09-アラナワ
「はぁ、はぁ、はぁ――!」
こうして追っ手の三人は休憩がてら喋っていた。が、また別の場所では少年はただ逃げ続けていた。
「ひぃ…」
だが長いこと走っていたせいで息がすっかり切れた。
一人、廊下で荒い息を吐き立ち止まる彼。呼吸するがこんなに苦しいなんて、今まで思ったことがなかった。
と、目の前にあるものをみつけた。
「……?」
ぼんやりとした明かりの下、見るとそれはロープだった。壁にのフックに無造作にひっかけてある。
別に何と言うことはない。しかし、どうしてこんなところに? もしかして罠か。ひっぱると何か怖い仕掛けが下りてくるのか?
と警戒してぐるっと周囲を見てみたが、そんな様子はない。縄はただひっかかっているだけだ。
もしかして、これは武器の一つ? 試験者に使えと言っているのだろうか。
建物に入る前、そんなものの説明は受けていなかった。が、彼はそもそも重要な講義をすっとばして此処に来てしまった。
情報がないのはやはり不利で、これをどうしたものか考えあぐねる。それでも彼は好奇心に勝てず、その縄をひっぱった。
フックからするっと抜けたそれは、彼の手に素直におさまった。
縄をとった瞬間上からギロチン刃が落ちてきて、そこにいる者を切断するとか、あるいは床が跳ね上がって壁になり、彼をその場に閉じ込めるとか、
もしくは縄そのものがうねうね動いて彼の体にからみつくという怪奇現象も起こさない。本当にただのロープである。
また、ロープは荒縄だった。本当に、どこにでもある縄。珍しいことは何一つない。
「ふーん…」
疲れもまだとれぬまま、彼はただそれをいじった。理由は特にない。ただ手持無沙汰にである。
しかしその時、コツ、コツという足音がした。彼は縄を手にしたまま、はっと顔をあげた。
誰かが歩いてくる。音からして、自分に近づいてきている。
彼は怖くなって逃げ出した。出来ればつま先立ちで、足音を消してそーっと走りたいところだが、そうはいかないのでよたよたと、壁に手をついて逃げていく。
「くそっ」
しかし縄が邪魔だ。持ってても足をひっかけるだけなように思えて早速それを捨てようとした。が、既に遅かった。
「さっきはよくも、あの子を使って私を刺そうとしてくれましたねぇ」
目の前には足。そして上からふってくるのは気取った声。前も聞いた、この声の主は――名前は知らないが、メガネの男。
忘れもしない。いちばん初めに、自分に体当たりをブチかましてくれた人だ。
「うっ…」
顔を見上げると、嫌味っぽく笑っている表情が見えた。…それだけならまだ良いのだが、声からして結構怒っているようだ。
これはマズイと逃げようとしたが、そのとき不幸にして足がもつれ、彼はどたりと転がった。
「いてぇっ」
ゆっくり伸びている暇はなくて、彼は慌てて身を反転させて立ち上がった。が、腕をガシッとつかまれた。
「追い詰めましたよ」
「げっ」
振り返ると、自分のすぐ後ろに男の顔があった。彼は後ろから、相手に両腕を拘束されていた。
「逃げようったってそうはいきません。そのボロボロの体で私から逃げれるもんですか。えぇ?」
「……ひぃ」
「さっきのお返しとして、たっぷり可愛がってあげますよ。それはもうこの建物中に悲鳴が響き渡るほどに」
この男の喋り方は、エイリスと似てるといえば似ている。だが雰囲気が違う。高慢だ。
それにイラッとしつつも、しかし彼はまた別のことを考えた。
エイリスしかり、ミシェルしかり、この男しかり、どうして彼らはこうも残酷なんだろう。
追いつめて捕まえるだけでは飽き足らず、不用意に傷つけ傷めつけ。
こっちは彼らの玩具じゃない。人を何だと思っているんだろう。そもそも、そんな非道なことを躊躇なく出来る神経が信じられない。
だが、これも『ナントカカントカ』という神様仏様を信じているからだろうか。信じる一心でこういうことをやるわけか?
