それは寂しい通夜だった。
訪れる人の影もまばらで、寂しさだけが募った。
娘の死が信じられないのか、それともこういう形での死は予想だにしなかったのか、茫然自失となった両親を尻目に、その親戚だろう人々だけが忙しげに走り回っていた。
冷たい夜だった。
最愛の人の死がそう感じさせるのか、僕の体は、いや、体だけではなく精神までもが、凍てついたように冷たかった。
雨が降ればいいと思った。
雪になればいいと思った。
しかしそんな僕の思いとは裏腹に、冬の空には星が瞬いていた。
12月3日、僕はその夜の事を生涯忘れないだろう。
愛子は、僕が世界中で唯一愛した女性は、12月3日、午後11時23分に24年の生涯を閉じた。
愛子が、いや、僕たちがその病気に気づいたのは何時の事だったろうか。
僕はその日の事を思い出すたびに無力感にさいなまれる。
愛子は、優しい心を持った愛子は、その心根の優しさが仇になったのか、いつの頃からか精神を患うようになった。
付き合い始めてから毎日のように続いた、就寝前の「お休みの電話」では、そんなそぶりを見せようとはしなかった。
全く兆候がないままに、愛子の精神は抜き差しならないところまで疲弊し、そして12月3日、愛子は自らの命を絶った。
僕は愛子に何かできたのだろうか?
僕は愛子に何もできなかったのだろうか?
分からないまま、こうして僕は生きている。
ああ、昔に戻れたら・・・。
愛子の精神がそんな最悪の状態になる前に戻れたら、僕は愛子を助ける事ができるのに・・・。
戻りたい。
昔に、あの頃に戻りたい・・・。
あの頃に、戻りたい・・・・・・。
「ねぇ。まだ寝てるの?」
その声は・・・まさか・・・。
愛子・・・?
「ねぇ、どうかしたの?頭なんか抱えて・・・?」
目を開けた僕の目に飛び込んできたのは、愛子の心配そうな顔だった。
驚いて辺りを見回す。ここは・・・僕の部屋だ・・・。
「あ、愛子?」
「どうしたのよ?寝てたかと思ったら急に起きるんだもん。びっくりしちゃった」
「愛子・・・。なんで君が・・・?」
「なんでって・・・。今日は会う約束してたでしょう?」
「今日・・・」
不意に起き上がりカレンダーを眺める・・・10月?
慌てて愛子に問いただす。
「今日はいつ?何月何日?」
「寝ぼけてるの?今日はねぇ・・・10月3日。デートしていっぱい美味しいものを食べる日でぇす」
愛子のおどけた声にはお構いなく、僕は必死に脳内で考えをまとめようとした。
10月・・・3ヶ月前・・・。
僕は・・・タイムスリップしたのか・・・?
「愛子、僕が誰だか分かるか?」
「何を変な事言ってるの?貴方は隆之君でしょう?自分が誰だか忘れたの?」
まるでSF小説ね。タイムスリップでもしたのかしら。愛子の言葉を背後に聞きながら、僕は戸惑いながらも状況を把握しようとした。
これはまるでタイムスリップ、いや、タイムスリップそのものだ。
僕は愛子の死というショックから逃れるため、無意識の内に時間を飛び越えたのだ。
だとしたら・・・できるかもしれない。
愛子が突然に死んでしまう事を、回避できるかもしれない。
「愛子、今日は・・・」
「ダメだよ。どうせ『もうちょっと寝させてくれ』だとか、『外に行きたくない』だとか言い始めるんでしょ。ダメダメ。いっつもその手で出かけられなくなっちゃうんだから。今日こそはお外でデート。約束でしょ?」
「あ、ああ、約束だったな」
「でしょ?じゃあ行こうよ」
「ああ」
釈然としないまま、僕はデートに連れ出された。
そう言えばこの時期は僕が出不精なせいであまり外に出かけなかった時期だ。今はあまり状況がよく飲み込めていないが、愛子に不信感を持たれるのも困る。とりあえず罪滅ぼしのためにもデートに付き合う事にした。
それに、僕はこのような異常な状況に置かれながらも、愛子と再び会い、そして愛子と話す事が、愛子に触れる事が、デートができる事が、純粋に嬉しかった。
外を歩くのに疲れて喫茶店に入っていた時、僕は浮かれた気持ちを落ち着けて、慎重にこれからの事を考えた。愛子がトイレに行っている隙を突いたのだ。
おそらく僕は、何らかの力でタイムスリップしたのだ。そして、愛子の死から2ヶ月前という絶妙のポイントにまで遡った。これは、考えようによってはチャンスだ。
愛子の死は、つまりは愛子の精神が蝕まれた事から来ている。それを取り除いてやれば、精神的な面で愛子の支えになってやれれば、あのような不幸を招く事はないのではないか?ひいては、愛子が死なないようになるのではないか?
