梅雨先案内人
散々な気分だった。
厄日、泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目、踏んだり蹴ったり、思い浮かぶだけの今の自分の状況を説明する言葉を思い浮かべながら一樹は早足で帰路についていた。
こんな日は家に篭って何もしないのが一番いい。これが一樹が早足になっている理由の一つだ。重苦しい曇天から小雨が降り始めたのも理由の一つ。でも一番の理由は、早く学校から、いや、二人のクラスメイトから遠ざかりたいという思いに急きたてられているからだ。
(一)
思い返せば朝からついてない。起きた瞬間から偏頭痛に襲われた。それが災難の始まりだ。
厄介な偏頭痛持ちの一樹は常に鎮痛剤を持ち歩いている。しかしその日に限って、目覚めからその鎮痛剤を使う事になったので、鞄から出したまま忘れて登校してしまった。それに気付いたのが昼食の後。偏頭痛再発の予兆、耳鳴りと閃輝暗点に襲われた一樹は、鎮痛剤を探した。勿論鞄には入っていない。部屋に置いてきてしまったからだ。諦めて五限の体育を受けた。途中、本格的に頭が痛くなってきた。偏頭痛は身体を動かす事で悪化するのだ。その痛みに気を取られてバスケットボールのパスを取り損ねた。大袈裟に転んだ。膝を擦り剥いた。パスを投げて寄越した田宮に付き添われて保健室に行った。
ここからが本日最大最悪の災難だ。
……一瞬、何が起こったのか分からなかった。派手に椅子から転げ落ちたのだと気付いた時には、田宮に口付けられていた。全く意味が分からない。頭痛は酷くなる一方だ。
生憎、保健医は出張中で保健室は閉まっていた。どうせ大した傷じゃ無い。一樹は諦めて体育館へ戻ろうとした。それを「ロッカーに絆創膏ならある」と言って田宮は半ば強引に一樹を教室まで連れて来た。田宮は自分が投げたパスのせいで、俺が転んだと思って責任を感じてるんだろう、一樹はそう思って大人しく田宮に手当てを任せた。手当ての途中、田宮に顔色が悪いと言われた。一樹は少し頭痛がするだけだ、と答えた。そのすぐ後だ。田宮の手がジャージの中に入ってきたのは。下半身を直に触られて、一樹は反射的に身を引いた。バランスを崩して椅子から転げ落ちた。
そして、今、田宮に唇を被せられている。何故こんな状況になったのか、全く意味が分からない。一樹は理解しがたいこの状況に、混乱するよりまず呆然とした。つまりは固まってしまったのだ。だから抵抗が遅れた。本能的にヤバいと思って抵抗した時には、すでに田宮に組み敷かれてジャージも下着も膝まで脱がされていた。
「な、どこ触ってンだよっ! 離せッ」
肘で田宮の体を押し離そうとするが、田宮の方はビクともしない。背は然程変わらないが、スポーツをしている田宮と何もしていない一樹とでは、腕力にかなりの差があった。しかも急所を握られてしまっては、思うように身体を動かせない。
「ふざけんなよ! 何でこんな事、」
一樹はせめて言葉で反抗しようとしたが、それも思うようにいかない。露骨で性急な田宮の手の動きに、無意識のうちに呼吸が乱れてしまう。
「頭痛って抜いたら治るんだぜ」
出し抜けに田宮が言った。一樹が訝しげな視線を送っても、田宮は余裕の顔で話し続ける。
「マジだって。俺もしょっちゅう頭痛くなったりするけどさ、抜いたらスッキリするんだぜ」
「ンなわけねーだろ!」
呆れて一樹は怒鳴った。第一、田宮の言う通りの方法で頭痛が治るのだとしても、田宮にしてもらうつもりは毛頭ない。はっきり言って有難迷惑だ。
「急に叫ぶなよ。人が来るだろ」
田宮は口ではそう言いながらも、平然と手を動かし続けている。気持ちとは裏腹に自分の体がそれに流されている事に気付いて、一樹はいよいよ焦った。
「止せよ。マジで笑えないって、」
「別に笑いをとるつもりはないし」
「誰か、来たら」
「じゃあ早く出せよ」
「バカな事、言う、な」
一樹の言葉は途切れがちになる。会話も微妙に噛み合わない。諦めてさっさと終わらせてしまった方が賢明な気さえしてくる。それくらい一樹の限界は近かった。
「……何してんだよ」
