鉄格子の間から見える水道の蛇口。俺は水一杯すら自由に飲めやしない。
「担当さ〜ん…、水ちょうだいよ。水……」
巣鴨警察署の留置にいる警察官。それを俺たちは、担当さんと呼んでいる。
警察といっても色々な課に分類されている。
駐車違反のキップを切ったりする交通課や、この俺が捕まったような生活安全課。そして捕まっている間、色々と世話をしてくれる留置課。
刑事と留置の人間は、基本的に仲が悪いらしい。
同室のヤクザ者が、そう教えてくれた。
「だってさ、神威ちゃん。考えてみなよ。刑事って犯人を逮捕するだろ?言い方を変えれば、命をそれだけ張るって事じゃない。でも、留置の人間はほとんど安全。だから刑事連中は留置の人間を軽く見ているし、留置の人間は刑事に対し、何だえばりやがってと、思っているのが現状なんだよ」
このヤクザ者とは、初めて会った時から何故か馬が合った。
多分、お互い歌舞伎町の中で仕事をしていたという共通点で、妙に親近感が沸いたのであろう。
お互いの情報を言い合い、俺たちはすぐ仲良しになったのだ。
巣鴨署の留置所は造りが古いらしく、扇形の留置室になっていた。上から見れば、半円に見え、五つの部屋に区切られている。まるでみかんを半分に切ったような形である。これを作った人間は、ギャグでも狙ったのであろうか?
どういう区分で部屋に振り分けられるのか分からないが、俺たちは右側から二番目にある二室と呼ばれるにいた。
「おい、十五番」
担当が俺を呼んでいる。
ここではみんな、名前を番号で呼ばれた。同室のヤクザは八番、痴漢で捕まった自衛官は十一番、俺は十五番といった具合である。
「何すか?」
「おまえ、元プロレスラーだったらしいじゃないか。聞いたぞ。だから体がでかいんだな」
「何年前の話ですか。もう、当時の体なんて、とっくに落ちてますよ。それに俺はリングに上がっちゃいないすからね。まあ、五年前に、総合の試合なら上がりましたけどね」
「おまえは頼むからここで暴れんなよ。そんなでかい体、誰にも止めらんないからな」
鉄格子越しの会話。
担当も、たった一人で俺たちを監視するのが仕事だから、暇で仕方がないのだ。常に誰かしらと話をして時間を潰している。突然、横の三室の奴が、大声で口を挟んできた。
「担当さん、俺だってね昔は……」
この手の会話になると、負けじと絡んでくる男。
「うるさい、おまえはただのチンピラだろ。十五番なんかと一緒にするな」
憐れにもその男は、まったく相手にされないでいた。
警察も人間の子である。人間の好き嫌いがあるみたいだ。
プロレスファンの担当がいると、何かと便利なものである。俺は結構、特別扱いをされた。
留置の中は、朝六時起床。
眠い目を擦りながら布団をたたみ、部屋の掃除をして、運動になる。
運動といってもラジオ体操をする訳ではない。運動と形上いっているだけで、別室で数名ごとに煙草を吸ったり、髭をそったり、爪を切ったりするだけである。
この留置所で吸える煙草の本数は二本だけ。だからみんな、根元までちゃんと丁寧に吸う。
毎朝、俺たちはトイレで使う分のケツ拭き紙をもらい、みんなで仲良く半分にたたむ。トイレットペーパーなど、洒落たものは一切ないので、この紙切れを俺たちは大事に使うのである。
ヤクザ者が言っていた。
「刑務所はもっと酷い。紙の枚数だって、決まった枚数しかくれねぇんだぜ?」
「え、じゃあ、クソする時、紙が足りなくなったら、どうすんですか?」
「そんなのうまく使わない奴が悪い訳よ」
風呂は五日に一日だけある。
三人ずつ順番に入り、最初に体や髪の毛を洗う。湯船はとても熱かったが、俺はいつも我慢しながら真っ赤な顔をして入った。
あとになればなるほど、風呂に入る奴は悲惨だ。
何故なら、五日分の垢が溜まった連中が、一斉に入るのである。湯船には垢がたくさん浮いている状態になるのだ。
飯は七時、十二時、五時の三回。
この辺は、病院とそんなに変わらないか……。
しかし、三食の飯の内容は酷いものだった。
朝はご飯に、きゅうりのきゅうちゃん二つ。あと海苔の佃煮のチューブとふりかけのみ。
昼は耳つきの食パンの間に、マーガリンがドテッと挟まったものと、ジャムが挟まったもの。それとチーズスティック。
平日はまだいい。土日休日は、甘い菓子パンが三つだけだった。
さつまいものあんこが入ったアンパンや、チョコにすべて覆われた真っ黒のパン。甘いものが一切駄目な俺にとって、嫌がらせにしか見えない。
夜は冷めきったどこかの仕出し弁当。肉なんて洒落たものは、ほとんど入っていない。しなびた衣に包まれた謎のフライが、いつもメインのおかずであった。
こんなものが、毎日続く。
そして、休日、祝日以外の平日の昼飯のみ、自弁というものが五百円で頼めた。値段の割にはなかなか豪華で、大抵の人間は、みんな自弁を頼む。
一日置きに作っている弁当業者が違うらしく、当たり外れも多かった。
そんな中でも、毎週火曜日は、カレーライスと定番になっている。
しかし、そのカレーは、とてもまずかった。味は何となくカレーの味がするような感じで、ガラスのショーウィンドーの中で飾ってあるようなカレーライスである。
隣の一室は、問題児部屋と呼ばれていた。
留置の中に入ると、みんな、仲良くしようとするものである。何故なら、つまらない事で喧嘩をしたりすると、留置所だけじゃなく刑務所に送られる可能性が大になるからだ。
だからみんな、暇つぶしも兼ね、とにかく話をするか、昼寝をする。
横が何故、問題児部屋と呼ばれるかは、その名の通り、問題児で困ったちゃんだからだ。現在は一名しか一室にはいない。
こいつは公務執行妨害で捕まったらしいが、馬鹿なので、一ヶ月以上も留置所にいる。三度の飯を食べ終わると元気になるのか、いつも大声で叫びだす。
「俺の家族に連絡しろー、警察!俺の家庭を壊す気か〜、警察!どういう事だ、警察!」
こんな感じで十五分はずっと鉄格子越しに吠えている。
始まると、またかと俺たちは大笑いした。
一日に食事後、三回。これが彼の日課になっている。
ある日、隣の一室にもう一人の奴が入ってきた。
一室に入るなんて、どんな奴だろう?
