2 【挿絵あり】
最近の三Eはというと、以前ほどの殺伐とした雰囲気はなくなってきた。体育祭での金の力による一致団結が功を奏したようだ。
その代わりに、教室中にだらけきった、かったるい雰囲気がはびこるようになってきたのは気のせいだろうか。
子は親に似るというが、学生は担任に似るのかも……なんて思いたくもなるこの倦怠感。
そんな六月の気だるい昼休みの終わり、北都は一人気を立たせていた。
男どもが暢気におしゃべりやスマホ、ゲームや読書に興じている中、北都の発するピリピリとした空気は殺気にも近くなっている。
「鯨井、どうかしたのか?」
ふと、火狩が声をかけてきた。よほどコワイ顔になっていたのかもしれない。
「……なんでもねぇよ」
心配してくれているのかもしれないが、今の北都は話しかけられるのすら煩わしかった。
不機嫌の理由を火狩に話したところで何の解決にもならないし、微妙な顔をされるのがオチだ。
寄るな触れるな察するな──全身からそういうオーラを発して、一刻も早く学校が終わることだけを北都は祈っている。
あまりの機嫌の悪さに、火狩が肩をすくめて席に戻ろうとした、その時だった。
「なんだとてめー。もういっぺん言ってみろや」
「何度でもいってやるよ。ダッセェんだよ」
教室の中央で、二人の男が同時に席を立った。辰巳博史と土屋謙二だ。
すっかり緊張感のなくなった今の三Eの中で、この二人の険悪な雰囲気だけは以前のまま変わらない。
辰巳は派手な柄のジャージに金ネックレス、コワモテに赤い坊主頭というテンプレヤンキースタイル。学外でも肩をいからせて、周囲を威圧しながら歩いているのをよく見かける。
土屋は長めの髪をカチューシャで押さえて、どこぞのストリートスナップから飛び出てきたかのような、見事なまでのチャラ男だ。市内の女子高生を何人も引き連れて、夜遅くまで遊んでいるらしい。
周囲からの浮き具合ではどちらも同じくらい……と北都は思うのだが、二人にとっては互いが非常に目障りな存在のようだ。なぜか入学以来、この二人は犬猿の仲であった。
ケンカもいつものことである。どうせ自分が言ったところでやめないんだし、今日はとことんやらしておけ──虫の居所の悪い北都は、無視を決め込もうと思っていたのだが。
「ヤンキーなんて時代遅れだろ。モテないからってひがむなよ」
「てめーこそいっつも女連れてチャラチャラしやがって。目障りなんだよ」
「山猿よりはマシだろ」
「女みたいな顔したヤツに言われたくねぇな」
「なんだとっ」
ついにつかみ合い、拳を振り上げた二人に、北都も重い重い腰を上げざるを得なくなっていた。
「やめろっつってんだろ!」
北都は立ち上がり、二人を引き剥がそうと間に割りこんだ。妙に頭が重く感じる。
「うるせえっ!」
「あっちいけよ!」
土屋と辰巳が同時に北都の肩を押した。
二人としては、本気で突き飛ばしたつもりではなかったのかもしれない。北都も、それほど強い力で押されたとは感じなかった。だが……
思うように身体が動かない。同時に、視界がゆっくりと回りながら暗転する。
「鯨井!」
近くにいたはずの火狩の声が、妙に遠くに聞こえた。身体が何かに激しくぶつかった気もするが、痛みをあまり感じない。
暗くなる世界の中で、三Eのみんなが自分をのぞきこんでいた。火狩や甲斐、さっきまでケンカしていたはずの土屋と辰巳も、みんなの心配そうな顔がどんどん遠ざかる。
あれ……あたし、死ぬのかな?
