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狂人ピアノ
作:秋島キサト


 少女が居ました。少女は、とても裕福な家に生まれました。少女の両親はとても厳しくて、この少女に何か一つのことを徹底的にさせるべきだ、と考えました。それで少女を世界一にしよう。そう思った両親は、やっと立てるようになった頃の彼女に、ピアノを習わせ始めました。
 広い広い少女の部屋の真ん中には、立派な真っ黒いグランドピアノがあります。四角い小さな窓が一つ、ピアノの正面の壁にありました。その反対側の壁に、立派な重々しいドアがあります。それ以外何もありません。硬い赤い絨毯が、彼女の足元を固めています。高い真っ白な天井は、シャンデリアが照るとちかちか光りました。クリーム色をべったり塗った四枚の壁は、全て彼女から離れています。少女は常にピアノの前の椅子にじっと座り、いつも鍵盤に指を置いていました。食事は召使いが運んできて、その場で食べます。寝るときは、椅子に座ったまま、鍵盤に突っ伏して眠りました。少女が幼かった頃は、夜中によく、なんとも不愉快な不協和音が聞こえたものです。
 少女は外に出させてもらえませんでした。毎日一曲の楽譜を渡され、次の日までにそれが弾けないと父親にぶたれました。日が照っているうちは講師がやってきて、彼女にピアノをたたき込みました。その後、彼女は閉めきった部屋で狂ったように練習をします。部屋が密閉されている限り、音は外に漏れることなく、赤い絨毯と白い天井とクリーム色の壁に吸収されていきました。
 彼女は、外に出たいと思ったことがありません。世界にはピアノがあるだけだからです。
 彼女は、楽譜以外の言葉を知りません。誰も教えてくれないからです。
 同じ年頃の少年少女が、学校に通って淡い恋をする頃も、彼女は酸素の薄い部屋でひたすら鍵盤を叩いていました。
 その日渡された楽譜は、いつもより少し難しいものでした。明日までに弾けるようにならないと、父親にぶたれます。ぶたれるのは痛いので、少女はそれが好きではありませんでした。だから、繰り返し繰り返し、同じ鍵盤を叩いていました。
 その時です。激しい鍵盤の音の隙間に、こんこんと小さな音が潜り込みました。
 少女はぴたりと指を止めて、椅子に座ったままくるりと振り返りました。この音を聞くのは、決まって、父親と講師がやってくるときです。だから少女は、ドアを見ます。しかし、少女は、部屋が暗いことに気が付きました。二人がやってくるのは、部屋が明るいときだと決まっているのです。それ以外の時間に、彼らが訪れることは絶対にありません。
 彼女は立ち上がって、ピアノの椅子から離れました。正面の壁、窓を見ます。
 そこで彼女は、初めて父親と講師と召使い以外の人間の顔を見ました。
 四角い窓の外に、少年の顔がありました。年頃は少女と同じくらいですが、そんなこと少女には分かりません。丁度少女のピアノと同じような、真っ黒な髪と瞳を持っていました。どこも見ていないような目で、少女の方を向いてじっとしていました。襟だけ見える服も真っ黒で、夜の闇にとけ込んで流れていきそうです。
 少女は不思議に思ったのと、怖いのと、好奇心とで、ゆっくり窓辺に近づきました。家の中と外で、地面の高さが違うからなのか、少年は少女より背が低く見えました。
 少女は少年を見つめたけれど、言葉を知らないので、唇を少し動かしたまま、黙っていました。少年はどこも見ていないような目で少女を見ていましたが、不意に、悲しそうな顔をします。
「かわいそうに……。ずっとピアノを弾かされ続けて居るんだね」
 少女は、少年のいった言葉を理解することが出来ませんでした。
 すると突然、少年の手が、少女に向かって伸びてきました。その手は窓ガラスを破り、少女の腕を掴みます。ガラスの破片で傷ついた手で、少年は、同じく傷ついた少女の両腕を持ち上げさせました。そして、窓枠越しに、少女のやせ細った両手を自分の前に差し出させました。
 少女は訳が解らず、いう言葉もなく、ただ少年のなすがままにされています。
 少年が、一度屈みました。立ち上がったとき、手には、何か銀色に光る、大きなものを携えていました。薄い銀色の板が二枚、「×」の形に交差しています。下半分は木で覆われているようでした。実はそれは、鋏というものを切るための道具なのですが、少女はそれを知りません。手をさしのべたまま、黙ってそれを見ていました。
 少年は、自分の腕と同じくらいの長さのそれを両手でもって、突然、銀色の部分で少女の手首より少し上の部分を挟みました。
 月光を受けて銀色が光ります。

 じょきん。

 さっきまで少女の体についていたものが、一つ、窓の外にぼとっと落ちました。続けて、じょきん。もう一つ、窓の外にぼとっと落ちました。
 少女は、今まで一度も感じたことのない激痛に、狂ったような悲鳴を上げました。
 しかし、少年はとても嬉しそうに笑います。彼女の悲鳴など聞こえないかのように。
「ほら、これでもう、ピアノを弾かなくて済むよ」
 それだけ言って、少年はくるりと踵を返し、走り去っていきました。少女は絨毯に倒れ込み、どたん、ばたんと転げ回りました。手のない両腕から血が吹き出て、たくさん絨毯に染み込みましたが、絨毯は元々赤だったので、色は変わりません。
 少女は一晩、鼓膜が破れるほどの叫声を上げ、部屋中を転げ回っていました。