ギリギリで堪えていた所に、不意に田宮とは違う声がして、一樹は驚いた拍子に達してしまった。束の間の解放感の後、強烈な羞恥心に襲われる。声の主は藤岡だった。田宮だけならまだしも、クラスメイトの中では一番仲の良い藤岡にまで情けない姿を晒してしまったのだ。一樹は俯いたまま顔をあげられなかった。
「……藤岡!? 何で?」
先に言葉を発したのは田宮だった。教室の扉の前で立ち尽くしている藤岡を見て、田宮は明らかに狼狽えている。
「やけに戻ってくるのが遅いから、様子を見に来たんだよ。邪魔して悪かったな」
藤岡は棘のある言い方をして、教室を出て行こうとする。
「待って! 誤解だ!」
一樹は慌てて藤岡を引きとめた。変な勘違いをされたままじゃたまらない。確かに藤岡が勘違いするのも仕方のない状況だが、こっちは全くの被害者だ。
「言い訳なんて聞きたくないね」
藤岡はそう言い捨てて教室を出て行った。一歩遅れて田宮がそれを追う。一樹は一人その場に残された。もう弁解をしようという気分ではなくなっていた。去り際、藤岡に向けられた視線は、軽蔑や嫌悪とは違う、もっと別の苛立ちを含んだそれだったからだ。
……案の定、しばらくして隣の空き教室から聞こえてきた二人の話し声は、単なる痴話喧嘩だ。会話の内容までは聞き取れないが、田宮の声のトーンは浮気を問い詰められる男よろしくしどろもどろなものだ。
一樹は散々な気分で、着替えを済ませ逃げるように教室を後にした。とんだ災難だ。
(二)
雨脚は次第に激しくなってきた。一樹は出来るだけ何も考えないように、足を動かす事だけに集中した。雨に打たれていると、田宮に対する苛立ちよりも自分の悲惨さばかりを感じてしまう。殆ど競歩のように歩き続けているから呼吸が乱れる。濡れた服が体に張り付いて余計に体力を奪う。遠のいていたはずの頭痛が再発するのを感じた。早まった脈に合わせて後頭部がジンジンと痛みを主張しはじめる。
(抜いたら治るなんて、大嘘じゃないか!)
一樹は心の中で毒吐いて、苛立ちのような羞恥心のようなぐちゃぐちゃな感情を振り切ろうと躍起になっていた。周りの景色なんて見る余裕もない。がむしゃらに歩いていたのだ。だから角を折れた所で急に腕を掴まれた時、前のめりになって転びそうになった。
「大丈夫ですか?」
頭上から聞き覚えのない声が降ってくる。一樹は半ば睨みつけるように、腕を掴んできた人物を見上げた。全く見覚えのない男が睨まれた事に怯む様子もなく微笑している。
……妙な男だ。いくら雨続きで肌寒い日が多いとはいえ、六月も終りに差し掛かったこの時期にはどう見ても不自然な外套を羽織っている。それも色褪せてセピア地味た黒のロングコートだ。皺一つない濃紺のスーツの上にくたびれた外套を着込んだ美形の男。
「何か用ですか?」
一樹はその男の異様な雰囲気に一瞬戸惑った後、訝しげに訊いた。どうせこの男も災難の一つに違いない。警戒心から男の手を振り払う。男は一樹の態度に苦笑して、
「すみません、ちょっとそこまで傘に入れて戴けませんか?」
と言った。男は古書店の軒下で雨宿りをしていたのだろう。長めの前髪が雨垂れで少し湿っている。一樹の腕を掴んだ左手も少し濡れていた。それ以外は特に濡れていない。一樹はまじまじと妙な男を観察した後で、端整な顔をまた睨みつけた。
「見て分かりませんか? 俺、傘持ってないんで」
一樹は苦々しく吐き捨てて、そのまま雨の中歩き出した。男は追ってくる様子はない。平然と微笑を浮かべて軒下に立っている。一樹はその事に少し安堵して、それから苛々した。あの男のせいで、傘を忘れてきた理由まで思い出してしまったからだ。
傘は学校に忘れてきた。気圧の影響からなのか一樹が偏頭痛になるのは大抵雨の降る前だ。だから今日はきちんと傘を持って登校した。それなのに田宮達のせいで、逃げるように校舎を飛び出したから結局雨に打たれる羽目になった。とことんついていない事が重なる日だ。重なるというよりも、点と点を結ぶように災難が災難を呼んでいる。
あの男にしたって、びしょ濡れの人間を掴まえて傘に入れてくれなんて、どうかしている。関わらない方が賢明だ。
(三)
