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39800
作:雲鈍


今日、万歩計をかった。思ったよりも安い。スケルトンブルーというか、そんな感じの色で、
一目見た瞬間から気に入ったのだ。つるつると手になじむ感触も心地いい。ポケットに入ってる
万歩計をなでて思わず僕はにやりとした。
歩こうと思ったのは、ダイエットとか、健康のためとか、そういう建設的な理由があったわけではない。
ただなんていうか、こう、そうだな、やる気というか、若さというか、思わず歩きださずにはいられない気分というか……ありていに、俗的に、簡単に、単純に、言ってしまえば、恋だ。僕は恋をした。ふと早起きをした朝、たまたますれ違った女の子に。

39800
act0
「39800円です」
 白衣の天使は無情にも、そう言い放った。お金がないのは学生の常だとしても、そのお金がない学生から搾取するのが世情だとは思えない。その是非はともかくとしても、僕は彼女に殺意を抱かずにはいられなかった。はあ、とため息。我が事ながら嫌になる。いや逆だ。自分のことだから、受け入れられない。自分が好きじゃないから。こんな不自由な体が、わずらわしくてたまらない。お金を払って、挨拶をして、僕は偽善と慈愛に満ちた白い収容所を後にする。

act1
「妹ほどかわいいものはない」
 それ以外の異性には興味がない。
 そんな発言をしたのは、同級生の山田Aだった。僕はいつものように「まあまあ」と彼をいさめながら、
視線を外へと向ける。今日も空が青い。山田の表情と同じように。
「なあ」
「なんだよ」
「恋ってなんだと思う? 」
 彼はいくぶんか思案気な顔をした。そして数秒後、
「妹だ」
 と、即答した。眉間にまゆをよせた真剣そのものの姿で、彼のバックには青空があり、「どうして青春ってこんなに……」と思わず誰かをやじりたくなるような場面。ただセリフだけが現実離れしてる。そんな僕の動揺とは裏腹に、口が勝手に言葉をつむぐ。
「うーん、違うんだよ。僕が言いたいのは、すれ違ったり、その人のことを思うと心臓がいたくなるような、
ありふれてつまらない恋愛のことなんだけど」
「俺はいつも妹のことを考えると心臓が痛くなる」
 しばしの時間を見つめあって過ごす。
「じゃあ、その妹と仲よくなるためにはどうしたらいい? 」
「そうだなぁ……まずは話かけるだろうな」
「怖くない? 気持ち悪がられたらどうしよう、とか」
「そんなこと言ったら、何も始まらないだろうが。これからどれだけの人間に会うんだよ」
「そうか、そのとおりだ」
 僕は一人うなずき、一人納得する。まだ、何も始まっていないのだ。
「一人悲観するのは勝手だけど、悲壮美に酔いしれるのはやめてくれよ」
「うん、そうする」
「ところで相談なんだが」
 彼はまじめそのものの口調で言った。
「現実的に仲よくなるにはどうしたらいい? 」
昨日から妹が口を聞いてくれない、とぼやいた。

