第66話 ヨワムシ ふたり
あのひとが、あたしだけのものになったら。
もうひとり。
あたしには会わなければないひとがいた。
混雑する休日の駅。
ざわめきから耳を塞ぐかのようにしゃがみこむ黒い影。
こうやって地べたに座り込む人間をあたしは軽蔑していた。
疲れたから、公共の場に腰を下ろすなんて非常識だと冷めた目で見ていた。
けれど彼のそんな姿は、ただただ痛々しいだけだった。
「お待たせ」
見下ろせば、目がぶつかった。
それでも口の端を上げて、目を細める彼。
疲れたようなその笑顔に、彼の気持ちがうかがえた。
「みはね、送ってくれたか?」
「もちろん。だから、安心していいよ」
カラオケの店先で未羽を待っているあいだに届いた一通のメール。
内容は、未羽を無事に駅まで送り届けて欲しいということと、そのあとに会いたいと書いてあった。
大きくうなずいて返事をすれば。
元共犯者の神原夏希はありがとうと、そう一言もらした。
「はい、お茶でいいでしょ?」
「悪りいな」
「気にしない気にしない。だけどそんなに心配なら何も逃げることなかったのに」
差し出したペットボトルを受け取って、ナツキはすぐに口をつけた。
追いかけてくる未羽を必死に振り切って、よほど疲れたのだろうか。
午前中は驚くほど暖かかったのに、夜の風はまだつめたい。
公園に行くのも気が引けて、あたしたちは駅を出てすぐにあるベンチに座っていた。
「逃げるようなこと、したからさ」
その言葉に、浮かんだのはあの夜。
卑劣だと思いながらも、遊具の影から見てしまった、二人の姿。
そして、彼女の秘密。
「もう、俺、だめだわ。マジきっつい、いま」
頭を抱えて、うなだれるナツキが本当に苦しそうで。
自分の気持ちと重なるものだから、痛くてたまらない。
「まさか未羽が思わなかったんだよ。ここんとこずっと、あいつから逃げてたのに意味ねーよ、もう」
膝を揺らして、握りこぶしを額に当てて。
ナツキは未羽に遭遇してしまったことを心底後悔しているようだった。
かける言葉が見つからなくて、ただ彼を見る。
「怖えーよ。未羽になんか言われたら、今は立ち直れない気がする。でもあきらめる覚悟もない」
ほんとな情けないよなあと頭をかきむしり、無理矢理笑うナツキが痛々しかった。
ナツキはまだ知らない。
未羽が、ナツキのために涙を流したこと。
ナツキの言葉には、力があった。
その力ある優しい言葉にきっと未羽も、もちろんあたしも、救われている。
それを、彼は知らない。
「あきらめないでよ」
「え?」
「あきらめちゃだめだよ。だれかを想う気持ちは、自分だけのものなんでしょう?」
この胸に、花。
咲き乱れる花園。
ナツキの胸にも、きっと同じく。
揺れて、迷って、枯れそうになって。
でも、それでも。
咲きつづける。
「つらいこと、分かってたでしょう? それでも、すきになったんでしょう?」
ナツキに向けての言葉が、まるで自分自身を励ましているかのようだ。
この体に残る、彼の温度。
その涙、妹の名を呼ぶ声がまだ耳に残っている。
「たとえ自分のものにならなくても、どうしてもそばにいたいと思っちゃうよ」
こらえきれず、あふれる。
ナツキの前で、あたしは弱虫に成り果てる。
彼が優しくて、受け止めてくれることを知っているから。
「いま、は、苦しいけど、がんばろう。あきらめないで、ナツ、キ」
ぼたぼたと落ちる。
顔を上げたナツキが、隣のあたしに手を伸ばす。
「じゃー、お互いに今日はグチ対決な」
優しくなでられた髪。
涙でにじんだ彼の笑顔。
――春は、もうそこまで来ている。
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