家に戻るなり電話が鳴った。重い体を引き摺りながら受話器を取る。気の短い担任が電話口で小言を云い始める。頭が痛かったので、とウンザリしながら一樹が弁解すると、早退届も出せない程か、と嫌味で返された。生徒の体調を気遣うポーズすらとろうとしない担任に半ば呆れながら、一樹はくどくどしい説教を聞き流した。そんな一樹の態度が気に食わなかったらしい。担任は、明日職員室に来い、と凄んで電話を切った。本当に踏んだり蹴ったりな一日だ。いや、災難は今日で綺麗さっぱり終わるわけではない。現に明日、口煩い担任に呼び出される羽目になったし、田宮や藤岡とも会わなくてはならない。考えただけでも気が重くなる。
濡れた制服のまま、一樹はとりあえず鎮痛剤を飲んだ。だが薬は一向に効く気配はない。偏頭痛というよりも、今日の事と明日からの事を考えただけで、充分に頭が痛い。一樹は先の事を思いやって途方に暮れた。そして何故か不意に、先程会った妙な男の事が頭に浮かんだ。そして急に、あの男を振り切って家に帰って来た事がとんでもないような過失のような気がしてきたのだ。莫迦げた考えかもしれないが、今日一日、災難が災難を呼んで散々な目に遭ったのなら、あの男に声をかけられた事よりも、傘を忘れて、あの男の申し出を断った事が災難なのかもしれない。
そう思いつくと今度はそれを確かめなければいけない気がしてきた。好奇心、というよりは自暴自棄に近い。どうせ部屋に閉じこもっていても、嫌な事ばかり思い出してしまうのだ。一樹は自分の思いつきを内心自嘲しながら、傘一つだけを持って家を飛び出した。
雨は叩きつけるような激しさに変わっていた。視界は傘を滑り落ちる雫で白くぼやける。家にある中では一番大きな父親の傘を持ち出して良かった。一樹は年季の入った黒の蝙蝠傘を握り締めて、水溜りに足をとられないよう慎重に歩いた。
「いつもはこの店の主人に傘を借りているんですけど、水曜日が定休日だという事をすっかり忘れていました」
男はまるで一樹が戻ってくる事が分かっていたかのように微笑んで、そんな事を言った。
「……この店は大分前に潰れてますよ」
一樹はあえて古書店が閉店に至った経緯は伏せた。古書店は三年前に閉店し、閉め切った雨戸に浮かぶ(水月堂)の店名も今では殆ど剥げかけている。
「おや、そうでしたか」
男は特に驚く素振りも見せず水月堂を振り返った。仕草がいちいち胡散臭い。やけに整った容姿と緩慢な所作がそれを増幅させているのだ。一樹が不審気に見上げてきている事に気付いたのか、男はまた笑みを浮かべて
「私も小さな店をやってるんですけどね、水月堂っていう名前なんです。同じ店名のよしみで、此処の主人には色々と世話になりました。その水月堂ですけれどね、私の店の方の。其処へ行く途中に雨に降られてしまって。出来れば其処まで君の傘に入れていただけませんか?」
と言う。一樹もそのつもりで此処へ戻って来たのだが、いざそうなると警戒心が強まってきた。生まれ育ってきた場所だから、この辺りの地理は大抵把握している。それなのに水月堂という店はこの古書店以外に知らないからだ。
「何処にあるんですか? その店」
「この店の裏手に入ったところなんです。たいした距離ではないですけど、これを濡らすわけにはいかないので」
男はそう言って外套の内ポケットから小さな和紙の包みを取り出した。手の平大の薄い包みだ。薄紫の光沢を帯びたそれは、不思議な花の香が洩れている。
「傘は私が持つので、これを預かってもらえますか?」
「え? でも大事な物なんじゃ」
「いえ、ただの商品ですよ」
戸惑う一樹を他所に、半ば強引に男はその包みを押し付けてきた。男は濡らすわけにはいかないと言った癖に、濡れた制服のままで、未だに髪からも雫が滴っている程に雨に打たれた名残のある一樹にそれを預けて平気な顔だ。ついでにはっきりと承諾した覚えもないのに、いつの間にか水月堂まで男を送っていく流れになってしまっている。仕方なく一樹は男に傘を渡して相傘する羽目になった。
(四)
「濡れませんでしたか?」
「大丈夫です」