act2
 歩こう、と思い立ったのは、山田とのやりとりからだ。歩かなければ何も始まらないし、千里の道も一歩から、ローマは一日してならない。少なくともぼくはまだ、何も始まっていない。終わったと感じるのは単に僕の思いすごしなだけで、客観的に分析すればまだ原点にさえ立っていないのだ。
 また会いたい、と思った。どうすれば、と考えた。簡単だった。同じ時間に歩くのだ。彼女はジョギングをしているようだった。陸上部なのかもしれない。自主連だろうか。少なくとも、それ以外に手掛かりのない僕にとっては、頼ってみるにはいいチャンスだ。ダイエットのため、と自分に説明をつけて、周囲にしめして、万歩計を腰につけて、理論武装をして。誰に対して、というわけではないけど、ただそのためだけに早起きをして走り始めるのは、なんとなく気恥ずかしい。
 軽く屈伸運動をする。つられる呼気がほんのりと白く染まる。何をしてるんだろう、と思う。眠い。それから、こんなことをしてもどうにもならないんじゃないだろうか、と少し自虐的になる。可能性なんて何もないのだ。僕がすがっているのは、藁だ。
けれど、そんな陰鬱とした気分も、体をほぐすにしたがってほぐれていく。最後に両手を空に突き出して、準備運動を終える。走るどころか、体を動かすことさえ久しぶりだ。全身の感覚を確かめながら足をゆっくりと前に運ぶ。
 まだ日があけきっていない。静かだ。眠気が、僕の頭の中で暴れまわる。けど、それに反して頭が澄み切っていて、全身が感覚器になったかのような気分。遠くから犬の吠える声と自転車の音。かすかに聞こえる排気音。ななめから照りつける日差し。路面に咲いた緑色の草花、アスファルトを覆う力強いタンポポ。
早起きは三文の徳、三文にしかならないなら早く起きる意味はないけど、今のこの気分を感じるためになら悪くはないかもしれない。
 右、左、右。
 吸って、吸って、吐いて。
 リズムを整え、呼吸を、テンポを、続けて、できるだけ苦しくないように、無理をしないように。
 交差点。足踏みをする。せっかくのリズムを崩さないように。右、左、右。息を吸って、吸って、吐いた。
 車が止まる。いぶかしむ視線とぶつかる。苦笑いのような微妙な笑顔を向ける。車が過ぎる。うしろに排気ガスを残す。黒く濁った溜息。
そして、さあ、走り始めよう。信号はまだ赤い。早く。足踏みをしながら、その瞬間を待つ。青になったのを見計らって、全力で交差点を渡りきる。何に勝ったとか、そういうわけじゃないけど、なんとは言えない満足感を手に入れて、僕は後ろを振り返った。
 信号は青。
 そこに、彼女が立っていた。

act3
「どうしたらいい」
「なにが? 」
 机の上にカバンを置く。
「疲れた」
「なにが」
「ハンガーノッキングって知ってる? 」
「知らない」
「なにも食べずにさ、走り続けたりすると、意識はあるのに体が言うことをきかなくなるらしいんだ」
 興味のなさそうな山田を尻目に、僕は説明を続ける。
「それで? 」
「大変だよね」
「大変だな。遅刻するなんて、珍しい」
 なれないことをするもんじゃない、と思った。
 あのあと僕は家に帰り、慣れない早起きと全力疾走の結果から午前中の授業を寝とばす、という快挙をなしとげた。
「今日は太陽がまぶしかった」
 午後の授業の宿題をやりながら、僕は答える。
「今日はくもりだぞ」
 背中から、情緒を解さない山田の声が聞こえた。

act4
 手伝ってくれ、と言われたのは驚いた。山田は馬鹿だし、人のどんな話も真剣に聞いてくれるのが唯一のいいところではあるものの、基本的には一匹狼で、他人を頼らない人間だと思っていたからだ。
 山田は制服のエリを正して、校門の前に立っていた。
 気のせいか、ワックスなんかもつけて、姿勢も正して、いつもの超然とした態度からはうかがえない、浮ついた印象を受ける。
「なあ」
「静かに」
「聞きたいことはいっぱいあるんだけど」
「今一斉に出てくる。そうしたら、お前はとりあえずめぼしい子に声をかけるんだ」
「でもさぁ、ここ」
 私立○○小学校、と書かれたプレートを見つめる。
 小学校だよ、という言葉をの見下して、溜息。
「いいか、妹の友達の友達ぐらいで、直接的な面識がなさそうな子を探すんだ。妹に見つかるとまずい。うちの妹は、お前の顔を知らないから聞き込むのはちょうどいい」
「まだ仲直りしてなかったのか」
 でもその方法はなんだか間違った気がするが。
「あ、来た」
 彼は颯爽と駆け出し(こんな時じゃなければ見ほれるぐらいに格好がよかった)、一人目に声をかけ、次の瞬間守衛さんに両脇を固められた。
 今に見てろよ、と彼は悪役さながらの名台詞を残し、気がつけば風になっていた。
「なにやってるんだろ」
 むなしくなり、ばかばかしくなり、校舎に設置されてる時計を見るともう夕方近い。帰ろう、と周囲を見渡し私立○○学園に背中を向ける。いくばくかのスリルをありがとう。とてとてと、スローテンポで歩く俺の前を、ふと車が横切った。そこに乗っていたのはまぎれもなく彼女だった。車は学校から出てきた黄色い帽子をかぶった子供を乗せると、彼と同じようにその場からかき消えた。見間違えだったろうか、と思うくらいの一瞬のできごと。

