02-セツメイ
そして目を開けたら、椅子に座って机に伏せていたはずの彼は、柔らかいソファーに横たわっていた。何だろうと思いつつ、彼がまだ覚醒しきっておらずに重い頭をなんとかあげると、ひとりの男とまともに目をあわした。
ギョッとするというより「あれ?」という感じでぼーっとした。だが状況を理解するより前に、男から『まず顔を洗え』と言われてタオルを渡され、部屋の隅にある洗面所を指さされた。
よく分からなかったものの、とりあえず頭をシャッキリさせようと指示に従い。そうして顔がすっきりしたところで、彼は改めて周囲を見渡した。
灰色の壁や床には黒い無数の模様が入っており、ともすると蛇の皮のようだ。上にはシャンデリア、窓はなく、ただ壁には大きな鏡が数個かかっていて、シャンデリアの明かりを反射している。そして隅っこには、今彼が顔をあらった洗面台。奇妙な部屋だ。
こうして暫く見回していると、タオルを渡してくれた男が彼に近寄った。
「目が覚めたか」と聞き、うんと答える彼に「はいどうぞ」と。渡してくれたのは一枚の紙。そして「今から試験を受けてもらいます」と言った。
彼が、それは何と聞くと、男は紙を見るように指示してきた。だが、そこにはとんでもないことが記してあった。
私は本講習を受け、内容に納得し、我が心身の苦痛を神仏に捧げることを誓い、入団前試験に参加することにする事に了承致します。
わずか一行、数文字ではあったが、内容は彼をびっくりさせるに十分だった。
講習とは何の事なのだろう。内容に納得? 苦痛? 神仏? 入団試験? どれもわけがわからない。
しかも下にはサイン欄があり、まぎれない彼自身の字で署名があった。だが彼には全く覚えがない。そのため、男に言った。
「嘘だろ、俺こんなのにサインしてない!」
そう叫んだ。だが、男は妙に間延びした声で答えた。
「でもアナタの名前がここにあるじゃないですかぁ」
「そんな! ……実験て何だ。テストって何。金かかるわけ?」
「料金? いいえ、そんなものは一切かかりません。アナタ説明受けたでしょう」
「え?」
「講習、受けましたよね? そこでこのサインをしたはずですよ」
言われて彼が頭に思い描いたのは、あの黒板を前にした学校の授業みたいなレクチャーのことだった。
内容はさっぱり覚えてないが、確かに受けた。だがサインはした覚えがない。
チンプンカンプンになる彼に、しかし男は言う。
「まだ寝ぼけているんですかぁ。しっかりして下さいよ。これから試験なんですからね」
「テストだとぉ?! ちょ、待て。それやったらどうなるんだ。即入団か?」
「いえ。それだけで確率するわけじゃありません。……まぁ私どもとしては入団してくださるのが有難いのですが。でもその前に、試験にパスするか否かが問題ですね」
「……」
男の一言で、その時の彼は黙った。
つい先ほど、ここに来た時は鬱とヤケで『どうにでもなれ』と思っていたが、こういう突拍子のないことを突きつけられると変にまともになるもので、ここにきて急に自分が大事になったのだ。
もう死のうだとか怪しい繁華街をほっつき回ろうという気は全くなくなり、家に帰ってはやく休みたいと願った。試験にパスする事が入団へのカギならば、適当に済ませて不合格になって帰ろう。
――と、思ったのだが。
「説明にあった通り、テストは非常に厳しいですよ。合格するまで帰れません」
「……へ?」
「泊まりがけになる可能性もあります」
「そんな。困るよ! 俺、だって――」
「だって?」
「だって……」
だがここで彼はまた、別の感情を心に思った。
それは先の「家に早く帰ってやすむ」というのとは全く別のもので、全く相反するものだった。
こんな所で妙な試験をする気はない。帰りたいが、帰ってもどうってことはない。そもそも逃げ出したいと思って来て逃げれたのに、何故わざわざ帰る必要がある? このままいればいいじゃないかと――。
「う、うーん……」
家に帰りたい気持ちと、帰りたくない気持ち。その両方が相まって、彼は動けなくなった。いっそ此処にとどまって、今までとは違う暮らしを体感してみようかとすら考えてしまった。
そしてそんな彼をよそに、男はチャキチャキと言った。
「食糧と住居はこちらがもちます。その代り、働いてもらいますよ。テストは八時半からです。今は七時、あと一時間半ですね。ご飯、用意できていますから――」
「え、ちょっと待って。七時?!」
「はい」
言われ、慌てて彼は手持ちの腕時計を見てみた。確かに七時だ。だが。
「ええ、まさか俺、ずーっと寝てたの?!」
「はい。いつ頃から寝ていらしたのかは僕は存じませんけどねぇ、でも全く起きないので、此処にこうして連れてきたんです」
「お前が?」
「ええ。重かったですよ」
「ちょ、それじゃそのテストとかなんとか、その説明、俺……」
「まったく」
聞いてないよ!と言おうとした彼を、男はため息で遮った。
「聞いてないなんて言い訳は通用しませんよ。現にこうしてサインがあるんですから」
「そんなぁ。クーリングオフって適用できない?」
「無理ですね。だいたい、金がかかわっていませんもの。アナタは僕達から何かを買ったわけじゃない」
「あ、そうか」
「しかし困りましたね。それじゃアナタ、試験の内容はまるきり?」
「うん」
「しょうがない」
男は再度溜息をはいた。
「それじゃ、ご飯を食べながら聞いて下さい」
「ご飯ってどこ?」
「こっちです」
といって男は壁にかかっている、ひときわ大きな鏡に手をかけた。
「どうぞ」
アッサリと促す。が、彼は驚いた。
「それ、鏡じゃなかったの?!」
「鏡ですよ。扉も兼ねてますけど」
「へぇ……」
確かに、人の身長よりも高くて大きく、ドアノブもついている。
だが装飾が周りにゴテゴテされてノブがまぎれ、傍目にはそれと分からなかった。
ずいぶんおしゃれな――いやむしろこれは隠し扉? そんなものをくぐると、中にはまた似たような部屋が続いていた。
壁や天井の模様もシャンデリアも全く同じ。だが違うのは、ソファーがなくてテーブルがあり、上に食料が乗っていることだった。
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