俺とヤクザ者は、色々好き勝手に想像をして話し合った。
そんな中、声が聞こえてきた。
「担当さん、座ってればいいんでしょ?」
「ん?」
「俺、ここに座っていればいいんだよね?」
「ああ、中で大人しく座ってろ」
「うん、うん…。俺、ここに座ってればいいんでしょ?だ、駄目?」
「駄目じゃない。そのまま、座ってろ」
「担当さん、立っちゃ駄目なんでしょ?」
「うるさいぞ、おまえ。五番、大人しく座ってろ!」
「うん、うん…。座ってればいいんだよね?だ、駄目?」
「うるせえって言ってんだろ!少しは黙ってろ!」
「座ってればいいんでしょ?駄目?」
俺とヤクザ者は、お互い顔を見合わせて大笑いした。
中にいると、ほとんど自由がないので、退屈だった。でも、ちょっとは退屈しのぎになりそうだ。おかしな奴が入ってきたものである。
五番……。
新たな要注意人物が、俺たちの仲間に加わった。
同室の若い自衛官は年を聞くと、まだ二十歳だった。
いつも両膝を抱えてうずくまり、会話に参加しようともしない。
「何をして、ここに来たの?」
そう優しく聞いても、一切、答えようとしなかった。
ある日、その自衛官に面会があった。面会時間は十分。しかし、彼は五分もしない内に戻ってきた。
「どうしたの?」
暗い表情の自衛官に声を掛けると、泣きそうな顔になり少しずつ話し出した。
「お袋が面会に来て、おいおい泣かれまして……」
「捕まっちゃったもんは、しょうがねえじゃんよ」
「いえ…、そうじゃなくて…。もう、自分は終わりです……」
「何を大袈裟な…。何があったんだよ?」
「実は、初めての外出で、浮かれていたんです……」
「うん、それで?」
「酒を飲んで、池袋の駅でフラフラしながら、携帯の写メで女のスカートの中をパシャッて撮って、『えへへ……』って笑っていると、気付いたら駅員に両脇を抱えられて、ここにいました……」
「当たり前だろ!馬鹿か、おまえは?」
「でも、パンツは、写ってなかったんですよ?スカートの中で真っ暗で……」
「そういう問題じゃねえよ!」
「隊の誰一人も、僕のところに来てくれません…。もう終わりです…。ああ、人生、真っ暗です……」
こんな馬鹿に国は税金を払っているのだ。本当にどうしょうもない奴である。
「神威ちゃんよ〜」
ヤクザ者が声を掛けてくる。
「どうしました?」
「自衛隊ってよ。普段は、連帯だ、責任だってギャーギャー騒いでいるけどさ。結局、こういう時になると、本性って見えるよな」
「……と言うと?」
「俺の場合、傷害でここに入った訳よ。で、周りの仲間はさ、弁護士は当たり前だけど、色々動き回って、出来る限り早く俺を出そうと動く訳ね。もちろん、面会も差し入れもたくさん持ってね」
「いいっすねえ…。俺なんて、検事に目をつけられちゃってるから、一切、接見禁止ですよ」
「だって神威ちゃんは、アルバイトだって言い張ってんだろ?」
「まあ、形式上は……」
「神威ちゃん見て、バイトだって思う奴はいねえよ」
そう言って、ヤクザ者は大笑いした。
「まあ、そりゃそうですけどね…。でも、叩いても誇りを出さなきゃ、俺は不起訴になりますからね」
「そうだな。それにしても、僕ちゃん、元気ねえよな」
「まあ、自衛隊って偉そうな事を言ってても、口先だけの奴ら、多いですからね」
過去、自衛隊に所属していた俺は、嫌ってほど、あそこの実態を知っている。
「ほんと、自衛隊なんかより、ヤクザ者のほうが、全然、生き方が格好いいよなぁ……」