目的の場所は本当に古書店から目と鼻の先にあった。と、いうよりも、古書店の裏手のマンションの一室が、男の言う(水月堂)らしい。マンションのエントランスにある郵便受け、その511号室の所に小さく(水月堂)と書かれた札が掛けてあった。いかにも胡散臭そうな店だ。いや、本当に店なのかどうかも怪しい。
「上がっていきませんか?」
男は傘を閉じながら微笑んだ。一樹は慌てて首を振る。
「いえ、俺は此処で」
一樹は預かっていた包みを男の手に押し付けて、踵を返した。ほんの少しだけ興味はあった。だが、あまり深入りするべきではない、と一樹は本能的に思ったのだ。
……が、身を翻した瞬間、一樹は盛大に転んだ。
「……君はよく転ぶ人ですね。タイル張りの床は濡れると滑るので気をつけないと」
苦笑しながら男は抱きかかえる形で一樹を立たせた。やっぱり今日は災難日だ。一樹は心の中で苦々しく呟く。
「怪我、しませんでしたか?」
「大丈夫です」
今度こそ、とっとと家に帰ろう。一樹がそう意気込んだ所で、男に腕を掴まれた。
「何ですか?」
「送っていただいたお礼です」
男は笑って先刻まで一樹に預けていた和紙の包みを、一樹の制服の胸ポケットへと入れてきた。
「いらないです」
一樹はきっぱりと言って、それを男に押し返す。男は困ったように笑って、それを受け取らずに一樹の額に手を当ててきた。反射的に一樹は身を固くする。男は一樹のその反応にまた苦笑する。
「君、此処に雨水晶の欠片が入っていますね。雨の日は大変でしょう?」
……急に何を言い出すんだ、この男は。一樹は呆れて返答に詰まった。もしかしたら春から夏にかけてしばしば出没する類の者なのかもしれない。冷静に考えてみれば、この時期に外套を着込んでいる時点で、充分にその可能性は高い。一樹はいよいよ身の危険を感じてきた。そういうタイプの人間は、下手な対応をして逆上されると手に負えないというくらいの知識は一樹にもある。どうやってこの場を上手くやり過ごそうか、一樹が考えを巡らせている隙に、男に唇を被せられた。抵抗する暇もない程の短いキスだ。ポカンとしている一樹を見遣って、男は笑いながら舌を出した。舌先に紫色の小さな結晶がある。
「ほら、これ。雨の日は紫に変わるんです。普段は澄んだ青色なんですよ」
男は結晶を指先に載せて、一樹に見せてきた。コンタクトレンズのような楕円形の薄い結晶だ。
「こんなに濃い紫色は初めて見ます。これじゃあ雨の日は大変でしょう」
急にそんな事を言われても困る。一樹は眼の前の男の言動のどれから突っ込めばばいいのか対応しかねて軽い眩暈を覚えた。この軽い眩暈が洒落にならなかった。一樹は男の異常な言動に気をとられて、自らの体の異変に気付くのに遅れた。ものの譬えではなく、本当の眩暈に襲われていたのだ。視界は歪みはじめて、歪む端から白く霞んでくる。一樹は急激に意識が遠のいていくのを感じた。体は力が抜けてしまって、自分のものではないように上手く動かせない。膝から崩れそうになるのを、男が支えてきた。
「少し、店で休んでいって下さい」
男の口振りは、一樹がこうなるのが判りきっていたらしい落ち着いたものだった。霞んでいく意識の中で、この体の異変は口付けられた時に変な薬でも飲まされたんじゃないか、とか、これから自分はどうなるんだろう、やっぱり家で大人しくしておけば良かった、とか、一樹はとりとめもなく考えた。でも、体は男に抱えられたまま、少しも動かないし、意識は深い眠りに飲み込まれていくように、抗う術もなく途切れてゆく。後悔したところで後の祭りだ。エレベーターを降りた所で一樹は気を失ってしまった。
(五)
一樹は意識が戻った時、まず見慣れた天井が目に入った。遅れて自分の部屋のベッドで寝ているのだと気付く。制服のままだ。机の上は、昨日鎮痛剤を飲んだままになっている。もう頭痛はない。時計を見ると朝の八時。HRには間に合いそうもない。一樹はのろのろと起き上がりながら、あの男との出来事は夢だったのだと結論づけた。きっと学校から帰ってきて、飲んだ薬の副作用でそのまま眠ってしまったのだろう。学校の帰りに妙な男に声をかけられたから、あんな変な夢を見てしまったのだ。本当に昨日は散々な日だった。一樹は溜め息を吐いて、部屋の隅に投げ捨てるように放置してあった鞄を手に取った。中には田宮のせいで汚れてしまった体育着がぐちゃぐちゃに突っ込んである。……こっちも夢だったら良かったのに。一樹は独りごちて、それを洗濯機に放り込んだ。母親が出張中だったのは不幸中の幸いだ。こんなものを見られたら、言い訳の仕様がない。一樹の母は一人息子に対して目敏い上に厳しい。それは三年前に父を亡くしてから余計に酷くなっている。その一樹に過干渉気味な母が、今日の昼過ぎには帰って来る。だから学校をズル休みするわけにはいかない。仮病を使っても母にはすぐに見破られてしまうだろう。
