幼き日の殺人計画日記
靴を洗う。
服を切り裂く。
ノートを破り、ミルクに浸す。
シュミレーションはバッチリ。
勇気は有る。
後はタイミング。
まだ朝八時前だというのに、外は暑い。
何年か前に着ていたシャツとジーパンと靴はかなりキツくて、さらに暑さが増す。
わざと地味な服を選んだから、開店前のタバコ屋さんのガラスに映る姿は、まるでやんちゃな男の子見たいで満足する。
都会では珍しい透き通った川の流れる、近くの公園。
いつものように、女の子が一人で遊んでいる。
お母さんが夜の仕事をしていて、帰ってくるのがこの時間になるのだそうだ。
幼き日の私にもわかる。
女の子のお母さんは、あまり皆から良く思われないような仕事をしている。
だから遊び相手すらいないのだろう。
いつもとは違う私の服装に、女の子は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに笑顔になって駆け寄ってくる。
私は女の子に手を振ると、そのまま川の上流にある昼間でも暗い林に連れて行った。
家庭の汚水が渦巻くドブに突き落とした時の感触は、太い木の棒を通して二十数年経った今も鮮明に残っている。
不景気で仕事の激減した今年の夏。
強制的に二週間以上の長期休暇を取るように会社から言い渡された。
貯まった有給休暇を消費するには絶好の機会なのだが、つい最近一軒家の購入契約をしたばかりの身ではどこへもいけない。
だからといって仮住まいの狭いアパートに家族四人で居たら窒息しそうで、初日から近くの妻の実家に来ている。
車で一時間程の所だから、そこまで行動範囲が拡がる訳ではないが、それでもプールや遊園地に花火大会と息子二人は楽しそうだ。
今日は妻と妻の両親と一緒に、ちょっと遠出してアウトレットモールに行っているらしい。
そこで安いバイキングを食べてくるというのだが、俺は遠慮した。
このクソ暑い中で、食欲などあるものか。
リビングは広くて落ち着かない。
俺は妻が婚前使用して居たという部屋で、クーラーをガンガンにつけてテレビを見ていた。
殺風景な部屋で、ふとクローゼットが目に入る。
何となく開けてみれば、やはり部屋中の荷物が入っているんじゃないかと思うくらいぎっしりつまっている。
少しの罪悪感を感じながらも、俺は暇つぶしをこれに掛けることにした。
下の段に、押し潰されたような透明の収納ボックス。
力付くで引っ張り出してみれば、中は懐かしい小学生のころの教科書やノートだった。
こういうのをきちんと取っているあたりが女の子らしい。
ノートも文字の大きさこそ違えど、今の妻の字と変わらず綺麗で読みやすい。
幼さの残る字だけれど、そういえば日頃から妻は「私は毎年硬筆で選ばれていたのよ」なんて子供に自慢していたのを思いだした。
そんな中、薄い日記帳に目が行く。
そこに書かれたタイトルと、幼い字とのギャップに一瞬驚く。
『殺人計画日記』
普段使いなれていなかったからだろう、細い行からはみ出た幼なさの残る字体が、小学生の頃に書かれたものだと示している。
そういえば妻は昔からミステリー小説が好きだと言っていた。
自分が選んでおいて恐がってしがみついてくるのが可愛くて、借りて来たホラー映画を一緒に見たこともある。
独身時代の二人の淡い思い出だ。
俺は好奇心から小学生の時に、お遊びで書いたであろう殺人計画日記を読み進めることにした。
時は、今から20数年前の夏休み。
妻は小学校五年生だ。
舞台は、俺も妻の実家に来た時は、子供を連れて遊びにいったことのある近くの公園。
都内にしては珍しく澄んだ川が流れており、柵が張ってあって中にこそ入れないが、いつも鴨や魚が泳いでいるのが見えるような所だ。
子供の姿はあまりなく、コンクリートと土で出来た二種類の遊歩道を犬を連れて散歩する人やジョギングをしている人をよく見かける。
そういや、妻の両親があの公園に行く時は絶対子供から目を離すなとしつこく言われていた。
今になって日記帳のタイトルを思いだし、少し嫌な感情が沸き起こる。
幼き日の妻の日記には、その公園で小さな女の子をすぐそばの暗い林に誘い、家庭の汚水などが流れるドブに突き落として殺害すると書いてある。
殺害決行当日の注意点として、いつもしないような格好をしていくこと。
指紋が残らぬように、女の子には直接触らない。
戻って来たら靴についた泥を洗い、服は処理して着替え、近くのコンビニの防犯カメラに映ってアリバイをつくるとまであった。
そして最終的には、この殺人計画日記を、ミルクに浸して証拠を隠滅すると。