それに関しては、本当に同感だと思った。同室のヤクザ者は、一日数名もの面会に来てくれる人間がいた。彼を何とかしようと、同じ組員が色々と動いてくれているのだ。
俺は刑事に呼ばれ、取調べを受けに行く。
留置所を出る際、手錠を掛けられ、縄で縛られる。その状態で、生活安全課の取調室に向かう。二室を出て、一室を通り過ぎる途中、俺は新参者の変な奴をチェックした。
「おい、余所見すんな。真っ直ぐ歩け、十五番!」
堅い性格の担当は、真面目な顔で言ってくる。
「いいじゃねえの、堅い事、抜かしてんじゃねえって」
さっきの変な奴……。
見て俺は驚いた。
パッと見、ただの乞食にしか見えなかったからである。
髪の毛はすっかり禿げ上がり、耳の上の部分しか残っていない。その部分もずっと風呂に入っていないせいか、サリーちゃんのパパのようにボサボサに逆立っていた。
「ほら、さっさと歩け」
まだ若い担当は、俺を強引に押した。俺は一瞬、立ち止まり睨みつける。
「おいおい、担当さんよ。大人しく俺が笑顔でいるんだから、あんまそういう真似すんなよ。娑婆に出たらよ…。おまえなんぞ……」
「な、何だ、貴様……」
若い担当の顔が青ざめる。
格もねえのに無理して粋がっているからだよ。俺は心の中でほくそ笑んだ。まあ、本当に揉めても意味がない。俺は笑顔で微笑みかけた。
「ほらほら、早く行かないと、刑事さんに怒られますよ。担当さん……」
俺の担当刑事は、かなり変わっている男だった。
三国志の話や古代史の話が大好きな変わった刑事である。
「古代史によるとな、アメリカ大陸には日本人の先祖がいるんだ。昔は……」
「おまえ、パソコンやるだろ?いいか、それなら近くにサボテンを置いたほうがいいぞ。サボテンはパソコンから出る電磁波をうまく吸収する役割が……」
「君が代って国歌があるだろ?さ〜ざ〜れ〜、い〜し〜の〜って。あれはだな。九州が発祥の地で、さざれやちよ神社って言うのがあるらしいんだ……」
……と常にこんな感じで刑事である。要は、犯罪とは何の関係もない話が大好きなのである。
最初の取調べ時に、自分が捕まった事を女に連絡したいと、無茶なお願いをした時も、俺の目をジッと見て、「わかった。おまえの目は悪人ではない」……と言い、電話するのを許可してくれたぐらいである。
普通ならありえない話であった。
俺は、運がいい……。
二日めの取調べも、俺は図に乗って言ってみた。
「刑事さん…。実は、今週の土曜日、学生時代の恩師のところへ、女を紹介しに行くところだったんですよ」
「で、何だ?」
「いや、あのですね……。このままだと恩師に対し、無礼な真似をする事になるじゃないですか?」
「しょうがないだろう。捕まったおまえが悪い」
「でも、婚約している女を紹介しますって言っているのに、ばっくれるのはまずいですよ」
「じゃあ、どうしたいんだ?」
「女に連絡を取りたいんですけど、今はOLなので仕事中です。だから、メールを打っておきたいんですよ…。駄目っすかね……」
俺は、下をうつむきながら、悲しそうな表情になるよう懸命に演技をしてみた。
「しょ、しょうがないな…。早くしろよ」
「あ、ありがとうございます、刑事さん!」
「ば、馬鹿、声がでかいっちゅうの!早く打て!」
携帯の中身は、調べられるとやばいデータが多かった。なので、うまい具合に、それを消しておきたかったのである。
何が入っていたかって?