一樹は観念して憂鬱な気持ちのまま、シャワーを済ませた。そして皺だらけになった制服のズボンにアイロンをあてる際、もう一つ大きな憂鬱の種を見つけてしまった。
「……夢じゃなかったのかよ」
思わずそう呟いていた。ズボンのポケットに、あの和紙の包みが入っていたのだ。おそるおそるそれを開くと、中に一枚、短冊のような樹脂製の栞のようなものが入っている。乳白色の地に浮かび上がるように葵の花が描かれていた。花弁は薄い銀色で縁取られ、濃い紫に染められている。不思議な香りはこの花から発せられているらしい。一樹はそれを元通りに包み直して鞄に入れた。気を失った後、一体何があったのか、知る由もない。体には特に異常は見当たらない。むしろ、ここ最近続いていた頭痛もなく、普段よりも体が軽くなった気さえする。ただ、一樹はそれが逆に薄気味悪く感じられた。
本当に夢じゃ無かったのだとしたら、どうやって家まで帰ってきたのだろう。一樹には全く覚えが無い。自分の住所が判るものなどは身につけていなかったはずだ。どうにかして自力で帰ってきたはずなのだ。そうでなければ、あの男が一樹を送り届けたのだとしたら、男は初めから一樹の住んでいる所も一樹の部屋も知っていた事になる。一樹は考えてみてゾッとした。
それを確かめるために一樹は慌てて玄関まで走った。玄関のドアは施錠されていた。自分で鍵を掛けたと思いたいが、肝心の鍵がどこにも見当たらない。それに昨日持ち出した父の傘も無い。両方ともあの男が持っているのかもしれない。一樹は唇を噛んだ。
(六)
一樹は既に困惑していた。それなのに教室に着くなり、その困惑にさらに拍車をかけられた。
一樹はあの男の所へ向かうつもりでいたのだ。水月堂へ行って、鍵と傘を返してもらう。そして昨日自分が気を失ってからの事を問いただす。そのつもりだった。そこへあの嫌味な担任から電話がかかってきた。一樹は渋々学校へ向かう羽目になったのである。足取りは重かった。投げやりな気持ちで一樹は「昨日の事が全部無かった事になればいいのに」と呟いた。
職員室で担任に嫌という程遅刻の説教を受け、一樹はおずおずと教室へと向かった。説教は殆ど上の空だ。それでも教室で藤岡と顔を合わせなければならない事を考えると、説教が長引けばいいのにと思ってしまう。田宮の事はシカトしようと決めていた。
「珍しいな、遅刻なんて。寝坊?」
教室に入るなり、田宮はあっけらかんとした様子で声をかけてきた。一樹は無神経な田宮に半ば呆れながらも無視して席につく。が、田宮はともかく藤岡まで普通に声をかけてきて、一樹は戸惑った。
「次、予習してきた?」
「え?」
「一樹、次の数学当てられてたじゃん。してねえの? ノート貸そうか?」
まるで昨日の出来事など無かったかのように接してくるのである。一樹は訝しげに藤岡を見上げた。去り際に睨みつけてきた藤岡の瞳は見る影もない。あの後、田宮の弁解で誤解がとけたのだろうか、それで被害者だった自分に藤岡なりに気を遣っているのだろうか? ……いや、この違和感の正体はそれだけではない。
「次って現国じゃないの? それに俺、昨日数学当たったし」
「は? 三限が現国なのは明日だろ。それにお前は昨日当てられてねえよ」
藤岡は困惑したような呆れたような声を出す。腑に落ちないまま始業のチャイムが鳴った。
一樹は混乱した。日付も時間割も昨日のままなのだ。やっぱり夢だったのかと思いなおそうとしても、納得がいかない。授業の内容も、昨日と全く同じで、同じ問題を当てられた。段々と頭が痛みはじめる。これも昨日と同じだ。落ち着かない気持ちのまま午前の授業を終えて、一樹は保健室へと向かった。体育着は洗濯中だから、午後の体育はサボる事に決めた。保健室に行ってみると、昨日(といっていいのかはわからないが)見たとおりの張り紙がしてあった。一樹は一つの確信を得て、そのまま教室へと戻った。
