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04-ニゲルコト


「うぅ…」
だが、今思えばあれが間違いだった。
一昔前の工事現場のような薄い明かりの下、包丁でケガをしたところを様子見、彼は深いため息をついた。

――あの時、食器を片付けるフリして逃げるチャンスを伺えば良かった。

あの後、男は行ってしまって自分は部屋に戻された。しかし時間まで何もすることがなく、彼はただ胃の中の物の消化と吸収に努めることになった。
それでも部屋に入れられてすぐ、逃げれないかとあがき、扉という扉ならぬ、鏡という鏡をチェックした。
だが唯一あいた鏡はトイレへのドアで、食事をした部屋をはじめどこからも鍵がかかっていて出入り出来なかった。
 脱出が叶わず、結局悩みながら、さっきまで寝ていたソファーに横たわることに。
そうして心に思ったのは、自分がどうすればいいのかということ。

日常に絶望し、ヤケになって夜の街に出歩いた。
しかし今まで真面目に生きてきた自分、どうにもこうにも場違いで――…結局居場所がなくて、たどり着いたのが此処だった。
 此処は自分を受け入れてくれたものの、得体も素性も知れない場所だ。薄気味悪いったらありゃしない。
だが家に戻ったって気が滅入るだけだ。いっそ死ぬことも少し考えたが、それにはまだ現世に未練があった。
中途半端すぎる自分を責め、だけどどうしようもないのだとさらに諦め。
男の言う、テストが何なのかはその時まったく分からなかった。でも逃げ出せないし、逃げ出してもろくなことがないし、ならやってみようって…
 だが、こんな目に会うことが分かっていれば、まだ家に帰って鬱になっていた方がマシだったかもしれない。
後悔先にたたずと言う言葉があるが、今がまさにそれだ。
 溜息をつきつつ、彼は腕時計で時間を見てみた。
「まだ十二分しかたってないのか。あーあ…」

今、彼がすべきことは、この廃校の中を一時間逃げ回ることだ。……はっきり言う。バカバカしい。
一分いくらで逃げた分だけお金がもらえるというなら話は別だが、そうでなければ何の得があってこんな事をと思う。
 しかしこれが例の「試験」である。追いかけられるという恐怖、傷つけられるという痛み。それらが相まった精神的圧迫。
それらに耐えることで身をきよめ、自分が受けた苦痛をナントカという――呼び名はその時によってバラバラだから何とも言えない――神仏に捧げる。
これこそ今彼に課せられた使命であり、そして。
「しかし、本当に殺されるかもな」
そして、試験の内容は生半可なものではない。本当に命を狙われる。
殺された者や、自分で立って歩けないほどの大けがを負った者が不合格で、そうでない者は合格。
これは試験の直前に説明された事だったが、あのときは『まさか殺されるなんて冗談だろう』と思っていた。
が、今の状態を見る限りまんざらでもなさそうだ。
「まさか包丁が飛んでくるなんてなぁ」
あれは本当にびっくりした。

逃げろといわれてもアテがなく、よく分からないままぼーっと歩いていると、先の包丁を持った子とばったり出くわし、結果こうなったわけなのだが。
いや「まさか」と最初は思った。全く、よくもまぁ躊躇(ちゅうちょ)なく人に包丁なんて投げられるものだ。
「もう、ようするに誰にも会わなきゃいいんだよな」
だが、ずーっとここに隠れて、誰とも会わないでいればいい。
彼のも任務はあくまで「逃げる」ことであり、その他は何も要求されていない。
時間はあと四十八分だ。それまでひたすら息をひそめて…


と、思ったが。
向こうの方で、扉を開ける音がした。それとすぐ分かるガラガラッ…という音。
「――?」
誰かが扉をあけ、部屋の中に入ったらしい。
追手か? あるいは他の試験者か?
試験者は何も彼だけではない。他にもいる。だが彼は、自分と同じ運命をたどる彼らの顔を知らない。相手も自分の事を知らない。
協力しあえることが望みだし、それは禁じられてはいないが、お互い分からないので会ってみなければなんとも言えない
いやそれより、もし追っ手だったらどうしよう。
ガラガラッという音がもう一度響き、そして、今度はより近くから、またその音がした。

――近づいてきている。

もしかして、それは追手で、部屋をチェックしているのだろうか?
だったらたまったものじゃない。部屋は隠れるには持ってこいだが、閉鎖空間なので逃げるには難しい。
 彼はそーっと扉を開け、きょろきょろと廊下を見渡し、そこから一気に飛び出した。
足音をたてないように、そーっと、そーっと歩く。
教室の扉を開け閉めしていたのが誰かは知らないが、まだ中にいて出てこないらしい。なら、今のスキに。


しかし、天は彼に見方をしなかった。
角を曲がってしまえばもう自分の姿は見えなくなる。そう思って、勢いよくそこを曲がった彼。
だがその瞬間、こともあろうに、先ほど包丁を持って自分を追い回していた子とばっちり鉢合わせをしてしまったのだ。
「いた…」
相手が包丁を構えると同時に、彼はギャーッと声をあげ、まわれ右をしてダッシュで廊下をかけた。しかしだ。
「誰?」
悲鳴を聞きつけたのか、行く手のドアから人が顔をのぞかせた。
メガネをかけた、何かけだるそうな顔をした男だ。だがそんな事はどうだっていい。とにかく、今はあの包丁を持った子から逃げないと。
 そう思い、男を通り過ぎようとした瞬間。
「ぐえっ」
いきなり男が飛び出してきて、彼に体当たりをぶちかましてきた。
またこれがなかなかのダメージで、彼は楽々ぶっとばされて廊下の壁に叩きつけられ、床にべしゃっと落ちた。
「捕まえた」
体当たりしてきた男は自分を見下ろし、かなり高圧的な目つきで見下ろしてきた。
彼にしてみればそれだけでも十分気に入らない。が、四の五の言っていられないのは、その後ろからはぁはぁ息を切らして、包丁を構える子が姿を現したからだ。
 改めて見れば、その子は自分より少し年下のようだった。体が小さく、手前の男の後ろに立つとほとんど見えない。
だが、体がデカかろうとチビであろうと、手に持っているものが危なくていけない。
 名前も知らない、その子は虚ろな瞳で彼を見て……包丁を構え、思いっきり振りかざした。
それが自分に降ってくると思われた、その瞬間に、彼は高飛車に自分を見下ろしている男の腕を引っ張った。
勢いにつられ、ガクッと男が倒れこむ。とそこに、包丁を持った子が――
「あっ」
「うわっ」
間一髪、危険に気がついたその子が腕をわずかにずらしたおかげで、包丁の切っ先は男の背中を免れた。
「チッ」
男が事なきをえてしまった事に短く悪態をつき、彼は自分の上に倒れこんでいる男をのけて脱出した。
「この……姑息な!」
包丁を持っている子より、危なく刺されそうになった男の方が怒って立ち上がる。だがその時にはもう、彼はダッシュで廊下を走っていた。
「待て!」
男は怒鳴って追いかけてきた。が、待てと言われて待つような人は誰もいない。
…それが普通なのだが、しかし彼はピタリと立ち止まった。
「うっ」
あまりに彼が勢いよく立ち止まったので、すぐ後ろにいた男は彼を追い越し、数歩前に出てしまった。
それを逃さず、彼は男の腕をまたひっぱり、己の体も利用して相手をぐるっとまわした。
「!?」
そして、包丁を持って追ってきた子に男を投げつけた。鈍い音がして二人が倒れこむ。
「仲良く寝てな!」
そう言って彼は、わき目もふらずに逃げ出した。


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