まずは、浄化作戦時、歌舞伎町に来ていた覆面パトカーの車番である。全部で三十台分以上のナンバーを俺は携帯に控えておいたのだ。
それに、私服で歌舞伎町を歩き回っていた刑事の顔写真も、十名は入っている。
消しておかねば、あとあと面倒になるのは目に見えていた。
まあ、この刑事に対して俺は、嘘はついていない。学生時代の恩師のところへ週末、行く約束をしていたのは本当の事だったし、女を連れて行く約束をしたのも本当の事だったからである。
まずは俺が、巣鴨警察に捕まったというメールを知り合いに送ろう……。
「巣鴨警察にパクられちゃった!」
それだけの短い文を打つと、俺は仲のいい知り合いへ一斉に送信する。その送信メールを削除してから、やばいデータを次々と消した。
それから長ったらしいメールを女宛てに打ち出した。
「刑事さん、ありがとうございます。今、打ち終わりました。これを送っていいでしょうか?」
「どれ?」
俺の書いた長文メールをじっくり眺める刑事。しばらくしてからゆっくりと口を開く。
「駄目だ、これじゃ」
「え、何でですか?」
「ここを出たら、一緒になろう…。その台詞が抜けてるぞ!書いてやれ……」
「何を言ってんですか、まったく……」
俺は、刑事を無視してメールを送信した。
いつものように取調べが始まる。
「まず、おまえは歌舞伎町の……」
「ねえねえ、刑事さん」
「何だ?」
「昨日、言ってた三国志と日本が繋がりがあるとかって話…。あれって……」
「おうおう、それか!ちょっと待ってろ」
担当刑事は嬉しそうに二枚の白い紙を持ってきて、地図を書き出す。
中国の三国志時代の地図を丁寧に書いているようだ。
これで今日も、いい退屈しのぎが出来る。
不思議なもので、取調べ中は全館禁煙のはずの警察署が、ここだけは煙草を吸ってもいい場所になった。法律上、そうさせるように定められているらしい。だから生活安全課の刑事たちも、ついでにと煙草を吸いに色々やってくる。
「おい、おまえが本当はあの店のオーナーなんだろ?アルバイトなんて惚けやがって」
「いえいえ、俺は週に一度のアルバイトですって。小説を書くネタにしたかったって何度も言ってるじゃないですか。まったくしつこいなあ」
まるで会話は物騒な内容なのに、お互い世間話をしているかのように笑顔だった。
「おい、名前はっ!貴様、名前はってさっきから言ってんだろ!」
隣の取調室から、怒鳴り声と共に机を叩く音が聞こえた。テレビのドラマを見ているような感じに思える。
「隣、すごい凶悪犯でも入ってきたんですか?ちょっと覗かして下さいよ」
「駄目だ。大人しく座ってろ」
「ちぇ、ケチだな〜」
「うるさい、黙ってろ。そうそう、おまえ、何か飲むか?コーヒーでいいか?」
「いや、コーラがいいです」
担当刑事は、嫌そうな顔をして俺を見る。
「十倍の料金とるぞ?」
「ええ、構いませんよ。十倍でも、二十倍でも…。コーラが飲めれば俺は何だっていいですよ」
嘘ではなかった。この中にいると、どうしても炭酸が飲みたくなってくる。いつも水道水か、ただのお湯だけなのだ。
食事の時、飲み物を注いでくれる人間がいるが、決まって偉そうにこう言う。
「ここは全員ハーフでいいのかな?」
ハーフといっても、ただの水道水とお湯を混ぜただけのぬるま湯である。
「何がハーフだ、馬鹿野郎!たまにはお茶でも持って来い!」
「うるせぇー、じゃあ、何もやらんぞ!」
いつも目くそ鼻くそのような会話になった。
そういった環境のせいか、死ぬほどコーラが飲みたかった。
「まったく……」
呆れ顔の刑事。
「頼みますよ。留置にいると、炭酸もの飲めないじゃないですか。お願いしますよ」
「…たく、しょうがねーな…。わざわざコーラ買うから、おまえの金をだなんて留置の人間に言える訳ねえだろが…。俺の奢りだ。感謝しろよ!」
「当たり前じゃないですか。俺はいつも感謝してますよ。刑事さんのほうへ足向けて寝られないですからね」
「嘘こけ!俺がどの辺に住んでいるのかも知らんくせに……」
担当の刑事は、ブツブツ言いつつも、ズボンのポッケから小銭を取り出し、部下にコーラを買ってくるように命じる。
「あ、刑事さん!」
「何だ?」
「出来れば、この階の自販機じゃなく、二階にあったペプシの五百がいいです」
「おまえなあ……」
「だって、どうせ飲むなら量が多いほうがいいでしょ?」
「しょうがねえな…。買ってきてやれ」
苦虫を潰したような顔で、若い刑事は取調室を出て行く。警察をパシリにして、しかも奢らせるコーラは格別にうまかった。
隣からは、ずっと怒鳴り声が聞こえていた。非常に気になる。何時間経っても、「おまえの名前は!」の、繰り返しだった。
昼になると食事の為、一度、留置所に戻される。
俺は生活安全課を出る際、隣の部屋をさり気なく覗く。
危なく吹きだしそうになった。
なんと一室の乞食が、取調べを受けていたのである。彼は、自分の名前さえも満足に言えないようであった。
今日は月曜日。
昼飯時に担当が、明日の自弁を注文するか聞きに来る。明日はカレーライス。うまくないが、それでもほとんどの人間が頼む。
一室は問題児集団扱いで、自弁の注文すら聞いてもらえない。
昼飯を喰い終わり、再び手錠を掛けて取り調べに向かう途中、俺は一室の乞食に話しかけた。
「おい、五番。五番……」
「ん、ん…。立てばいいの?立てばいいんでしょ?」
乞食は鉄格子の前まで来た。
「おい、十五番。勝手に話をするな。五番、おまえはちゃんと座ってろ」