「あれ? 帰んの?」
背後から田宮の声がして、思わず一樹は体を強張らせた。
「うん、ちょっと家の都合で」
一樹は言葉を濁した。ここで早退の理由を頭痛のせいにしたら、きっとロクな事にはならない。
「家の都合って、何かあったのか?」
「大した事じゃないけど。田宮こそ何で此処に居るんだよ、もう予鈴鳴っただろ」
「お前に話があるんだよ」
「俺は、ない」
嫌な予感がして一樹ははっきりと拒絶したが、逃げようとした矢先、田宮に腕を掴まれた。
「お前、今日変だぞ。朝もシカトしてくるし」
「離せ、」
力では到底敵わない。かといって、強引な田宮のペースにはまるわけにはいかない。昨日の二の舞だ。一樹は咄嗟に藤岡の名前を叫んだ。
「やっぱり藤岡の事が好きなんだ?」
田宮は急に力を緩めて自嘲気味に笑う。一樹は意味がわからないまま戸惑いがちに問い返した。
「田宮こそ、藤岡と付き合ってるんだろ?」
「何それ、藤岡がそう言ったのか?」
「そうじゃなくて」
昨日の出来事は無かった事になっている。一樹はどう説明していいのか言葉に詰まった。
「藤岡とは付き合ってない。昨日告られたけど断った。俺が好きなのは一樹だから」
突然の田宮の告白に固まってしまった一樹に、触れるだけのキスをして田宮は教室を出て行った。へこめばいいのか怒ればいいのか分からない、急に打ち明けられた真実に複雑な思いのまま一樹は学校を後にした。
(七)
散々だ、と思い切り嘆いていた昨日とは違う。が、田宮に告白された事も現実味がない。妙な事が重なったせいか、何が現実なのかはっきりと自信が持てない。とにかくそれを確かめるために、一樹は曇天の下鈍る足取りを水月堂へと向けている。分厚い雲から小さな雨粒が零れ始めた。傘は持っていない。忘れていた頭痛も痛みを主張しはじめた。取り巻く環境は昨日と全く同じ。違うのは、遅刻をした事と体育をサボった事、田宮に告白された事だ。でも何故か、あんな目に遭った昨日よりも、今の方が一樹のショックは大きかった。
そしてその感情に説明をつける前に、水月堂に着いてしまった。
「すみません、そこまで傘に入れていただけませんか?」
寂れた古書店の軒先に、男は昨日と全く同じ格好で立っていた。話しかけられる前に立ち止まった一樹に、微笑を浮かべて昨日と同じ台詞を言う。
「どういう事なんですか?」
一樹は笑ったままの男を睨みあげて問い詰めた。男は怯む様子もなく、笑みを浮かべたままだ。
「あんたは、一体何者なんだ」
一樹は語気を強めた。
「仕方のない人ですね。昨日せっかく治したのに、無かった事にするんですから」
一樹の質問には答えずに、男は呆れたように呟いた。内ポケットから和紙の包みを取り出して、一樹に手渡してくる。
「傘はいいので、水月堂まで来てもらえますか?」
一樹は黙って包みを受け取って、先に歩き出した男の後を追った。
「どういう事なんですか?」
一樹は男の後について水月堂に入ったところで、もう一度訊ねた。
「何が知りたいんです?」
男は雨に濡れた一樹に半巾を渡しながら問い返してくる。
「此処、本当に店なんですか?」
一樹は不審気に室内を見渡して、そう言った。玄関のドアには確かに(水月堂)と書かれた銀盤のプレートがあった。だが、いざ中に入ってみると商品らしきものも無ければカウンターもない何の変哲もない只のマンションの一室だったのだ。とはいえ生活感の全く感じられない部屋の様子を見る限り、この男の住処という風にも見えない。通された部屋には、磨き上げられた硝子のテーブルと濃紺の天鵞絨のソファが置かれているだけだ。装飾品の類は勿論、時計すらない。
「いえ、あれは嘘ですから」
「は?」
「水月堂という店をやっていると言えば、君が興味本位でついてくるかと思って」
男は悪びれるでもなく言ってのける。一樹は絶句した。
「そう怒らないで下さい。話せば長くなるので、そこへ座って」
