学内でも入学当時から有名人だった愛生と付き合うことができるだなんて、思ってもみなかったのだ。
……しかし、不安要素もあった。常に真は「自分は愛生とは釣り合っていないんじゃないか」と思わされ、悩まされた。――また、彼女は真のことを愛していたが、その深き愛故に、彼を束縛した。……彼女は病的なまでに、嫉妬深かったのだ。結論から言うと、真は愛生と自分の母親以外の女性と会話することを、付き合い始めてから二年間、ずっと許されていない。携帯に愛生(と自分の母親)以外の女性の連絡先を登録させることも、許されていないのだ。
――こんなことがあった。ある日、愛生の自宅でくつろいでいた時のことである。真は愛生から携帯の調子が悪いという相談を受け、その場でカスタマーセンターに問い合わせの電話を入れた。その時、対応をするために電話に出たのが、女性のアドバイザーだった。携帯から漏れ聞こえてきた女性の声を察知した愛生は、真の手から携帯電話を奪い取ると床に叩きつけた。……結果、真の携帯も壊れてしまった。真はさすがに愛生を怒ったが、彼女が泣き始めてしまうと許すしかなかった。
こんなこともあった。愛生は半年程前、真を包丁で刺した。……どうしてそんな事になったのかというと、真には“山口俊美”という名の友人がいた。――それは、“男性”だったのだが、携帯電話の連絡帳を盗み見た愛生が、“女性”だと勘違いしたのだ。……幸い大事には至らなかったが、真は病院に運ばれて刺された腹を縫った。……愛生が泣きながら謝るので、やはり真は許すしかなかったのだが、その時の傷は今も真の腹に残っている。
別れようとは何度か思ったが、真は愛生を手放してしまうことも惜しかった。――愛生ほどに美しい女性と今後付き合える可能性は、ほぼゼロに近いと自覚していたのだ……。
*
「じゃあ、反対ね」
真は起き上がり、愛生の反対側に動いた。そしてまた、横になる。――愛生の両太腿に、今度は左耳が上になるように頭を乗せた。
――ガササッ……
「ンッ……」
真はまたもや、声を上げる。
――真は、悩んでいた。……それは、これからもこうして愛生と付き合っていってもいいのだろうか、ということである。
……実は、真には気になっている女性がいた。バイト先のガソリンスタンドで一緒に働く、長澤美紀である。――愛生には「俺のバイト先には男しかいない」と言ってあったのだが、それは嘘だった。美紀は、二ヶ月前からそこで働き始めていた。真は教育係として仕事を教えていたことや共通の趣味があることから、すぐに彼女と仲良くなった。……愛生にずっと束縛されているので、久しぶりの愛生以外の女性との会話は新鮮だったのだ。
美紀には、愛生とのことで相談に乗ってもらったりもしていた。そしてその内、だんだんと美紀に情が移っていってしまったのだ。
(……このまま愛生と一緒にいては――半年前に腹を刺されたこともあるし、身が持たないかもしれない……。それに、やはり愛生と俺じゃあ吊り合っていないんだ。……気の合う美紀と一緒になった方が、いいのだろうか……)
(愛生は、俺のどこが好きだというのだろう……)
――。
「なぁ、美紀」
「なぁに?」
……。
何気無く、“愛生”に話しかけたつもりだった。
「ちょっと待って」
愛生の右腕の動きが、止まる。
――真は、全身の体温が二十度ほど下がった気がした。
「“ミキ”って誰?」
――。
低く、冷たい声だった。
――今度は、体温が一気に上昇した。
汗が、全身の汗腺から噴き出た。
「えっ…………“愛生”って、ちゃんと言ったろ……」
「言ってない」
真は、唾を飲み込んだ。
「……“ミキ”って言ったわ……!」
愛生は、大きく息を吸い込む。
「“ミキ”って誰よぉッ‼︎」
愛生は、大きく開かれた真の耳腔に耳かきを突っ込んだまま、そこに向かって叫んだ。
「ちょっ、ちょっと待って! こっ、声が大きい……!」
「“声が大きい”じゃないわよッ! 誤魔化さないでッ! “ミキ”って誰ッ‼︎」
真の脳に直接響かせるように。愛生は叫び続けた。
「ちっ、違うんだよ……。バイト先で一緒の……」
「『バイト先には男しかいない』って言ってたの、あなたじゃないッ!」
愛生は、泣き声になっていた。
「嘘ついてたのね……浮気してたのね……! 私はこんなに……真のことが好きなのに……愛しているのにッ……‼︎」
「ちょ、ちょっと待って……! 落ち着いてよ! 落ち着いて話そう。ねっ、お願いだから。愛生。……俺も“愛してる”から……! 本当だから……! だからとりあえず、耳かき抜いて……‼︎」
真は、窓に映った愛生の姿を見た。
わなわなと、身体を怒りに震わせていた。呼吸はだんだん荒くなり、涙を流していた。
……一粒の水滴が、真の首筋に、落ちた。
「ウゥウッ……ウゥ…………嘘…………嘘っ! 嘘ッ‼︎ 嘘よォオォォォォオォォォォォォッ‼︎」
――グッ……‼︎
愛生は、右腕に渾身の力を込めた。