「明日はカレーだよ……」
俺はボソッと呟く。
乞食の反応が変わる。
鉄格子にしがみつき、「カ、カレー……」と大声を出しながら興奮しだした。
「おい、五番。大人しく座ってろ!」
「担当さん、明日はカ、カレーなんでしょ?カレーだよね?だ、駄目?カ、カレー……」
「うるせえ、座ってろ!」
「カ、カ、カレー…。だ、駄目?カレー……」
俺は笑いながら、取調室へ向かった。
この日、五番は、ずっと明日はカレーなのかと、担当に訪ねていた。
「カレー」という単語を千回は叫んだんじゃないだろうか。
交替で代わる担当も、みんな、さすがにうんざりして無視をしている。
同室のヤクザ者は、俺に笑いながら尋ねてきた。
「ねえ、神威ちゃん。何で彼は、カレーにあんなこだわるんだろ?」
「例えばですけどね。歌舞伎町とか繁華街って、残飯にしても結構いいものがあるじゃないですか」
「そうだね」
「でも、カレーって結局のところ、残飯でも液体だから、生ゴミと混じってしまう。だから、彼らはカレーライスというものをちゃんとした形で食べられないからこそ、あれだけのこだわりがあるんですよ」
「そ、そうか…。なるほど……」
ヤクザ者も納得した表情で、隣の部屋の方向を見ていた。
朝の運動で、煙草を吸っている時、五番の乞食と一緒になった。乞食は煙草を吸いたそうにして見ていたから、俺は吸いかけのセブンスターをあげようとする。
乞食は手を震わせながら、俺の煙草をとろうとした。
「おい、十五番。駄目だ。規則で他人にものをあげてはいけないんだぞ」
融通の利かない担当が注意をしてくる。
「いいじゃねえっすか。煙草の一口や二口ぐらい」
「駄目だ。規則で駄目と決まってるんだ」
乞食は物欲しそうな顔で、ジッと俺のセブンスターを眺めていた。
「可哀相に…。彼だって煙草ぐらい吸いたいだろうにな」
俺は独り言のように嫌味を言いながら、担当を睨みつけた。
その日の昼飯時は、うるさくて堪らなかった。
一室の乞食が、ずっと鉄格子にへばりつき、「カレー、カレー……」と千回ぐらい叫んでいた。
からかい半分で悪戯に俺が言った台詞。
彼にとても悪い事をしたみたいで、居心地が悪い。
「担当さん。俺の金からでいいから、五番にカレーライスをくれてやってよ。頼むよ」
「駄目だ。気持ちは分かるけど、それは許可出来ないんだ…」
「俺の金をどう使おうと自由じゃねえか。な、頼むよ」
「悪い…、本当に規則で禁止にされているんだ。すまない」
担当も力になれず、非常にすまないという表情をしていた。
これ以上は、何を言っても変わらないか…。
「カ、カレー……」
初めは笑って聞いていたが、何だか乞食がとても哀れに感じた。
ここを出たら、好きなだけカレーライスを奢ってやりたい。
そんな事を考えた。
地検というものがある。
捕まった人間に聞けば、大抵の人間が口を揃えて言うだろう。
「地検だけは絶対に嫌だ。あれだけは辛いよな……」
俺の知り合いは、みんな、口をそろえてそう言う。
霞ヶ関にある東京地方検察所。略して地検と呼ばれる。
警察署では、留置所に泊まりながら、警察官の取調べ。
地検ではその上の検事が、尋問をしたりする。簡単に言えば、警察は、検事の犬みたいなものであった。
地検に行く者は、朝早くから護送車に乗せられ、連れて行かれる。
各警察署では、署内に残っている警察官が、犯罪者を護送車に乗るまで見送ってくれた。巣鴨は、池袋署や大塚署などと同じコースで地検に運ばれる。
各署から、地検に行く容疑者が数名ずつ護送車に乗り込んできた。
みんな、手錠を掛けられ、一本の縄で括りつけられる。こんな事しなくても、誰も逃げやしねえって言いたい。
二十二日間の留置生活で、俺は四回、地検に行った。その内、乞食とは二回も同じ日に行く事あった。
不思議な縁でもあるのだろう。
実際の現実をこの目で見て驚いたのが、どの署も留置所は不法滞在の中国人など、外人が半数以上を占めているいう点だった。
チャイニーズマフィアとか、そんなんじゃなく普通に日本で働き、ビザが過ぎてしまった外人がほとんどだった。
俺ら日本人は早い奴で一週間、長くて二ヶ月ぐらいで出られるが、彼ら外人は三ヶ月から半年ぐらいは、留置所にいるようだ。そのあとは別の施設に送られて、強制送還になる。
国の財政が赤字赤字といっているのに、随分と無駄な事をするんだなあと感じた。
硬い椅子…、いや、木のベンチといったほうがいいのか。
地検に着くと、そこに十名ずつくらいの部屋に、各容疑者たちが振り分けられる。
その硬いベンチのところで、手錠をきつく掛けられたままの状態で、検事と接する十分から十五分以外は、十時間ほど話もせずに、ジッとしていなくてはいけない。
トイレも、西部劇に出てくるバーの扉が申し訳なさ程度にあるだけで、同じ部屋内にある。下痢の奴がいたら、もう最悪だ。臭いが部屋の中を充満する。それを黙って耐えねばならないのだ。
片手だけ手錠を外してもらう状態を片手錠と言う。その状態で、鉄格子の窓から両腕でクルクルとトイレットペーパーを巻きだしたら、要注意である。その人間がこれからここでクソをするぞといった合図になるからだ。
集合時に、一人一人、名前と何署からか来たかを呼ばれる。
「池袋、田中」
「神田、鈴木」
「八王子、佐藤」……と、いった感じである。
名前を呼ばれたら、元気良く返事をして立たねばならない。
俺の横に乞食がボーっとしながら、座っている。今、彼は何を考えているのだろうか?