一樹は怒鳴り出したいのを堪えて、言われるままソファに腰を下ろした。男も隣に座って話し始める。
「先程渡した包み、開けてみて下さい」
言われた通りに和紙の包みを開くと、今朝見たものと同じ栞が入っている。朝のものと違うのは、薄い銀線で縁取られた葵の花弁の色が薄い青色だということくらいだ。
「これは梅雨葵です」
男は栞の花を指差して言う。
「まだ色が薄いでしょう? 一晩経てば濃い紫に変わりますよ」
「何なんですか? これ」
「見ての通り栞ですけどね。昨日、雨水晶を取り出したのは覚えてますか?」
一樹は少し赤くなって頷いた。男はそれを見て小さく笑う。
「人の体内には何かしら欠片が入っていて、君は雨水晶を持っているんですけれど、雨水晶は梅雨時期になると稀に変色して不具合を起こすんです。君、昨日は災難続きだったでしょう?」
一樹はもう一度頷いた。
「水晶が不具合を起こしてしまうと、体調がおかしくなったり、災いに巻き込まれて道筋が狂ったりします。それを治すのが私の仕事なんです。この栞を持っていれば、大体一晩で雨水晶の色が栞の花に移って、変色は治るんです。本来なら、何か理由をつけて栞を渡せば良いんですけど、君は受け取ってくれなかったので少し手荒な事をしてしまいました」
「手荒な事って、」
「あぁ、直接雨水晶を取り出す事ですよ。欠片を抜いてしまえば、意識を失くしてしまいますから。君の水晶は、直接栞に当てて治させてもらいました。君が心配しているような事はしていませんよ」
男は一樹の心を見透かしたように言って笑う。一樹はまた赤くなってしまった。
「でも、それじゃあ何で昨日の事が無かったみたいになってるんですか?」
「それは君が望んだからでしょう?」
「そう、ですけど……」
納得がいかない顔をした一樹に男は苦笑して、困りましたね、と呟く。
「この栞、望みを一つだけ叶える力があるんですよね。叶えると言っても、花の色に比例してその力も変わるので、雨水晶の不具合で起きた災難の度合いによって叶えられる望みも違ってくるのですが。大抵、病気になった人は快復を望みますし、恋人と別れた人は復縁や出会いを望んだりするものなんですが、君の場合、一日を無かった事にしてしまいましたからね。折角治した雨水晶も昨日の状態に戻ってしまったんです」
「それじゃあ……」
「また災難に遭ってしまいますね。このままだと」
「また治してもらえないんですか?」
一樹は不安気に男を見上げた。男は相変わらず微笑を浮かべたままだ。
「原則、栞は一人一枚と決まっているんです。栞に望みを叶える力があると知ったら、悪用しようとする人も出てきますからね。それに雨水晶の不具合も一生に一度あるかないかの事ですし。君は一度栞を使ってしまいましたから、もう一度栞を渡すとなると代償をいただかなければならないんです」
「……代償ってどんなものを?」
一樹は戸惑いがちに訊いた刹那、ソファの上に倒されていた。呆気にとられて男を見上げると、男は一樹の胸に手を当てて言う。
「君は今、望みがありますか? あ、口に出さなくて結構ですよ。私が今から君にする事に対して、望みの代償として釣り合わないと思ったら拒絶して下さい」
一樹が言葉を返すより先に、一樹の口は男の唇に塞がれていた。
(八)
……代償ってこういう事かよ、唇を被せられて呼吸を乱されながら一樹は心の中で呟いた。呟いただけで、組み伏せられた事に困惑しながらも抵抗出来ずにいる。男の手は一樹を試すようにゆっくりと雨に濡れて肌に張り付くシャツを脱がしてゆく。田宮にされた時のような強引さが無い分、一樹には少し余裕があったのだ。教室でクラスメイトに押し倒される状況に比べれば、とも思ってしまう。相手が普通の人間ではないと感じるから、生々しさや現実味が薄れてしまっているのかもしれない。一樹は不思議と何の恐怖感も抱かなかった。男の容姿が生理的な嫌悪を感じさせない程整っているからかもしれない。
自分よりも体温の低い男の手の平が脇腹を撫でて腰骨を指で辿る。唇はいつの間にか一樹の胸へと移っていた。反射的に体を震わせると、男は手を止めて一樹の顔を覗きこんでくる。
(まだ続けますか?)