バカバカしい――とはでは言わない。人が何を信じようとそれは勝手だ。が、それで人を傷つけるのはやめてほしいものだ。
そりゃ、自分は書類にサインした。覚えはないけど自分の字で名前を書いていた。が、だからって『限度』というものがあろう。
もしも神様や仏様が本当にいるのなら、彼らにしかるべき天罰を下してほしい。
そんな事を、彼はゴチャゴチャと考えた。それは時間にして二、三秒だっただろうか。
追い詰められて絶望的な状況になった彼の、ほんのわずかな現実逃避だったのかもしれない。
しかしいつまでも逃避は出来ない。彼はぶるっと頭を振り、真面目に「どうしよう」と考えた。
自分は彼に捉えられている。だが男は彼の両腕をつかんでいるので、この状態ではどんな武器も使えない。
男が噛みついてきたら話は別だが、イヌでもあるまいし、まさかそんな…と、思ったのだが。
「ギャッ!」
男の体が動いたのを感じ、とっさに頭を横に向けた。それ幸いで、バクンッと、本当にそういう音が耳元で聞こえた。
「な、何すんだ!」
「噛み殺すんです」
「ふ、ふざけるな。お前はイヌ――あいだだだだぁ!」
言いかけた言葉は途中で悲鳴にかわった。まさかと思ったそれを、相手の男にやられたのだ。後ろ首をガッツリ噛まれ、ギリギリと犬歯をたてられる。
しかし所詮は人の歯と顎、肉食獣でもあるまいし、肉を食いちぎることなど出来ない。が、痛い。
「いでぇ、いでぇよバカ。はなせ、気色悪い。この変態!」
相手はガッチリおさえて離さない。だが気持が悪いのと痛いので彼は暴れに暴れた。
そして、それが功をなした。男の手が緩み、一瞬口が首から外れたのだ。
チャンスを、彼は逃さなかった。すかさず肘でアッパーを相手にかまし、男がひるんだスキに逃げ出した。
が、その時彼は自分の手に縄があるのを見た。何と考える暇はなく、ただ反射的にそれを相手の首にかけた。
「!」
男がびっくりした顔をして、慌てて縄に手をかけた。彼は縄を、男の手ごと引き締めた。
「あ…」
男は何か言いたげだった。が、すぐに首を絞められて何も言えなくなった。代わりに、口から聞こえるのは別の音。
「がッ――げ、ゲッ…!」
苦しそうな声は、息がつまっている何よりの証拠だ。
ヒィヒィと荒い息を吐くのは、今度は彼ではなくこの男。
首を絞められて苦しそうにもがく、それを彼は憐みなどかけらもなく、ただただ全身の力をこめて縄をしめた。
ここで、もし男が縄の内側に手さえかけていなければ、すぐにでも彼に殺されていただろう。
だが不幸中の幸いで両の手が邪魔をし、いまいち完全には絞まらなかった。
「この…!」
それを彼も分かっていて、ますます強く縄を絞める。
「ひ――げ、が……ガッ…!」
男は苦しがってばたばた暴れた。しかし縄はギリギリと首を絞めつけ、息を吸うたびにヒューッという変な音が聞こえる。
「ゲッ……う……ガホッ…」
せき込みつつも、完全にはせき込めない。
立場は一転、男は哀れな姿をさらしたが、彼は容赦をしなかった。
「死ね。いやもっと苦しめ。苦しんで苦しんで死んでいけ!」
「ひッ…あ……げッ…」
手が痛くなるほど縄を絞め、無様に転がる男に、彼は残酷な声をかけ続けた。
「どうした? お前らは苦しみをカミサマホトケサマに捧げるんじゃなかったのか」
「ガ…ゲホッ…ひ……あ……」
「あがいてみろよ。苦しんでみろ。俺は――」
右手で縄の両端を持ち、左手で男の髪を掴んでひっぱる。
両手で引っ張るのに比べて、片手の方がいくぶん力が弱まる。それで息は出来るようになるものの、しかし髪を引っ張られていてはやはり痛い。
男はぜぇぜぇ嘆いたが、彼はその耳元で囁いた。
「今まで痛かったし苦しかったし、そういう思いをしてきたんだよッ! お前らのせいだ」
そして髪から手を放し、ふたたび両手で縄を持った。
「苦しいか? 苦しめよ。たっぷり味わえばいいさ」
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