「巣鴨、ふ、不詳……」
誰も立つ者はいなかった。
「巣鴨、不詳…。いないのか?」
周りがザワザワざわめいている。
俺は吹きだしそうになった。犯罪者だけで、千人はいる地検の中、俺だけが知っているといっても過言ではない。
不詳…、つまり名無し、身元不詳と、警官は言いたいのだろう。
横にいる乞食の膝を軽く突く。
「ん、ん……」
「立たないと駄目だよ。名前、呼んでる」
小声で囁くと、乞食はでかい声で話しだした。
「ん、立つの?立たないと駄目?座ってればいいでしょ?」
「違う。立つの。立たなきゃ駄目」
「立ってればいいの?座っててもいいでしょ?明日はカレー?駄目?」
「カレーじゃない。立つの。た・つ・の!」
俺とのやり取りで、シーンと静まり返った地検の地下一階は、みんなの笑い声でいっぱいになった。
数十名の警官が必死に注意するが、千人の笑い声を黙らせるには、非常に手間取ったみたいである。俺は、なかなかいい体験を出来たようだ。
巣鴨はいつも地検の帰りが遅かった。
場所的には近いのに、グループ内で一番遠い池袋署から順に送っていくからである。
巣鴨署に到着するのは最後なので、イツも夜の八時を過ぎていた。
十二時にコッペパン二つしか、昼食が出ないので、腹はペコペコだった。本来なら五時に出る夕食を八時過ぎに食べさせられるのだから、当たり前の事だが…。
地検メンバーたちは、とって置いてくれた飯を接見室でまとまって食べる。接見室とは、一般的にいうと、面会室である。
俺は好き嫌いがとても多く、いつもおかずを残していた。
元々肉食なのに、そんなものはほとんど出ない。不満だらけだったが、ここにいる以上、文句を言っても仕方がなかった。
乞食は、とてもおいしそうにご飯を食べる。「カ、カレー…」と、こだわる彼に罪悪感を覚えていたので、俺は自分のおかずを何品かあげようと思った。
「ねえ、五番。おかずいる?」
「ん、ん?」
「これ、お・か・ず…。ほしい?」
手でジェスチャーも加えて説明する。
「うん、うん」
俺は笑顔でおかずを半分以上あげた。乞食は急いでそれらを胃袋に詰め込む。
「誰もとる奴なんていないよ。もっと、ゆっくり食べれば?」
乞食は俺の言葉など耳に入っていないような感じで、アッという間にご飯を食べ終えた。
夜九時半、消灯時間になって、留置所全体が薄暗くなる。
こんな早い時間に、寝られる人間など誰もいない。そんな人間は、こんな場所に捕まって来るような事はしないであろう。
俺は同室のヤクザ者と、この時間を楽しみにしていた。お互いの情報や、馬鹿話に花を咲かせた。
丸暴に今日、取調べを受けたヤクザ者は、面白い情報を仕入れてきた。
「神威ちゃん、知ってる?」
「何がですか?」
「隣の乞食、いるじゃん」
「ええ、それが何か?」
「何で捕まったのかが、分かったんだよ」
「へえ」
そういうと、ヤクザ者は満面の笑みを浮かべた。非常に興味津々な話題である。
「あのね、模擬刀ってあんじゃん」
「ええ、偽者の刀ですよね」
「うん、それをどこで拾ったのか知らないけど、二本手に持ったまま、池袋駅に入ったんだって……」
「すごい話ですね」
俺はあの乞食が模擬刀を持って、駅構内に入る様子を思い浮かべた。
「それで、夕方のラッシュ時の山手線にね。そのまま入ったんだってさ……」
「それは怖いですね…」
「だろ?でも、神威ちゃんでも怖いか……」
「だって、そんな奴が、刀持っていたら、すげー嫌じゃないですか」
「でも、喧嘩すれば、神威ちゃんなら勝てるだろ?」
「そういう問題じゃないです。そんな奴いたら、一目散に俺は、怖いから逃げますよ。真っ先に……」
「やっぱ怖いか……」
真面目な顔でヤクザ者が言うので、おかしくなってしまった。
「じゃあ、山手線…、大パニックだったんじゃないですか?」
「ああ、大パニックだろうな……」
リアルにその様子が想像出来た。
あれだけの満員電車が、その一車両だけガランと誰もいなくなったそうである。
乞食は普通に椅子に座り、何もせず大人しくしていたところを大塚駅で確保されたらしい……。
担当にその事を確認すると、「何でよりによって、うちの管轄で捕まるんだよな〜」と、しかめっ面で愚痴をこぼしていた。
俺が入ってから二週間ぐらいで、ヤクザ者は先に釈放された。
「今度、神威ちゃんが出てきたら、歌舞伎町で会おうよ。飯でも一緒に喰おうね」