そうやって、未来を変える事ができるかもしれない。
再び、愛子との日々を続ける事ができるかもしれない。
そこまで考えた時、愛子がトイレから帰ってくるのが見えた。その愛子の柔らかな笑顔を見た時、僕は密かに決意した。愛子を、死なせるものか。
僕は、僕の愛子への接し方を変えようと思った。無論、愛子に余計な心配をさせないように、愛子を不安がらせないように、あからさまに変わる事はしない。あくまで今までのやり方をベースにそこに少し、愛子の体調、精神状態を気にする態度を加えようと思ったのだ。
「心配事があったら、すぐに言ってね」
「分かったわ」
愛子は笑いながらそう答えた。
「それじゃ分かってないよ。笑いながら答えるのは分かってない証拠だ。いいかい、真剣に聞いておくれ。僕は君が一人で心配事を抱えて泣いているのが嫌なんだ。だから、何かあったら絶対に教えて欲しい。君の事が心配なんだよ」
「・・・分かった。ありがとう」
今日のデートの後、愛子はそう言って少し笑った。
こうして僕の、「愛子の死」に抗する作戦が始まった。僕は常に愛子の精神状況を気にするようになった。もちろん夜の「お休みの電話」の中で、「今日は何か嫌な事があった?」と訊くのも忘れなかった。
そうするうちに、愛子の中でも何か変化があったようだ。愛子は、少しずつ、本当に少しずつ、自分の心境について語るようになってきた。
愛子は、自立している女だ。自己完結していると言ってもいい。嫌な事、辛い事、心配事は全部自分独りの中に抱え込んで、自分で解決しようとする。その結果、もし解決しきれない問題が生じた場合、愛子はそれさえも抱え込もうとするので、愛子の精神が蝕まれていく。そうして、愛子は少しずつ、少しずつ傷ついてきたのだ。
僕は、時間をかけてその愛子が抱えている問題を解きほぐした。そして、その重さを僕が背負った。その傷を僕が負った。
結局、人間一人が背負う事のできる問題なんて高が知れている。背負いきれない問題を投げ出す勇気、そしてその投げ出した問題をしっかりと抱えてくれる人、それが愛子には必要だった。
そういう事を続けているうちに、愛子は、以前から明るい子ではあったのだが、前よりずっと明るくなった。二ヶ月弱たった今では、料理の最中も、 今まで歌った事なんてなかったのに、鼻歌を歌うようになった。
ここにきて僕は、「危機は去った」と確信した。
愛子の死に通じる精神的な問題は、僕が全て取り除いた。愛子が精神を病んで自殺する可能性は限りなくゼロに近い。
だがしかし、「ゼロに近い」とは言っても、ゼロでない限りその可能性というものは付きまとう。
僕は最後の仕上げとして12月3日は愛子と会う事にした。
そう、愛子が死ぬ日だ。
寒い日だった。雪がちらほらと舞っていた。
そんな日に、僕は、わざわざ学校を休んで、愛子に会った。
「どうしたの、こんな日に呼び出すなんて・・・。学校は?」
「なぁに、今日はあんまり行きたくなかったから休んだんだよ」
僕は心配させまいと愛子にウソをついた。
「君のほうは?順調かい?」
「うん。大体ね」
「そうか、良かった・・・」
「愛子、今困ってたり、嫌だったりする事はないか?」
「なによ急に・・・。そうねぇ・・・特にないわ」
「本当かい?正直に言うんだよ?」
「本当にないわ。だって、どこかの誰かさんがいつも悩み事を聞いてくれるんですもの。私は幸せよ」
「よかった。安心したよ」
大丈夫、愛子は元気だ。おどける余裕すらある。
もはや、愛子が精神的な理由で死を選ぶ事は皆無だろう。
