やきいもいろ
「まだ引き摺ってんの」
私に対する呆れを含んだ溜め息に、拗ねるように顔を背ける。ほっといてよ、と言い放てる程、厚かましくは生きられない。幼馴染たる彼が、当時わんわん泣きながら怒り、しまいには酔い潰れる私に、根気強く付き合ってくれたことは、記憶に浅い。
あれだけ泣いて、あれだけ怒って、あんな男別れて正解だったんだと吐き捨てた癖に──そしてその気持ちは、そりゃあ多少怒りに任せていた部分はあったとはいえ、決してその場限りのものではなく“本物”だったはずなのに──、失恋して一ヶ月。恐るべきことに、私はまだ彼のことを忘れられずにいる。
彼との出逢いは、なんてことはない、バドミントンクラブが一緒だったことがキッカケだった。社会人となり、二年。仕事は程々にできるようになり、忙しくなりつつも、“何か”でストレス発散をしたいな、と思ったことが発端だった。
「んなに運動してぇなら、地元の集まりでいいじゃん」
幼馴染の反対を押し切って、私は地元からは少し離れた“本格的な”バドミントンクラブに入会した。新しい出逢いを求めていた部分もあったのだろう。
浅ましい、と人によっては言うだろうか。しかし昨今、共通の趣味から始まる恋も多いという。それに趣味が合う方が、話も合うし、話題も多い。そんな気持ちも、あった。
とはいえ、純粋にバドミントンを楽しみたい、という気持ちもあった訳であるが。
クラブには、20代から40代、もはやこの道のプロではないかと思える50代まで、幅広い世代がいた。その中では既にある程度の人間関係が構築されていて、私の目は自然と同時期に入会した彼へと向いていた。
歓迎会にかこつけた飲み会で、酔って騒ぐメンバーを尻目に話し掛ければ、やけに盛り上がった。大人な魅力にやられた、というやつかもしれない。こちらの気持ちを先回りし、かつこちらが気にしない程度の絶妙な気遣いに、心が動いた。元々警戒心が緩んでいた所為かもしれない。だから、自業自得といえば、その通り。
二人だけしかいない時に向けられる妖艶な流し目に、私は“騙されて”、お付き合いを始めた──より正確に言うなら、お付き合いを始めた“つもりになっていた”、か。
私にはこの人がいて、この人だって私だけなのだ、と。
結論から言えば、それは誤りだった。
最初から、全てが、誤りだった。
決して携帯を見せてくれないことも、家に上げてくれないことも、家族にも友人にも会わせてもらえないことも、プレゼントを受け取ってくれないことも、最初からそうだったから、そういう人なんだと思っていた。
彼の誕生日──後にこれは嘘だったと分かったけれど──にはご飯を食べに行ったし、私の誕生日にはプレゼントをくれた──これも後々考えてみれば、全て消え物だった──。
まさか自分が、という思い込みもあった。その上、相手は私を騙す明確な意思があった。
相手が絶対的に悪いとは思わない。
私も悪かった。私も──馬鹿だった。
終焉は、意外な程にアッサリしていた。
同じクラブの人が、不審げに眉を歪めながら私に囁く。
「ねえ、安西さんが先週ね、家でパーティをやったって、言ってたんだけど」
安西さん、というのは彼の名前だ。
どうしてこの人はこんなに深刻そうな顔をしているのだろう。正直、私はそう思った。言葉を受け止めきれずに戸惑っていると、「プレゼントが嬉しかった、て。……安西さん、先週何か特別なことでもあったの? それとも、誕生日だった? でも前、もっと違う月だって言ってたわよねぇ」と彼女は続けた。
それは、明確な証拠がある訳ではなく。言うなれば、ただの勘だったのだろう。微妙な表情や、声の変化。そこから覚えた、違和感。
そのことは、私の心に闇を根付かせた。
「そう……ですか、何かあったんですかね」
曖昧に微笑みながら、その場を離れた。別のコートで試合中の彼を見やる。何も変わらない。いつも通りだ。……いつも通りだ。