「はい、よろこんで。釈放、おめでとうございます。これで娘さんの運動会に、間に合うから良かったじゃないですか」
「ありがとう。やっぱそうだね。それだけが気掛かりだったからね」
ヤクザ者は、笑顔で俺とお別れを済ませる。
俺は、彼の連絡先を聞いておく事にした。ぜひ、娑婆に出たら一度ゆっくり飯を食いながら話をしたい。
「ああ、それなら神威ちゃんもよく知ってる店あるでしょ?そこの隣にうちの事務所あるからさ。そこに顔出しにおいでよ」
「分かりました。出たら、挨拶に行きますね」
「神威ちゃんが、うちの組に入ってくれたら嬉しいんだけどなぁ……」
「それは無理っすよ」
「残念だな〜…。まあ、会ったら飯食おうね」
「ええ、ぜひ!」
彼がいなくなって、俺は寂しかった。あれだけ話の合う話し相手が、急にいなくなったのである。退屈でしょうがない。
しかし、彼の娘さんの運動会に間に合うそうなので、本当に良かった。「目に入れても痛くないよ、きっと…」と、笑顔で答えたヤクザ者。
虐待する親なんかより、素晴らしい事だと思った。
今頃、肉を好きなだけ喰っているのかなあ……。
女を抱きまくっているのかなあ……。
想像すればするほど、羨ましかった。
同室には、中国人が二人いた。
委さんという五十歳のおじさんと、林飛龍という二十五歳の若い男である。
国に帰ったら、中華料理の弁当屋をやりたいという委さんは、いつも寝ながら炒飯か何かを作っている素振りをしていた。寝た状態で、宙に向かってフライパンを握り、おたまで何かを引っかき回している。
朝昼晩と、日本に来て三つの仕事を真面目に働いていたそうだ。ビザも切れ、給料をもらい、横浜の中華街にいる知り合いに会ってから帰ろうとした時、運悪く、職質を受け、捕まったそうである。
もう、ここに三ヶ月はいるみたいだ。
一時、競馬にはまり、向こうに住む嫁と娘に、こっ酷く怒られたようである。
「神威さん、向こう、弁当箱ない。神威さん、中で色々分かれてる弁当箱、中国ない。どこで売ってる?」
「う〜ん、日本だと、河童橋商店街まで行けば、あるでしょう」
「え、どこ?」
「河童橋。う〜ん、浅草のほうですよ」
「分かんない。駄目」
そう言って、委さんは悔しそうな顔をした。
飛龍は、どこか子供らしい幼い部分が残っている感じで、話していて非常に面白かった。
一度目は、二百万を積んで、偽留学生のビザを手に入れたようだ。しかし、日本に到着して、すぐ、捕まったらしい。
「何でおまえ、日本に留学しにきたのに、日本語全然できないんだ?」と、怪しまれたそうである。
二度目も、三ヶ月持たなかった。新大久保にある普通のファミリーレストランで働き、道を歩いているところを刑事に見つかり、職質を受け、また捕まったのだ。
運がないのもそうだが、可哀相という以外、言葉が見つからない。
それでも飛龍は、いつも元気いっぱいだった。時には中国の訳分からない歌を口ずさみ、眠くなると床に転がり昼寝をしている。
一日に読ませてくれる本は、午前で三冊と、午後で三冊。
いつも俺は、漫画本二冊と、小説一冊を選んだ。飛龍は、枕代わりに幅のある本を三冊選んでいる。
たまたま睡魔が襲い、寝ようとしている時、飛龍が話し掛けてきた。
「神威さ。神威さ」
神威さんと、言いたいのだろうが、飛龍の日本語は片言以上に発音が酷かった。
「ん、どうした?」
「神威さ、やってる?やってる?」
そう言って、飛龍は股間の辺りに右手を軽く握り、上下に素早く動かした。マスターベーションしたのかと聞きたかったのだろう。
「する訳ねえだろ!」
留置所のトイレは、部屋の片隅にあり、一応ドアはついているものの、ガラスがあり、中が見られるようになっていた。悪さしないように、警察側の防御策でもあるのだ。
「俺、六回。ここ、来て、六回、やった」
人目もはばからず、飛龍は我慢できなかったのだろう。
「はいはい…。飛龍、俺、ちょっと眠いから寝かせてよ……」
そのまま目を閉じると、飛龍は俺の膝辺りに自分の頭をコテンと乗せ、横になった。
どうやら、彼に懐かれたようである。男に膝枕など気持ち悪いものであるが、無邪気な飛龍の顔を見ていると、幼い子を寝かせているような感覚になった。
そんな飛龍に、面会しに来た人間がいた。
「おい、七番。接見だ」
誰か友達でも来てくれたのだろうか?