僕は肩の荷が下りたような気分だった。そして、同時にやり遂げたという充足感が体を満たした。
(もうこれで、愛子が死ぬ事はない。僕と愛子との関係は、まだまだ続くんだ)
そう思った。愛子が死ぬ可能性はゼロになったと、そう思った。
その日愛子とは、喫茶店で少し世間話をして別れた。
買ったばかりのスクーターに乗って手を振りながら帰っていく愛子の姿を喫茶店の大きな窓から見送り、僕は家に帰った。
その夜は満ち足りた思いでぐっすりと眠った。「おやすみの電話」をする事も忘れて、僕は泥のように眠った。とても幸せだった。
愛子が交通事故で亡くなった事を知らせる電話が鳴ったのは、12月4日の午前1時を少し回った頃だった。
僕のやり方は間違っていなかったと今でも信じている。
僕は愛子の精神的磨耗からくる自殺、それを食い止めようとしたし、実際に自殺は起こらなかった。
しかし、雪の日に、コントロール不能に陥ったスクーターは、激しく横転し、無残にも愛子をアスファルトに叩きつけた。
愛子はそれから通報によって駆けつけた救急車で、近くの病院に搬送されたが、医師の必死の手当ての甲斐もなく、午後11時23分、息を引き取った。
通夜は雪の中行われた。
人々はみな、一様に頭を下げ、お悔やみの言葉を愛子の両親にかけて帰っていく。僕はその光景を、見るともなしに見ていた。
僕にとっては二回目の愛子の葬式だった。だがそれに対して特別な感慨を持つこともなかった。
僕は深い無力感にさいなまれていた。愛子のために、愛子が死なないように全ての事を考えていたのに、それなのに、最後には愛子は死んでしまった。
なぜ?
僕が呼んだからだ。僕が愛子を呼び出したりしなかったら、愛子はあんな日に事故に遭う事はなかっただろうに、それなのに・・・。
僕はいつかのように頭を抱えた。
できる事ならもう一度、手遅れになる前に戻りたい。
あの時の様に、タイムスリップしたい・・・。
できる事なら・・・・・・。
ジリリリリン・・・・・・ジリリリリン・・・・・・。
・・・・・・電・・・話?
いや、電話じゃない。
ブーーーッ・・・・・・ブーーーーッ・・・・・・。
ドアベルだ。ドアベルが鳴っている。ドアを開けなきゃ・・・。
ガチャ!
「おはよう!」
ドアを開けた僕の目に飛び込んできたのは、元気そうな顔の愛子だった。
「あ、愛子、愛子なのか?」
「そうよ。あれ、寝てた?」
「ああ、寝てた」
もう昼よ?本当にだらしないんだからぁ、と言いつつ部屋の中に入っていく愛子を見て、僕は確信した。
また、タイムスリップできたのだ。
急いでカレンダーに目をやると11月、とある。
「愛子、今日って何日だっけ?」
「もう、相変わらず時間感覚がないのね。ちゃんと学校行ってる?今日は3日。11月3日よ」
11月3日・・・一ヶ月ほど戻ったってわけだ。
思いがけない事だ。またタイムスリップできるなんて。チャンスはまだあるんだ。
僕は再び明るい気分になった。しかし同時に自分の義務、やるべき事を考え、身が引き締まるような感じを得た。
まず、ここでの問題は、今が本当の11月3日、つまり一度目の11月3日なのか一回目のタイムスリップ後の11月3日、つまり二度目の11月3日なのかという点だ。
もし本当の、一度目の11月3日ならば、愛子の精神は病んでいる状態にあるはずだ。もちろん、それをケアする必要がある。
しかし二度目の11月3日ならば、愛子の精神をケアしている真っ最中という事になる。
はたしてどちらなのだろう・・・?