北都が目を覚ますと、そこはお花畑──なワケはなく、見覚えのある医務室のベッドだった。白いカーテンに囲まれて、周りには誰もいない。
どうやら自分は意識を失っていたらしい。背中や身体のあちこちが痛いのは、倒れた際にぶつけたからだろう。ベッドから起き上がると、気配に気づいたのかカーテンが開いて保険医の先生が入ってきた。
「気がついたのね。頭、痛くない?」
言われて頭を軽く振ってみるが、多少重い感じがするだけで特段の痛みは感じない。
「大丈夫そうです」
「頭を打って、気を失ったってわけじゃないようね」
そうだ、思い出した。教室で辰巳と土屋のケンカを止めようとして、軽く突き飛ばされたときに倒れたのだ。
「ああ、それは……」
気を失う原因は、他に心当たりがあった。
「多分、睡眠不足と貧血です」
「貧血?」
正直に言うのは、どうにも決まりが悪いが。
「……生理中なもので」
「えっ」
思わぬところから思わぬ声がして、北都も驚いた。
カーテンの隙間から向こう側をのぞくと、そこには驚きの表情のまま固まっている火狩が立っていた。若干顔が赤くなっているようにも見える。
「いや、あの……」
その顔は……今の絶対聞かれたよな?
困惑気味にそっぽを向く火狩の頬は、明らかに真っ赤だった。
「……機嫌が悪かったのはそのせいか。気づかなくて悪かったな」
北都の顔も、みるみるうちに火を噴きそうなほど熱くなった。
「いやいやいや、そういう気遣いされるほうが恥ずかしいから! っていうか今の聞かなかったことにしてくれ!」
こうやって微妙なカオをされるから、言いたくなかったのに……その「お前も女子だったんだな」って目はやめてくれ。こっちが微妙な気分になる。
火狩に聞けば、教室で倒れた後、三Eの男どもが担架を使ってここに北都を運びこんだらしい。既に今日の授業は終了し、火狩はここまで北都の荷物を持ってきてくれていた。
「そういや辰巳と土屋は?」
「ケンカどころじゃないだろ。二人そろって五嶋先生に呼び出されたよ」
火狩の言葉に北都は目を見張った。思ったより大事になっていたらしい。
◇
その頃、五嶋教官室では。
「お前らね……」
いつもどおり机の上に足を投げ出し、気のない顔で椅子にふんぞり返る五嶋。
「元気なのはいいけどさ、鯨井にとばっちり食らわせちゃいかんでしょうが」
机の反対側には、並んでうなだれる辰巳と土屋の姿がある。授業が終わってすぐ、二人は五嶋に呼び出されていた。もちろん、お小言を頂戴するためだ。
「あれでも一応は女子なの。わかってるでしょ?」
先に答えたのは辰巳のほうだった。
「わかってます……けど、あれは土屋が」
「お前だって押しただろ」
土屋もすぐに反論する。
「いいや、あれはお前が」
また二人でつかみ合いの押し問答を始めそうになって、諏訪が止めに入った。
「はいはい、そこまで。どっちが悪いとかじゃなくて、二人とも悪いよ。女の子を突き飛ばすなんて」
珍しく厳しい表情の諏訪に、辰巳も土屋もしおしおとなった。
「……すいませんでした」
そろって謝る二人。彼女が医務室に運び込まれる事態になって、さすがに責任を感じているようだ。
「オレに謝られてもねぇ」
五嶋も呆れ顔だ。
その時、机の電話が鳴った。この音は内線だ。
「はい五嶋です……はい……はいはい。なるほど……わかりました。ではよろしくー」
受話器を置き、五嶋は二人を見てニヤリと笑った。
「鯨井、目を覚ましたってさ。大きなケガもないみたい。よかったねぇ」
二人もホッとしたようだ。諏訪は伝え聞いただけだが、彼女は結構派手に倒れたようだから、大事に至らなくて本当に良かった。
「さてと……どうしたもんかね。ケガはないっていうけど、一応は暴力沙汰だからねぇ」
ホッとしたのも束の間、五嶋の言葉に二人がギクリと身を固くする。
「ま、お前らの処遇については、鯨井に任せるよ」
「えっ」
辰巳も土屋も驚いていた。諏訪はまたかという気分だ。
「被害者は鯨井だからね。お前らを罰するかどうかも含めて、あいつに決めてもらうよ」