ターゲットをその女の子に決めた理由は、その子の母親が夜の仕事をしていてーーおそらく水商売だろう、発見が遅れたりする可能生がある。
それにまず始めに母親が疑われる可能性が高いかららしい。
小学生の頃の妻が、そんな計画を練っていたことを考えると薄気味悪く感じるが、いつだって女子の方がずっとませていた。
陰湿なイジメをするのは、いつだって女子だった。
このくらいの事が頭に浮かんだとしても、特別というわけではないのかもしれない。
何より、この日記帳の通り妻が本当に幼き日の殺人計画を実行にうつしていたとすれば、日記帳はミルクに浸されてグジャグジャになっているはずだ。
だからあくまでこれは、ちょっとませた小学生が書いた、ほんのお遊びに違いない。
そうは思っても、煮え切らなくて、俺は実際に確かめて見ることにした。
時刻は16時。
昼がバイキングじゃ、夕飯はいつもより遅い時間になるだろう。
パチンコに行っていたと言って19時くらいまでに戻ってくればいいはずだ。
言い訳は利く。
俺は日記帳以外は全て元通りにしまう。
もし妻が何か思う事があって、日記帳を探そうとしたとしても、彼女のひ弱な力じゃ、この収納ボックスを取り出すだけでも一苦労だろう。
目的の公園につくと、川と並行に走る遊歩道を結ぶ階段に腰掛ける。
夕方で蒸し返す様な暑さは変わらないけれど、日差しは少し柔らいでいる。
同じ様にこの時間を狙って出て来たであろう、お年寄りや犬の散歩に出て来た人、ジョギングをする人で賑わって来た。
俺はとりあえず買ったコーラを飲みながら、携帯電話で情報を探ろうとした。
公園の名前を入力し、スペースをあけ、事件と続ける。
その時川の上流側から、黄色い蛍光のベストを身につけ、ゴミ袋片手に歩いてくる老人が歩いて来た。
『見回り中』と書かれたベストに目をやっていると、俺の方に真っ直ぐ向かって来る。
「こんにちは暑いですね」
「ほんとたまんないですね、でもこの時間になるとだいぶ落ち着きますよね」
怪しく思われていたら嫌だなと、思わず話しすぎてしまう。
俺が妻の実家に帰省中の、地元民でないことを知ると、老人は近くのおすすめのお店や昔話をしだしたりして話が盛り上がる。
定年退職後、時間を持て余した老人の、ちょっとした愉しみなのだろう。
俺も定年後は、こんな緩やかな場所で、こうして談笑をして過ごすのもいいななんて思う。
けれど穏やかな時間はそこまでだった。
「見回りとかしてらっしゃるんですね」
俺が何気なく言った言葉に、老人は顔をしかめて反応する。
「昔の話なんですけどね」と、声をわざとらしく抑える。
「小さな女の子がこの公園で行方不明になってしまったことがあるんです。同じ様に夏休み真っ只中でした」
思わず思考の固まり相槌さえうたない俺に構わず続ける。
「母親が夜の仕事をしていて子供に構っていなくて、行方不明の届出がでたのも一週間もあとだったんですよ。母親は虐待をしているという噂があったから、自分が疑われると思ってなかなか言い出せなかったんだろうね。まあ、母親は結局シロだったんですけど。当時担当していたのが自分で、警察官を引退した今もこうして見回りだけはさしてもらってるんです」
「……そうだったんですか、ご苦労さまです」
ようやく声を絞り出す。
「お子さんを連れてくる時は、くれぐれも目を話さないで下さいね」などと言いながら去っていった。
俺は確かめなくてはいけないことがあると気付く。
思わず立ち上がり声をかけた。
「あの……それはいつ頃の話なんですか?」
元警察官という老人は、顔をしかめて宙を見たあと、笑っていった。
「もう、二十三年も前の八月十日の月曜日、古い話ですよ」と。
俺は慌てて、バックから日記帳をとりだし、パラパラとめくる。
やはりそうだ。
二十三年前の八月十日の月曜日。
それは妻の幼き日の殺人計画日記に『決行予定日』とされていた日付だった。
上流側に向かい、二列の遊歩道を越え、大きな道路を渡る。
林の中は、生い茂る葉が太陽の光を閉ざし、まるで夜中のようだ。
心なしか道路を走る車の音もまるで遠くで聞こえているようだった。
日記帳には林の中の生活排水が流れるドブとしか書いていない。
一度奥の方まで見にいくが、ずっと整備されていない梅雨の雨が残る土が続くだけで何も見つからない。
そこでふと思う。
いくら少し顔見知りとはいえ、知らないお姉さんに連れられて、女の子はこの暗い林の中をどこまでもついていくだろうか。
俺は来た道をもどり、林と道路の際を一周する事にした。
すると、枯れ枝や不法投棄されたゴミの隙間に、薄く流れるドブ川を発見した。