しかしどうにもそのことが気に掛かった私は、彼から『絶対に止めて』と“お願い”されていた家庭訪問を敢行した。家に近付く度に、動悸が激しくなっていく。
心のどこかで分かっていた。
それがもし────だったら、その時は一発殴って、勝ち誇るように笑って、切ってやろうと思っていた。
でも。
マンションから出て来た彼と、仲睦まじげな女性と、その間で身体を揺らす子供の姿を見た時、全部が一気に吹っ飛んだ。
倒れなかったのが、奇跡のようだった。
どうやって家まで戻ったのか。気付いたら布団の中に蹲っていた。
悔しかった。──何が、という訳でもなく。強いて言うなら、全てが。
クラブの会長さんへ連絡をして、しばらくクラブを休む旨を伝えた。彼には連絡をしなかった。まるで心配しているのだとばかりに、携帯が鳴る。どの面を下げて、どんな心でそれを鳴らしているのかと、嗤った。
私の様子がおかしいことに真っ先に気付いたのは幼馴染だ。なんでもないよ、と呪文のように口にして、笑う。それを繰り返す。
けれど本当は、なんでもなくなんてなかった。大丈夫なんかじゃなかった。大丈夫なフリをしていたかったけれど、限界だった。
「お前、いい加減、吐け」
栓を飛ばすように背中を叩かれたら、奥からぶわりと噴き出してきた。
泣いて泣いて、これでもかという程大声で泣いて、恨み言をぶち撒けて、地面を殴った。この歳になって、こんなに悔しいことがあるだろうかと思った。こんなに感情を露わにすることが、あるだろうか。
そのくらい、荒れた。
あんな男、最低だ。こっちから願い下げだ。
指輪だって着けてなかったじゃない。誰もいないって言ったじゃない。寂しいって漏らしたじゃない。私がいるから心強いって笑ったじゃない。全部ぜんぶ、嘘だったでしょう!
あんな男、最低だ。──それに引っ掛かって、のうのうと、まるで幸せだと言わんばかりに笑っていた自分は、それ以上に最悪だ。
吐いて、吐いて、吐き出して。
落ち着いた私は、深呼吸をして。
その勢いで、彼に電話を掛けた。
心は自然と静かだった。指先が痺れていた。感覚が麻痺しているように、頭がぼんやりしていた。
『もしもし、なんで電話出なかったの、心配した──』
「あのさぁ」
相手の言葉を遮り、鋭く言葉を放つ。
「私と貴方は、付き合ってないよね」
『──どうしたの、急に』
ああ。悟る──ああ、ああ、そうか。この人は、ずるい人だ。とても、ずるい人だ。
だって、答えてくれない。
気付いた途端、フッと笑っていた。笑う場面でもない癖に。シンと静まった心が、何故か、笑え、と要求した。
「あのね、見たの。貴方の奥さんと子供」
電話の向こうの声が消えた。
「もう一回訊くけど、付き合ってないんだよね、私達」
無言の時間がしばらく続いた。
傍にいるはずの幼馴染は、何も口を挟まず、けれどそこにいてくれた。
『それって重要かな』
それが、返答だった。“答え”ではない返答。
私は静かに息を吸う。
「私にとっては、重要だった」
今までで、一番静かな声だった。返事が来る前に、「ごめん、もう切るね。今までどうもありがとう。さようなら」それだけ言って、通話終了ボタンを押した。
私と同じだけのダメージを、彼は、絶対に受けない。私の言葉では、絶対に、受けたりしないだろう。──この先、ずっと。絶対に、だ。
最低の男だった。
最低の付き合いだった。
最低の最後だった。
それなのに。
私は今、寂しさを覚えている。
人間は忘れる生き物なのだという。特に辛いことは、忘れやすい。痛いことは、痛い、という“記録”だけが残り、その痛み自体は忘れる。自己防衛の一種だ。
その自己防衛が、私を苦しめる。
最低の人間だったのに、楽しかった思い出が蘇る。そう、楽しかったのだ。終わってみればこれほど虚しいことはないというのに、あの瞬間は、紛れもなく楽しくて、愛おしくて。
