挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。

秋の名残り

作者:リンドウノミチヤ
前作「KYRIE」エピローグ部分の別視点の物語。




その薔薇は、彼女が最も気に入っていた薔薇だった。
幾重にも重なった白い花弁に青灰色の陰が幽かにさす、その美しくも密やかな佇まいが好ましかった。
とは言え、最初にその薔薇を気に入ったのは夫だったのだが。

「あんたに似ているよな」

夫は照れたように笑う。彼は時々史緒音の中に彼女のかつての仮の姿、天使とも堕天使とも呼ばれた線の細い少年を見出そうとする。呆れたロマンティストね。史緒音は心の中で皮肉っぽく呟く。最早あの頃の少年は遥か荒野に去ってしまい、私の中には何処にも存在しないのに。

「なあ、今夜の夕食はなんなんだ?台所の食材から推理するとだな、きっと俺の好物だよな?」

薔薇がその季節を終えようとする秋の庭で、仕事を早めに済ませて帰宅した夫が笑顔で聞いて来た。十数年前の怒濤のような事件をくぐり抜け彼女の許にやってきた彼は、妻と子供達に囲まれて理想通りの悠々自適な人生を満喫している。まるで陽光のような、相変わらず能天気なその笑顔に、彼女は思わず微笑を向け言葉を返そうとした。

不意に視界が暗転した。目に前にいた筈の夫はかき消え、彼女は暗い廃園の中に立っていた。嵐の前の夕暮れのごとく太陽は見えなかった。夫と子供達は何処にもおらず、暗黒の冷たい世界に彼女はひとりいた。思わず身体をかき抱いて彼女は自分の指が少年のごとく白く骨ばっていることに気付いた。腕も足も体も、硬質な少年のそれになっている。かつての忌まわしい、堕天使のごとき少年の姿に戻った彼女は無防備なまま暗闇に立ち竦んだ。喉は寒さに縛り付けられ、悲鳴を上げることも泣くことも叶わなかったが、唯一残された聴覚で、自らが死の世界の境界に立っているのだと悟った。

ああ、私はもうすぐ死ぬのだな。

瞼すら動かせないまま史緒音は思う。
思春期を迎えつつある双子達のこと以外は、この世にさして未練はなかった。自分は為すべき事を全てやり遂げたのだから。それでもこの十数年、穏やかな日々の中で、心の奥底で唯一恐れていたことがある。
目が覚めると家の中に誰もおらず、 まるで幼かった日々そのままに部屋の中にひとりきりで、今迄の生活は自分の密やかな願望が呼んだ儚い夢に過ぎないのではないだろうかという、そんな恐怖だ。夜が白む度、私はいままで何度その予感に苛まれながら目を開けたことか。だがそんな恐れも、もう終わる。

鼓膜の側で大声が聞こえた。大丈夫だからな、今救急車を呼んだからな、まるで自らに言い聞かせるように叫び繰り返し彼女の名を呼ぶその声。

そうだ、ただひとつ心残りがあった。

統也。貴方は私といて幸せだったのだろうか。故国からこんなにも遠く離れた場所で生きることを余儀無くされ、肉親とも会えず、それでも貴方は幸せだったのだろうか。私には分からない。貴方が私を選び、数年間共に暮らしていた間も分からなかった。貴方がかつて追い求めた少年は何処にもいないというのに。

史緒音は目を開けた。光さす薔薇の庭だった。花びらが辺り一面零れた地面にガーデニング姿のままの自分が横たわっており、その身体に覆いかぶさるようにしゃがみ込んだ夫が身も世もなく妻の名を叫んでいる。地に這い蹲り鬣を振り乱す獣のような慟哭だった。遥か昔から知っている、懐かしい声だった。

なあんだ、私はひとりぼっちじゃなかったんだ。

彼女は微笑んだ。

ごめんね統也、私は貴方に、最後まで好きだと言えなかった気がするよ。貴方は私に何度も言ってくれたのに、ごめん。

最早指ひとつ動かすことは叶わなかったが、史緒音は最後の意識の中で繰り返し、彼女の名を呼ぶ声にそう応えていた。





秋の名残り 了

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