ここだ!そう思う。
女の子は二十数年の時を経ても、未だ行方不明のままだ。
当時どれくらいの捜索をしたのかはわからないが、もし妻が幼き日の殺人計画日記の通りに、女の子をこのドブに突き落としているとしたら……。
ドブ川は道路と林の境目を、数十メートルに渡って続いている。
深さもあり、土地の部分よりも一段下がっていて、上には格子状のフタがされている。
これを全部探していくのはどれくらいの時間がかかるのだろう。
妻の実家には、あと三日は滞在予定だ。
それまでには何としてでも、くまなく探し出して、真相を知りたいと思った。
腕時計を確認すると、今はまだ十八時前。
今日はどれくらい出来るだろう。
本当は汚れてもいいように、服でも取りに帰りたかったが、もう皆戻って来ているだろう。
一度戻ってしまえば、再び長時間外出する口実を見つけるには不可能に感じた。
服が汚れない様に慎重にかがみながら、最初の格子に手をかける。
その時、聴きなれた着信音が響きわたり、心臓がドキっとなる。
見ないでもわかる、妻からだ。
ただ思っていたよりも、早い連絡にちょっと驚いただけだ。
仕方なく、俺は携帯電話に手をかける。
きっとすぐ戻ることになるのだろう。
でも大丈夫だ、まだあと三日もあるのだから。
家の中は慌しかった。
妻と義母は、洗濯物を持って走り回っており、義父は何やら俺の車の中で作業をしている。
帰りを待って飛びついてきた次男を捕まえ尋ねる。
「なに? ママに早く帰ってくるよう言われたけど、なにかあったの?」
次男は飛び跳ねる様にして、嬉しさを伝えてくる。
「あのね、明日から旅行に行くの!軽井沢だよ、バーベキューするの」
「ママ凄いんだよ。くじ引きであてたの。軽井沢の別送だよ。前にいったよね」
長男も駆け寄り、次男のよくわからない説明をフォローする。
「え? パパ何も聞いてないよ?」
旅行? 驚いて、リビングを見ると、妻が走ってやってくる。
子供二人を産んだ後も、若い頃と変わらないくらい華奢な身体。
いつもは見惚れるそのスタイルさえ、あの日記を読んだあとだと、何だか不気味に感じた。
「あなた、聞いてよ。モールでね、お父さんにブランドバッグを買ってもらったの。その時に、もらったくじ引きで優待券あてたの。軽井沢の別荘よ。お父さんは明日から仕事だから、四人でいってこようと思って」
「でも何の相談もなしに……」そこまで言って思い出す。
来週からは俺の実家に帰省する予定だったのだ。
「お母さんも、最近出掛けてないからって喜んでくれてるの」
上目遣いで、俺の顔を覗きこむ。
年甲斐もなく、目を潤ませて両手を胸の前に組んでいる。
俺は今まで何度この艶かしい表情に騙されてきただろう。
息子二人がフザけてまねして、同じポーズで俺をみる。
「ごめんね、今月末までの期日だったから明日しかないと思って、確認も取らずに予約しちゃって」
うつむく妻に、俺ももう諦めたように言う。「いや、いいんだよ」と。
それを聞くと「二人の面倒は私とお母さんがみるから、あなたは運転手さんだけお願いね」と言って、そそくさと荷物を詰める作業に戻った。
息子二人は、ゲーム機の充電をしたりしながら、はしゃいでいる。
そうだ、俺がずっと仕事で連休もなかなか取れなかったし、久々の旅行なのだ。
「荷物運ぶの手伝ってくれるか」義父に肩を叩かれ呼ばれる。
部屋から漏れだす灯りと笑い声の中で、一昨年の夏やはり皆で軽井沢に行く前に買ったバーベキューセットを積んだ。
ーーああ、なんて幸せな風景なのだろう。
俺は、もしあのドブから、二十数年前の女の子の遺体の欠片が出て来たところで、どうしたというのだろう。
もうすぐ夢の一戸建て生活も始まる。
妻がもし殺人を犯していたとしても、彼女がいなくては幸せなどない。
何が本当だとしても、俺が少し目を瞑って忘れれば、全ては日常通りなのだから。
俺はその夜、眠れないとはしゃぐ息子二人を寝かしつけたあと、妻の当初の計画通りに日記帳をちぎってミルクに浸した。
薄い紙が水分を含み文字が滲む。取り出して雑巾のように絞り、生ゴミの中に紛れ込ませる。
これでもう何も証拠はない。
俺が変な好奇心や正義感を出して、調べでもしなければ誰にもわからない。
この幸せはずっと続くだろう。
次の日、高速道路に乗る前にお菓子や飲み物の調達によったコンビニで、カゴを持ってレジに並んでいると妻が何かを持ってやってきた。
「はい、これもお願い」
そう言って笑顔でカゴに滑り込ませたもの。
それは新品の日記帳だった。
感想、評論お気軽に。