「愛子、10月ぐらいにオレが言った台詞、覚えてるかい?」
キッチンで食事を作り始めた愛子の背に向かって、僕は部屋の中から質問を投げかけた。
「どんな台詞?」
「ほら、『心配事があったら』ってヤツ」
「えー。そんな事聞いたかしら?」
「い、言ってないのか?」
「ウソウソ。ちゃんと聞きましたよ。何を慌ててるのよ。可笑しい」
キッチンでけたけたと笑う愛子の笑い声を聞きながら、僕はほっと胸をなでおろした。
そう、今は二度目の11月3日なのだ。
そうなると、僕のやる事は決まってくる。愛子の精神のケアと、愛子のスクーターの件だ。
精神のケアは今までどおりにすればいいだろう。後はスクーターだが、愛子がスクーターを買うのは今月の末のはずだ。それを食い止めれば、愛子が交通事故で死ぬ事はなくなる。
愛子の手料理を食べ終わってから、僕はそれとなく愛子に言った。
「愛子、スクーターは買わないほうがいい」
「え?だって自分はバイクに乗ってるでしょう?」
「ああ、でも、君にはスクーターに乗って欲しくないんだよ」
「そんなの不公平よ!私、絶対スクーター買うからね!」
愛子は少し怒ったように言って頑なに拒否した。そして会話のない食事が続いた。
しかしそれからも僕は折を見て何度も愛子に懇願した。
愛子がスクーターを買わないように。
「愛子、お願いだから買わないでくれ。僕は君を死なせたくない」
「スクーターに乗ったからって死ぬとは限らないわ。スクーターは便利なのよ?あなたなら分かるでしょ?」
「分かる。けど、お願いだからやめてくれ。何なら今年いっぱいでもいい。とにかく今スクーターを買うのだけはやめてくれ」
「変なの・・・」
そのうち愛子はこんな事まで口にし始めた。
「じゃあ隆之がバイクに乗るのをやめてよ。そうしたら、私、スクーターは買わないわ」
「・・・・・・分かった」
「え?いいの?」
「ああ、それで愛子がスクーターに乗らなくなるんだったら、いい」
愛子が死から逃れられるのならば、僕にとってバイクを降りることぐらい、造作のないことだった。
確かにバイクに乗るのは大好きだ。もはやどこに行くのにでも使っている。体の一部と言っても過言ではない。
でも、僕がバイクを降りる事で愛子の死を食い止められるのならば、そんな事、比べるまでもない。
愛子は、僕の覚悟が分かったのか、しばらく黙って僕を見ていた。じっと、僕の目を見ていた。
時が流れ、肝心の月末になっても、愛子がスクーターを買う事はなかった。
その代わりに僕はバイクに乗る事をやめた。迷いはなかった。「愛子のためだ」と思えば、なんだってできた。
これで、危機のうちの一つは去ったのだ。
もちろん、愛子の精神面でのケアも忘れずに行っていた。方法は前回と同じだ。僕は事あるごとに愛子に精神状態を尋ね、毎晩「お休みの電話」をした。
前回、それで成功しているんだから、今回もきっと成功するはずだ。愛子の様子も、前回同様明るくなってきている。
いい傾向にあった。
スクーターの件と精神のケア。僕は見事にそれをやってのけた。どちらが残っていても愛子は死に至るが、僕はそのどちらの要素も除去する事ができた。
そして、後はその日を待つだけになった。
12月3日、審判の日だ。
月日は流れ、12月3日を迎えた。
僕にとっては三度目の12月3日だ。
前回のように僕と愛子は喫茶店で待ち合わせをした。スクーターのない彼女は電車でやって来た。
そして前回と大差ない話をし、二人は別れた。スクーターのない愛子は電車に乗って帰っていった。僕に笑顔で手を振りながら。
僕は「今度こそ」と思っていた。愛子の二つの死の要因、精神磨耗とスクーター、これらは完全に取り払われた。
愛子が死ぬ原因など、どこにもないと思っていた。
あるはずがないと思っていた。
しかしその夜、すし詰め状態になった電車のホームから、一人の女性が転落し、そのまま電車に轢かれた。
死亡時刻は午後11時23分、死んだのは、そう、愛子だった。
そして僕は三度タイムスリップした。
薄暗い日が差し込む中、僕は自分の部屋で目を覚ました。
急いでカレンダーを見ると12月3日だった。つまり、愛子の死ぬ日にタイムスリップしたのだ。
今までの体験から、そしてその結果から、僕は少し怒っていた。どんなに対策を練ろうが、愛子は死んでしまう。たとえ僕たちができる事をすべてやったとしても、何らかの外的要因によって、愛子は死んでしまう。
そんな理不尽さに、僕はやり場のない怒りを覚えていた。
一体どうすれば、愛子を死から救えるのか?
