前兆
※一部表現、内容、誤字、スペースを編集しました。
頬に一滴の雨粒がぶつかった。
黒いフードをかぶった男が厚い雲を、いまいまし気に見上げた。
その足のすぐ下では、自らの影に触れられるのでは無いかと錯覚する距離で、生い茂る木々が後ろへと流れ過ぎていく。
手足に蝙蝠の様な皮膜を持った四枚羽の大蜥蜴が、背負った鞍に跨った主人の方を見た。
目が合うと、フードの男は共に飛ぶ仲間達に目を配った。
文句ひとつ言わないが、旅の足となっている三頭の大蜥蜴達も含めて、明らかに休息を必要としている。
なにしろ、休みなく18時間も飛んでいるのだから当然である。
このような強行スケジュールで旅をしているのには、それなりの理由があるのだが、誰かに倒れられても困る。
「一時の方角、洞穴が見えるな。そこで休息をとる! 全員周囲の警戒は怠るな!」
「了解!」
フードの男の指示に仲間達が答える。
すると、大蜥蜴の一頭が首の後ろにある飾り鱗を震わせて、カッカッカッと音を出した。
全員がすぐに森の中に降りると、木の影から空の様子をうかがった。
その音は、この大蜥蜴が敵を察知した時に出す警戒音である。
この大蜥蜴は個体の中でも特に臆病で、馴らすのに苦労した一頭であった。
その甲斐もあり、その索敵能力の敏感さは、他の個体と比べても群を抜いていた。
今回の様な隠密任務には、特に向いた一頭である。
だから、森は沈黙に包まれ、一向に何も起きなくても、誰も警戒を緩める事は無かった。
何かがおかしい。
そこは、国境からは離れているし、道も無ければ、航路も通っていない。
ブランクゾーンと呼ばれる危険地帯であり、だからこそ人目を避けて遠回りをしてまで選んだのだ。
だとすれば、危険な野生動物が近くにいる事も考えられるが、空を高速で飛ぶ大蜥蜴を脅かす野生動物など、この地方では確認されていない。
それでも、だからこそ、足止めされていると分かっていても、誰も声を出さず、ジッと周囲の警戒を続けるしかなかった。
やがて、雨が降り始めた。
ゴウン……ゴウン……
雨音に紛れて、何かの駆動音が曇天から響いてきた。
よく知る音だ。
「この音は、戦艦?」
仲間の女が呟いた。
女の言う通り、直上の雲をかき分けて、巨大な船底が、徐々にその姿を現した。
「あの紋章は……アナトリアの!?」
直径三百メートルの大きさを誇る空中戦艦が一隻、雲の下に潜って来た。
通常航行高度は上空800メートル程度の筈なので、かなりの低空飛行だ。
だが、その下には、大蜥蜴に跨る旅の一団が隠れている深い森があるだけで、着陸する場所などは無い筈である。
「どうしてこんな所に、あんなものが」
「まさか、俺達を探して!?」
仲間達が動揺を口にすると、フードの男が冷静に遮った。
「落ち着け、まだ見つかったと決まった訳じゃない。急いでここを離れるぞ」
フードの男の言う通り、空中戦艦からの、この一団に対する動きは、まだ見られない。
仮に、目的が雲の下での人探しの類なら、哨戒艇が既に出ていてもおかしく無かった。
仲間達が頷くと、さっき危険を知らせた臆病な大蜥蜴が、再び鱗を鳴らし始めた。
「おい、静かにしろ、今はまずい、落ち着け!」
興奮した大蜥蜴のパートナーである青年が、どうにか臆病者を落ち着けようと必死に首の下を撫でるが、まるで言う事を聞く素振りを見せない。
それが目の前の危険以上の脅威が迫っている事に他ならぬ事を、三人は瞬時に理解した。
「急げ、すぐにここを離れるぞ!」
三頭の大蜥蜴とその主人達は、頭上の空中戦艦から隠れながら、どうにかその場を離れようと森の中を疾走し始めた。
翼の被膜を畳んだ状態で、大蜥蜴達は森の木々を避け走る。
走り出すと他の大蜥蜴達も、遅れて危険に気付いたらしく警戒音を鳴らし始め、気が付けば森全体の生き物と言う生き物が、それぞれの警戒音を鳴らしていた。
こんな事は初めてだった。
仲間達は不安そうに周囲の森の異常事態に息を飲むが、フードの男は大蜥蜴の背中から雲の中を見上げた。
突然、森中から音が消えた。
「何か来る……」
フードの男が呟くと、雲に大穴を開けて現れた何かが、空中戦艦の上部装甲に衝突した。
例え、戦艦同士で衝突しても、こんな事にはならないであろう、衝突の衝撃によって空中戦艦は下方に大きく沈み込み、周囲には巨大な船体の破片が散乱していく。
地上は、残骸の雨が火山の噴火の様に降り注ぎ、世界の終末にでも遭遇したかのようであった。
「早く逃げろ! 進め! とにかく進むんだ!」