微笑を含んだ瞳は、一樹を挑発するように問いかけてくる。一樹はいよいよ抵抗する気をそがれた。男の手はまた動き出して、下着の中へと滑り込んできた。緩やかに上がってきた熱に意識を流されそうになりながら、この男は代償という名目でいつもこんな事をやっているのかと一樹はぼんやりと考えた。
「……流石にこれ以上の事を君にするのは気が引けますね」
精を吐き出した後の浮遊感に朦朧としていた一樹は、苦笑しながら呟いた男の言葉にじわじわと現実に引き戻された。男の方は指先が一樹のもので汚れている以外、何一つ乱れたところはない。その事が急に恥かしくなって、一樹は慌てて体を起こした。
「約束通り、この栞は差し上げます。それと一応、聞かせて下さい。君の望みは何なんですか?」
肌蹴た一樹の制服を整えて胸ポケットに栞を入れた後、男は困ったように笑う。
望みを問われて一樹は動揺した。男に組み敷かれている間、その行為が自分の「望み」の代償だという事を失念してしまっていたからだ。願い事なんて何一つ考えていない。それなのに拒む事もしなかった。一樹はそれを悟られまいと慌てて言葉を発した。
「家の鍵と傘を返して下さい」
「え? それだけですか?」
男は心底驚いた顔だ。いつもの笑みも消えている。一樹は赤面して俯いた。
「すみません。もっとすごい望みを言われるのかと思ってしまっていました」
俯いたままの一樹を宥めるように男は笑って頭を撫でる。
「でも、その望みは叶えられません。昨日の事は無かった事になってしまっているので、傘も鍵も元の場所に戻ってしまっていますから。他に何かありませんか?」
「……じゃあ、貴方の名前を教えて下さい」
一樹は照れ臭さから投げやりな言い方になる。男はまた驚いた顔をして、申し訳なさげに微笑む。
「私は梅雨先案内人ですから、名は持たないんです」
一樹は他にこれといって思い浮かぶ望みは無かった。黙り込んでしまった一樹の横で、男は窓の外を見上げて言った。
「もう雨は止みましたね。望みはゆっくり考えて下さって結構ですよ。君が栞を悪用しそうにない事は充分に分かりましたから」
次の日、一樹は朝のニュースで梅雨明けを知った。早目に家を出て、男のマンションに寄ってみたが、511号室から水月堂の文字は消えていた。しばらくして部屋から出てきたのは、あの男とは全く別人の中年の男とその娘と思われる小学生だ。一樹はそれを見届けて、ポケットから栞を取り出した。梅雨葵の花弁は夜のうちに濃い紫へと色づいた。
「また会ってもらえませんか?」
そう呟くと、花弁の紫は音も無く消えて忽ち乳白色の花弁へと戻った。その代わりに栞の裏に小さな紫色の文字が透けて見えた。
(また梅雨の季節に)。
憂鬱だった梅雨も少しは好きになれそうだ。一樹は久々に晴れ渡った雲ひとつない空を見上げた。
(了)
恒例!?の長ぃ後書き!
これゎ本当は六月の同一テーマ「雨」企画(mixiのBLコミュの企画)に参加するつもりで書き始めたものなんですケド、迷走しまくりでまとまらずにやっと今日完結出来た感じのぉ話です(;∀;)
ほんとに「迷走」って感じですょねー↓↓
書き始めゎテーマなしに軽ぃお話を書こぅってノリだったんですけど、変に絡みを入れなきゃいけなぃような衝動にかられて、意味が分からなぃ事になってしまぃましたでしゅ。
田宮との絡み正直いらなぃじゃん!伏線回収出来てないじゃん!とか色々ぁるとおもぃますが、絶賛☆スランプ中な私にゎこれが限界でした(泣)
面白くなぃのゎ書いてても分かるケド、どぅすれば面白くなるのか分からなぃ絶望的な気分で執筆。←多分プロット自体に問題がありました(汗)。
軽ぃ気持ちで読めるモノを書こぅとしたんだ!これでも!!
いちおう男性同士の絡みがあるのでBLなんですけど、ラブが足りなぃ・・・それゎ次で頑張りまふ(>д<;)
あと、ムーンの方でも『睡眠薬』(←これはちゃんとボーイズラブの予定)連載してるのでお暇な方ゎ読みに来てくだしゃい☆☆
でゎでゎ『梅雨先案内人』&無駄に長い後書き最後までお付き合ぃ下さって有難うございましたぁ♪