飛龍は、俺のほうを見て、一瞬だけニヤリと笑った。
部屋で横になりながら天井を眺めていると、三分もしないで飛龍は帰ってくる。
「どうした、飛龍?」
「武狭、武祖、小龍…。三人、友達、面会、来た。でも、日本語駄目、おまえ、帰れ。帰ってきた」
可哀相に……。
まともに日本語の話せない飛龍は、中国語での会話を許されなかったのである。
「ほら、飛龍。エロ本だぞ」
留置所に置いてある本の中には、競争率が激しいが、エロ本もあった。元気付けようと、俺はエロ本を借りておいたのだが、飛龍は、「神威さ、いい……」とだけ短く答えると、その場でふて寝してしまった。
そんな俺も、とうとう釈放される日が来た。
様々な知略を駆使して、俺は起訴まで持っていかせなかった。
検事は俺の顔を見る度、悔しそうな顔をした。叩けば埃が出る体でも、埃を出さないようにするやり方もある。叩いても、埃が出なければ、起訴にはならない。
出る前日、担当の刑事が、こっそり内緒で教えてくれた。
「明日は五本だと思うぞ…。多分だぞ。多分……」
結果を知っていても、警察官は容疑者に情報を言ってはいけない。
だから、向こうの出すヒントで、こっちがある程度、勝手に解釈する必要があるのだ。
五本…。
明日は、罰金五十万で、起訴されずに俺は娑婆に戻れる。
自分の思うようにならず、検事の奴、悔しくて堪らないだろうな……。
俺は自然と口元がにやけた。
このギリギリまで、留置所に閉じ込められた二十二日間を振り返る。
退屈で窮屈だったが、俺は一度、ここに来られて本当に勉強になった。
強がりでも何でもなく、いい経験が出来たと思う。
俺が捕まった事で、心配をかけたみんなには申し訳ないが、法に違反しただけで、悪い事をしたという気持ちはどこにもなかった。
留置所で仲良くなった人間とは、連絡先をちゃんと控えていた。
どうやったかって……?
簡単な話である。
「弁護士に手紙を書くから、俺の便箋をお願いします」と担当にお願いする。
適当な文章を書いておき、それをグシャグシャに丸める。便箋の後ろのほうの部分に、仲良くなった相手の連絡先を聞いて書いておくのだ。
担当には、「やっぱ考えがいまいちまとまらないからいいや」とだけ答え、便箋を自分のロッカーにしまってもらう。
これでチェックする担当など、ほとんどいやしない。
あのバカボンパパに似た検事……。
あの野郎が歌舞伎町で偉そうに歩いていたら、監視カメラの見えないところで、飛び膝蹴りをぶち込んでやろう。
二十二日ぶりに黒いスーツを着て、両手に手錠をはめたまま、鉄格子の外を歩く。
他の部屋の仲間にも、簡単な挨拶を笑顔で済ませる。
みんな、笑顔で「頑張ってね」と祝福してくれた。まだしばらくの人たちが、檻の内側で時間を過ごすようなのに……。
一室の前を通る。
五番の乞食が鉄格子にしがみついて、俺を見ていた。
「五番…。俺、今日でここ、出るの。じゃあね、バイバイ」
「え、俺も出るの?ここ出るの?」
「ううん、違うよ。出るのは、俺だけ。五番はまだ、そこ」
「え、座ってればいいの?座ってればいいんでしょ?だ、駄目?」
「全然、駄目じゃないよ。ゆっくり好きに座っていればいいんだよ。じゃあね」
俺は笑顔で乞食に微笑んだ。
「まだ、ここ、いれるの?」
「うん、まだ大丈夫。まだ、ご飯、三回タダ。お風呂、五日で一回タダ。分かる?」
「ん、うん…。ここにいればいいんでしょ?だ、駄目?」
「いいんだよ、ここにいればいいんだよ。でも、俺はバイバイなんだ」
「行っちゃうの?ここ、いちゃ、だ、駄目?」
「ごめんね、俺はバイバイなんだ。五番はここにいていいんだよ」
乞食と話をしていて、何故か、別れが辛かった。
大袈裟なジェスチャーも含め、俺は会話をした。
いつもなら「喋るな」と、うるさい担当も、黙ったまま俺と乞食の会話を眺めていた。
乞食は寂しそうな表情で、俺を見送ってくれた。
留置所を出ると、担当が俺に言ってくる。
「おまえ、接見禁止だったろ。それでも面会に来て差し入れだけしてくれた人が三十四人もいたんだぞ。ほら、この雑誌を見ろ」
雑誌は様々な種類があり、繋げると五メートルぐらいあった。仲間の優しさが心に染み渡る。ありがたい話だ。
「どうすんだ、これ?」
「俺はこれからいくらでも読めます。中の仲間に全部差し入れしてやって下さい。気持ちだけ、俺はもらっておきます」
「そっか、ありがとな。みんな、喜ぶよ」
俺は笑顔で手錠を掛けたまま、護送車へ向かった。
「もう捕まるような真似、すんなよ」
「分かってますよ、刑事さん。お世話になりました」
「彼女と籍を入れてやるんだぞ」
「まだ、そんな事言ってるし…。あ、刑事さん……」
「ん、何だ?」
「俺、小説書いてるって言ったじゃないですか?」
「ああ、どうした?」
「あとで、俺の書いた処女作『新宿クレッシェンド』を巣鴨警察署の生活安全課の刑事さん宛てで、プレゼントしますよ」
「何だ、おまえ、本当に小説書いてたのか?」
「嘘はつきませんよ。それに俺の書いた小説、刑事さんに見てもらいたかったんですよ」
「そうか…。ありがとな」
「刑事さんには、よくコーラ奢ってもらったじゃないですか」
「そうかそうか……」
俺は担当の刑事と握手をして、護送車に乗り込んだ。
もうじき肉が喰えるんだ。
頭の中は、血の滴るステーキでいっぱいになっていた。
あ、五番にどうにかしてカレーライス、ご馳走してやりたかったな……。
―了―
タイトル『かれーらいす』 作者 岩上智一郎
執筆期間 2006年6月25日(一日) 原稿用紙51枚
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