それとも僕にできる事など、何もないのだろうか?
分からないまま僕は愛子を自宅に呼んだ。ある考えを胸に秘めて。
思うに、死亡する日と死亡する時刻は既に決定されている。12月3日、午後11時23分、それが愛子の死亡時刻だ。
だったら、その時間までずっと見張ってやる。
そして、その時が来たら、僕が愛子を守ってやる。
おそらくタイムスリップするのはこれが最後だ。今まで二ヶ月前、一ヶ月前という順にタイムスリップしてきたのだから、この日にタイムスリップした今日が最後のチャンスだろう。
12月4日まで愛子が生きていれば僕の勝ち、生きていなければ運命とでも言うべきものの勝ちだ。
そんな事を考えているうちに愛子がやって来た。
僕たちはいつものように食事をし、こたつにあたりながらビデオで映画を見たり、テレビゲームをしたり、世間話をしたりした。
僕は、愛子を外に出す気はなかった。
もし室内でも殺せるような方法で死が迫ってきたとして、小さな事故が起こった時、例えば強盗が押し入ってきたとしても、僕は愛子を守ってみせる。
それ以外の大きな事故、それは地震や、火事や、その他の大事故だ。そのような事故が起こった場合、それは愛子のみならず、僕まで殺してしまうはずだ。
僕はそれならそれでいいと思っていた。
愛子のいない人生なんてつまらない。愛子と一緒に死ねるなら、それでいい。
「ねえ」
時計が午後10時を回った頃、愛子が話しかけてきた。
「どうした?」
こたつに半身を入れてうつぶしたまま、僕は返事をした。
「そう言えば、ここに来る時に、変なお婆さんに出会ったの」
「お婆さん?」
「そう。私の顔をじーっと見て、『なんまんだぶ、なんまんだぶ』って言ってくるの」
「失礼な婆さんだな。それで、どうしたの?」
「『私の顔に何かついてますか?』って訊いたら、『死相が出てる』って言うのよ」
「なんだそれ。気にするなよ」
「うん。でも、『どういう事ですか』って訊いたのね」
「うん」
「そしたら、『生きとし生ける者は皆死ぬ。誰もその運命を覆せやせん』って言って去っていったの」
「そうか・・・」
愛子の手前平静を装っていたものの、僕の心は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「老婆の言った事は真実だ」という思いが僕の心の中にしっかりとした柱として立っていた。つまり、愛子は午後11時23分に死ぬ。それは誰にも変えられないし、どうする事も出来ない。
おそらく人が死ぬ時というのは、あらかじめ決定されており、誰にも覆せないのだ。
そして、今までの三回、僕は12月4日を迎えた。つまり、僕は12月3日に死ぬ運命にはないのだろう。
「生きとし生ける者は皆死ぬ運命にある。誰もその運命を覆せはしない」
老婆の言葉はいつまでも僕の頭の中でこだました。
また愛子は死に、僕は生き延びるのだろう。
僕は愛子を守る事も、愛子と一緒に生きる事も死ぬ事もできないのだ。
結局、僕にできる事など、何一つとしてなかったのだ。
僕はその事実に気がつき、戦慄した。同時に諦観が僕の体を支配した。
もはや僕にできるのは、ただ待つ事だけだった。
まんじりとしながら、僕はその時を迎えた。
僕は仰向けになり、目を瞑っていた。目を瞑って、愛子の話すのを聞いていた。愛子の言葉を、一語一語確かめるように、しっかりと記憶に留めようとした。
「どうしたのよ?眠いの?」
「いや、そういうわけじゃない。続けてくれ。君の声を聞かせてくれ」
愛子は、また話し始めた。僕はじっと、最愛の人の声を聞いていた。
できる事なら、ずっと聞いていたかった。
突然、なんの前触れもなしに愛子の言葉が消えた。
僕の固く瞑った目の間から涙がこぼれた。
そして、愛子の口から言葉が漏れる事は、もうなかった。
愛子は、急性心不全でこの世を去った。
死亡時刻は午後11時23分だった。
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