 次の日から、父親と講師が来なくなりました。
 それでも少女は再び椅子に座り、ピアノを弾きます。あるはずのない指を鍵盤に載せて、練習の途中だったあの曲を弾きます。聞こえるはずのない音が、赤い絨毯と白い天井とクリーム色の壁に吸収されていきました。少女は痛みさえ押し殺すように、脂汗を流しながら必死で腕を動かします。
 また、夜が来ました。部屋の中が暗くなり、それでも少女は椅子に座っています。
 こんこん、と、少女の耳のピアノの音に、小さな音が潜り込みました。
 少女は一瞬動きを止め、しかし、またピアノを弾き始めました。立ち上がりもせず、聞こえない振りをして、一心にピアノを弾いていました。
 不意に、視界の端に、黒い人影が現れます。
 少女は恐怖に歪んだ顔で、彼を見上げました。
「もう、ピアノを弾く必要はないのに……」
 少年は悲しそうに言います。手には、あの、銀色に光る鋏を持っていました。
 少女はとっさに立ち上がろうとしましたが、少年が足で少女の腿を踏みつけ、椅子に押さえつけて止めました。彼の両手が、重々しく鋏を開きます。
 少女は叫ぶことも出来ず、その刃が、自分の肩を挟むのを見ているしか出来ませんでした。
 
 じょきん。じょきん。

 少年は、少女の両肩を立て続けに切りました。
「ほら、これでもう、ピアノを弾かなくて済むよ」
 失神した少女に、少年はとても嬉しそうに言いました。

 それでも少女は、ピアノを弾き続けます。父親が来なくても、講師が来なくても、腕が無くても、全身を大きく動かして、さながら腕も手も指もあるかのように、一心不乱に鍵盤を叩き続けます。顔中を脂汗が流れても、目を開けるのが精一杯でも、ひたすらひたすら、狂ったように音を出します。
 窓は割られたままですが、日が出ているうち、人が来たことはありません。
 また、夜がやってきました。
 少女は言葉を知りませんから、考えることは出来ません。しかし、彼女は既に、今夜もまた彼が来ることを知っていました。そして、彼女の予想通り、彼の影は彼女の視界の端に現れました。
「どうして……?」
 少年は呟きます。少女は、練習をやめて、少年を見上げました。
「どうして……?もう、この屋敷には、君以外生きた人間など居ないのに……。君はもう、自由なのに……。ピアノなんて、弾かなくて済むのに……」
 少年は、とてもとても、悲しそうでした。哀れんで、包み込むような、そんな口調でした。
 少女は彼の言葉を理解することは出来ませんでしたが、じっと彼の顔を見つめて、小さく唇を動かしていました。
 言いたいのに、言葉が見つからない。
 言葉を知っているものならば、そういうでしょう。
 少年は、また、手に鋏を持っていました。
 ゆっくりと、その刃で彼女の首を挟み込みます。彼女は冷たい刃の感触に、しかし、怯えることなく、ただ、とても何か言いたげに、しきりと、小さく唇を動かしていました。
「残念だ……。残念だよ……」
 少年は目を閉じ、祈るように呟きます。少女は重たい目を見開いて、ずっと、彼の顔を見つめていました。
 少年の両手が、近づきます。

 じょきん。

 さっきまで彼女の身体と繋がっていた部分が、ごとりと、絨毯の上に落ちました。
 椅子に座っていた腕と首のない体が、ずるりと横に倒れます。頭の無くなった部分からは勢いよく血が噴き出していて、いくら絨毯が赤いとはいえここまでは吸収出来ないでしょう。どくどくと、絶えず、彼女の身体から唯一の証が流れていきます。生きていた証が。
 少年は二つの彼女を見下ろし、ちょっと俯いた後、踵を返そうとしました。
 その時です。
「……ピア、ノ……」
 少年の足下から、うめき声にも似た、消えていきそうなソプラノの声が聞こえてきました。
 少年は振り返り、それを見下ろします。
 彼女の頭が、絨毯に転がり自身の髪の毛に埋もれた頭が、少年の方をじっと見ていました。
 かさかさになった唇が、小さく、ほんのわずかに動いて、言葉を紡ぎます。
「フォ、ルテ……リピート……エンドレ、ス……」
 血走った目で少年を見上げて、彼女はそう言いました。
 生まれて初めて、彼女が発した言葉でした。
 部屋が広すぎて、赤い絨毯も白い天井もクリーム色の壁も、その言葉を吸収しませんでした。
 少年は黙って、悲しそうに、ただ悲しそうに、彼女の顔を見下ろしています。
 やがて、静かに踵を返して、入った窓から去っていきました。
 少女は血走った目で、彼の消えた窓をいつまでも見つめています。


「……で、両親も講師も召使いも、大広間で殺されていたんだってさ。あの屋敷に残されたのは、死体のみ」
「やぁだ、やめてよ怖いじゃない!」
「でもね、おかしいの。その女の子の死体だけ、無かったのよ」
「え……?」
「もしかすると、まだ動いていて……」
「き、きゃー!!ほんとにほんとにもうやめてー!!」
「あっはは、冗談よ。……ん?」
「こ、今度は何……?」
「今、ピアノの音しなかった……?」


 少女はピアノを弾き続けます。父親が来なくても、講師が来なくても、体が無くても、さながら腕も手も指も体もあるかのように、一心不乱に鍵盤を叩き続けます。ひたすらひたすら、狂ったように音を出します。

 ――今夜も、また。


旅行中ふと思いついたので連載ほったらかしで執筆。どうもすみません……。
そしてピアノ好きな方ごめんなさい。
かく言う自分もピアノ好きですが。
文章長くて、携帯の方は読みづらいかと思いますが、ご容赦下さい。
最後の女の子たちの会話は、入れるかどうか迷いました。
感想・意見、お待ちしております。













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