act5
「どういうことだと思う? 」
「知らん。家族だったんだろう。妹でも居たんじゃないのか」
 山田は外を見ながら答えた。やせがまんをしているが、顔面に残る青タンが痛々しい。
「それよりお前、昨日はどうしてフォローしてくれなかったんだよ」
「フォローのしようなんてないだろ」
「『関係者です』って言ってくれればよかったのに」
「お前と関係者に見られるのが嫌だった」
 このさいだから、はっきり言っておいた。
 別に山田Aが誰を好きになろうと、法的に何をしようと問題はないけど、こちらに迷惑がかかるのは勘弁してほしい。それを彼も理解しているのか、反論するでもなく、手に顎をついたまま外をながめていた。
「お前、まだ走ってるん? 」
「一応」
「やせたいわけでもないのに? 」
「別に、ダイエットしようと思ってるわけじゃないし」
「その人に会えるわけでもないのに? 」
そう、そのとおりだ。けれど――。
act6
 息を吸って、吐く。呼吸を整える。
 深呼吸。屈伸。アキレス腱を伸ばす。全身を伸ばす。

会えるわけでもない。そのとおりだ。
可能性なんてほとんどない。けれど走ってる。
理由はわかってる。
けれど、残念だ。くやしい。自分がそんな単純な人間だとは思っていなかった。認めたくない。
けれど走り続けるのは、ごく、簡単な理由。
楽しい。
少しずつ、遠くまで走れるようになることが。
わずかながら、時間が短くなっていくのが。
息が切れない。
足がもたつかないのが。
視野が広がる。同じ道を走っても、一週間前と今じゃ、全然違ったものが見える。
それが、すごく楽しい。ひどくうれしい。
だから、会えるかどうかなんて、そんなことはいまさらどうでもよかった。
今日も日課となった、その一歩を先に踏み出す。

 できなかったことができるようになることはうれしい。
 子供のころはそうだったはずだ。結局、今もあまり変わらないのかもしれない。
 前へ走る。
 一歩ずつ。
 右。
 左。
 右。
 息を、
 吸って、
 吸って、
 吐く。
 疲れないように。無理をしないように。確実に。途切れないように、途絶えないように、切実に。
 朝が明け始める。
 遠くから聞こえる、犬の吠える声。
 新聞配達のバイクが走る音。
 排気音。
 信号機。
 交差点で立ち止まり、息を整える。
 ふと気になって、僕はポケットから万歩計を取り出した。
 39800という数字が、表示されてる。
 ポケットにしまう。
 交差点の向こうに、彼女が居た。
 39800。
 僕は笑った。挨拶をしてみようかどうか、考える。
 僕は笑った。それが意味のないことだとしても。
 僕は笑った。だから、まず、最初にすべきことは。
 足を一歩前に出す。話しかけてみようと思った。何を言うべきかは、まだ思いつかない。どうなるかもわからない。けれど僕はまだ走り始めていない。何も始まっていない。おはようございます。それでもいいじゃないか。きっとまた、39800走った後に会えるだろうから。
 雲が割れる。
 空が見える。日がさし、ほんの少しばかりの奇蹟を醸し出す。
 きっと今日はいい天気だ、と思った。太陽がまぶしい。空が青い。


――おはようございます。
――今日も、いい天気ですね。
まず、最初に一歩を踏み出した。














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