五嶋はことさら意地悪な笑みを浮かべて、二人に迫った。
「鯨井に何言われても、何されても、ちゃんと言うこと聞くんだよ」
二人とも、何が起こるのかと想像して戦々恐々だ。自業自得とはいえ、少しかわいそうになってくる。
「はい、帰ってもいいよ」
二人は不安そうな顔を見合わせ、そしてまたそっぽを向きながら、バタバタと教官室を出て行った。
「五嶋先生……大丈夫なんですか?」
「何が?」
「鯨井さんですよ。本当に任せちゃっていいんですか? さすがにひどいことはしないとは思いますけど……」
それでも、彼女が怒りに狂えばとんでもないことを言い出すかもしれない。諏訪はそれが心配だった。
「大丈夫だよ」
五嶋は雑誌を開きながら、何の気なしに言った。
「あいつ、あんまり怒ってないから」
「何でそんなことがわかるんですか」
あきれ気味に言うと、五嶋は諏訪の目をじっと見てきた。
「オレ、人の心が読めるから」
この人なら──それもありえるかもしれない。そう思わせてしまう何かをこの人は持っている。
五嶋の視線を真正面から受けて、諏訪は身動きができなかった。下手に動いたら、自分の心も読まれてしまいそうな……
「……冗談だよ」
立ちすくむ自分を笑って、五嶋は目を逸らした。
「鯨井が倒れたのは、あいつらのせいじゃないってこと」
「えっ、そうなんですか?」
と、その時、部屋のドアがノックされた。
「失礼しまーす……」
「鯨井さん!」
ドアが開いて入ってきたのは、その北都だった。驚く諏訪に対し、彼女は平然としている。
「医務室で寝てたんじゃないの?」
「寝てましたよ。でももう大丈夫です。それに、ここの仕事放っておくわけにも行かないし」
そうは言うが、まだ少し顔色が悪いように見える。貧血だろうか。
「今日は僕がやっておくから、君は寮に帰ってまだ寝てたほうが……」
了解を求めて五嶋を見ると、なぜかおもしろいものを見つけたような顔になっていた。
「よう、鯨井。寝不足と生理だって?」
あ然────諏訪の背筋を冷たいものが流れる。
「ちょっ……先生!」
どうしてこの人は彼女を怒らせるようなことばかり……
だが意外にも北都は怒らず、むしろ鼻の先でせせら笑って見せた。
「……五嶋先生くらいデリカシーがないと、いっそ清々しますね」
僕が同じことを言ったら、目を剥いて怒るくせに……
気抜けして肩を落とす諏訪を、今度は五嶋がせせら笑う。
「諏訪、これが役得ってヤツだよ」
「全然うらやましくありません先生」
倒れた原因があの二人にないというのは、こういうことだったらしい。
少し安心したが、あの二人の仲の悪さが周囲に迷惑をかけていることには変わらない。もはや笑って済ませられない問題だ。寝不足だったという彼女の心配の種が、また一つ増えてしまう。
「まあ諏訪の言うとおりだな。今日は帰って寝とけ」
「そうですか? そこまでいうのなら……じゃ、諏訪先生、お願いします」
彼女は一礼して部屋を退出しようとしたが。
「そうそう、辰巳と土屋の処分、お前に任せるから」
五嶋の声に、彼女は怪訝な顔で振り返った。
「は? 処分?」
「あいつらを煮るなり焼くなり、お前の好きにしていいってこと」
「そんなこと言われても……」
彼ら二人のせいではないと彼女も自覚しているから、好きにしていいといわれても困り物だろう。
当惑気味に頭をかく彼女だったが、ふと、その動きを止めた。
「いや、待てよ……」
腕組みをして、何かを考え始める。
やっぱりあの二人に仕返しを──なんて本当に考えているわけではないだろうが、何を言い出すかドキドキしてしまう。
彼女は一つうなずいて顔を上げると、五嶋に向き直った。その顔は妙に真剣なものだった。
「五嶋先生──一つ、お願いがあるんですが」
諏訪は思わず五嶋と顔を見合わせた。彼女がまさかこんなにストレートに頼みごとをしてくるとは、今までにはなかったことだ。
五嶋も大きく目を見開いていたが、フッと相好を崩した。
「言ってみろよ」