──嘘みたいに、幸せだったのだ。
「まだ引き摺ってんの」
幼馴染の言葉に、私自身を嗤う。本当に。その通りだと思う。呆れ果てる。
引き摺られている。辛い思い出ではなく、楽しかった思い出に。おかしいものだ。本当に人を引き摺るのが、そちらだなんて。
じゃあ元の鞘に収まる? それこそ冗談では無かった。これが私の幸せの最骨頂だなんて、そんなこと、認めて堪るか。あんな男といることが一番だっただなんて、死んでも認めてなどやるものか。
揺れ動く。様々な言葉が、矛盾した言葉が、私の中を暴れ回る。破裂しそうだ。
私の中に、怪物がいる。
「おい」
扉の外から、声がした。私はゆるゆると身体を起こす。「何?」と訊ねる。
「外で焚き火やるから、燃やすモンがあるなら持って来い」
「ふうん」
「ついで芋も焼く。食べに来い」
「分かった」
この時期は、落ち葉も多い。掻き集めた落ち葉を使い、焚き火をし、芋を焼くのは、うちの定例行事みたいなものだ。
気の無い返事を繰り返すと、扉の向こうから溜め息が聞こえた。
「いつまで腐ってんだよ」
うるさいな、ほっといてよ。とはやはり言えず。私は無言で身体を倒し、扉に背を向けた。
遠ざかっていく足音を聞きながら、彼の言葉を反芻する。
「燃やしたいもの……」
私は、再び身体を起こした。
しばらくして外に出ると、焚き火パーティは既に開催されていた。それなりに広い庭に、どかりとドラム缶が鎮座し、煙を噴いている。
真っ先に私に気付いたのは、やはり幼馴染だった。彼は私の持つ紙束を見て、眉を寄せる。
「なにそれ」
「彼との思い出と、私の想い」
はあ、と彼は理解したようなしていないような声を上げた。
「今時文通でもしてたんか」
「現代人らしくメールですけど、世の中には印刷という技術があるの」
お前わざわざメール印刷したわけ、でソレを焼くわけ。と幼馴染が目を剥く。
「お前と、お前のフザけた元カレもどきのために、資源を無駄使いするなよ」
「ダイレンアイを十数枚に収めたから許せ」
本にしたら、もっと長くなる。嘯けば、はあ、とまた溜め息。失敬な奴。メールだってこれでも厳選して決めたんだから。一番辛いのと、一番楽しいのと、そこそこ楽しいのと。
ちなみに原文は印刷後に速やかに消去した。何かあったら怖いからと残していたが、一ヶ月も経ったのだ、もう良いだろう。連絡先も消した。写真も消した。格別燃やしたいのは、これもまた印刷をして。
気合いを込めてぐしゃぐしゃに丸めて、ドラム缶に投入する。パチリ、と爆ぜる音がした。無言で次の物を入れる。
「やっぱ多くねぇか」
「いいんですぅー」
「つか、これ裏に手書きで何書いてあんの」
「私の想い」
呪われそうだな、と幼馴染が漏らした。当然だ。こっちは呪えるなら呪うつもりでやっているのだから。
私はひたすら思い出を焼べ続けた。
「これで不味かったら、お前の所為だ」
幼馴染はそう言いながら、アルミホイルを剥いた。あちぃ、と小声で文句を言っている。こんがり焼けたお芋さんが顔を覗かせた。
私も自分の分を手に取る。ぽくりと割った途端に、湯気が出てきた。黄金色をした焼き芋は、いかにも美味しそうだ。
かぶりつく。熱い。熱い。舌が火傷した。でも美味しい。甘い。熱くて甘くて、幸せだ。
「泣く程か」
「焼き芋が美味しいから悪い」
「そうか」
「そうだよ」
「辛そうだけどな」
「舌が火傷したんだよ」
そうかよ、と幼馴染が微かに笑った。
なんだこの野郎。不味くなかっただろう。私の所為じゃないだろう。美味しいだろう。本気で、本当に、美味しい。こんなにも。
これを食べ終わったら、電話をしよう。
クラブは退会するのだ。それから、地元のバドミントンに参加しよう。
小さく呟いた独り言に「いーんじゃねぇの」と幼馴染のぶっきらぼうな返答があった。
読んで頂き、ありがとうございます。




