第63話 彼の降らす雨の音
あの夜以来だった。
彼に触れられるのも、声を聞くのも。
「離してください! 未羽が」
「いいから。ナツキのことは未羽にまかせておけばいい」
振りほどこうとすればするほど、腕に力が入るのを感じた。
どうやら、本気で離す気がないらしい。
久しぶりに直接会った彼に、まず最初に感じたのは違和感。
なんで、未羽を追わないのだろう。
大事な妹が、男を追いかけて行ったのに。
「何で、追いかけないんですか! 未羽が追っていったのはナツキですよ!?」
腹が立った。
何を考えているのか、本当にわからない。
「知っているよ。俺達もここに来ているんだから」
冷静な、ひとこと。
他人事のような、無表情。
閉まりかけた扉から、彼を呼ぶ声がした。
中にまだ誰かいるのだろう。
「ここじゃ目立つから、奥のほうに行こう。確か自販機の前にイスがあったから」
「……いいんですか? 呼んでますよ」
「クラスの楽しい分散会の邪魔したくはないから」
つかまれた腕には、冷たいはずなのに熱を感じる。
きっと、発熱しているのはあたしなんだろう。
引きずるように歩き出した彼に黙って従った。
本当は、追いかけたいくせに。
なにを我慢しているんだろう。
「飲み物は?」
「いらないです。とにかく、離してください」
離れて座りたいのに、そうさせてくれない。
つかまれた腕にこもる力が、気持ちを惑わしてしまう。
「あのふたりを追わないなら、いいよ」
しぶしぶうなずけば、ようやく解放された。
すかさず、彼と距離を置く。
そんなあたしを見て、彼は意地悪そうに笑った。
「何もしないよ。今日は」
顔が赤くなるのを感じた。
だめ。
ここで、こんなことをしている場合じゃないのに。
「……どうして、追いかけないんですか?」
「追いかけてほしいの?」
質問に質問で返す。
意地悪な彼の手口。
あたしは、彼にどうしてほしいのだろう。
彼が未羽を追いかけていったら。
泣くのだろうか。
それとも、安心するのだろうか。
どちらにしろ、覚悟ができるきっかけがほしいのには変わりない。
彼をこのまま好きでいるか。
あきらめて彼から逃げ出すか。
まだ、覚悟が決まらない。
「どうして、追いかけないのかが知りたいんです」
彼を見た。
見返してやった。
顔は赤いだろうし、情けない表情をしているだろうし、意識しまくっているのはバレバレなのだろうけれど。
この間から、彼の様子がおかしい気がする。
大事に思っている妹が、男を追いかけて行ったのに、どうしてそのまま行かせたりしたのか。
これまで未羽に近づく人間を排除してきた彼が、どうしてそんな行動を取るのか。
あたしにはわからない。
ゆっくりと黒い皮のイスに腰掛けた彼と、向かい合うあたし。
少しの間と小さなため息の次に、彼はあたしの目を見た。
「奈緒のせいだよ」
彼が、泣きだすかと思った。
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