瓦礫の雨をかいくぐり、なんとか空中戦艦の下から脱出を試みるが、様々な大きさの瓦礫が周囲に降り注いでいるので絶対に安全と言える場所は、この森の中には、もはや存在しない。
瓦礫が地面に衝突すると、その衝撃で木々が吹き飛ばされ、その木によって別の木がなぎ倒されと、破壊のドミノ倒しがそこら中で起こり、気にするべきは頭上だけでは足りなくなっていた。
何かに衝突された空中戦艦は、高度を下げたものの、まだ浮力を維持していた。
衝突部位は大きく変形し、内部の構造が剥き出しに見える。
空中戦艦の上方の雲には大穴が開き、強烈な日の光がスポットライトの様に直下を照らし出していた。
まるで、どこにも逃げ場は無いと知らしめるように。
「あいつは!」
大蜥蜴の背中に乗って森を疾走しながら、青年が振り向き空を見上げた。
そこには、全身から黒い靄を放つ巨体が見えた。
空中戦艦の上部装甲に体当たりしたそいつは、30メートルクラスの巨大な竜だった。
空中戦艦は、まだ生きている全砲門を竜に向けると、一斉射撃で迎え撃った。
上空は完全な戦闘状態となり、地上は悪戯にとばっちりを受けて、底知れぬ地獄へと化していく。
空中戦艦が放つ高速の砲弾も竜燐に弾かれて地上へと跳弾するだけで、効果があるようには見えない。
「うおおおっ!」
「自分に弾が当たらない事を各自祈れえええっ!」
「死ぬ、死ぬうううっ!」
「なんで、あいつがっ! 次から次へとっ!?」
「ちがう! あの戦艦が、あいつから逃げて来たんだ! とんでもないのと遭遇しちまった!」
それぞれが仲間に声を掛け合いながら、瓦礫と弾丸の雨を避けて燃える森を走り抜けていく。
「見えてきた! 飛び込め!」
休憩しようと目指していた洞穴が、あと少しの所。
その時、まるで「そうはさせるか」と言わんばかりのタイミング。
空中戦艦の砲塔を竜が食いちぎり、軽々と放り投げた。
砲塔は、大きくこうを描いて、逃げ惑う大蜥蜴達の上に降り注ごうと迫る。
全員が、死を覚悟した。
しかし、砲塔は直撃しなかった。
竜が空中戦艦が放った小型艇に対して行った、全方位に向けた散弾銃の様な炎撃。
その一撃を喰らい、砲塔は落下前に完全に熔解してしまった。
溶けた金属の雨が触れるすべてを焼きながら地上に降り注いでいく中、なんとか全員が洞穴に雪崩れ込んだ。
「まさか、助けられた、のか?」
もう大丈夫と、フードの男が洞穴の中から竜を見ると、竜が深く息を吸い込んでいるのが見えた。
竜の口の奥では、炎と言うよりは光球と表現した方が適切な、眩い何かが圧縮されていく。
「違ったらしい! 伏せろ!」
竜が発した一筋の熱線。
射線上の森と山ごと、空中戦艦が真っ二つに切断されてしまった。
断面は抵抗なく熔解し、一緒に切断された川と湖からは、爆音と共に水蒸気爆発が立ち上った。
そんな攻撃を喰らっては空中戦艦と言えども、ひとたまりも無い。
船体のバランスを失った空中戦艦は墜落を始め、その乗組員が外に投げ出されて、瓦礫となり果てた船体と一緒に地面に落下していく。
「無事か……」
土塗れになったフードの男が仲間の安否確認に身体を起こし、洞穴の外を警戒して見る。
戦艦の瓦礫が森の木々を破砕しながら、轟音をあげて地面にぶつかった。
数百メートルは距離が離れているが、逃げ込んだ洞穴にまで、その揺れが響く。
すると、墜落に遅れて戦艦の動力炉が臨界に達したのか、眩い閃光が周囲を照らし……
「悪い、まだだった」
フードの男が仲間達の上に覆いかぶさった。
男を庇おうと、相棒の大蜥蜴が男と閃光の間に自ら割って入り、腕の被膜を広げて覆いかぶさると、遅れて墜落現場から爆音が響き、その後に激しい衝撃波が森を通り過ぎた。
竜は、空から空中戦艦が爆散したのを見届けると、目的を果たしたのか雲の上へと穴を通って帰っていった。
その時フードの男は、竜と目があった気がした。
森の炎は、雨で鎮火が始まっているが、雲に大穴が開いている空中戦艦の残骸だけは、消火の範囲外で激しく燃え続けていた。
乗組員も、生存は絶望的だろう。
そこにいた全員が、大きな流れの中に、知らぬ間に身を置いていた事に気付き始めていたが、それを口に出す者はいなかった。
本来飛ばない航路を飛ぶ空中戦艦、それを襲った「災厄」と呼ばれる悪名高い竜の出現。
それが、この広い世界で、とある場所を目指している自分達の目の前で起きた。
まるで、同じ場所を探している様に。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。
次の話から、本編です。
楽しんで貰えたら嬉しいです。