Chain142 長い年月は人を成長させる
貴女の言葉は俺を悩ませる……
手元に光る一枚のカードは、一体何の意味を持っていたのか……
“マンションの下に着いたら連絡して? ドアを開けるから……”
電話で言った綾子サンの最後の言葉……何故、彼女はあんな事を言ったのだろうか。連絡などしなくてもいいように、“コレ”をくれたのでは無いのか?
そう思いながら歩いてきた俺が見上げるのは、そんな綾子サンのマンション。そして、立ち止まってポケットから出したのは以前に貰った部屋のカードキー。
これ一枚あれば、エントランスのオートロックから部屋のロックも解除できるはずなのに……何故、綾子サンはあえて連絡をするように言ったのか。
しかし、とりあえず言われた通りにしてからその辺の理由を聞こうと、持っていた携帯で綾子サンを呼び出す。
呼び出し音がそう長く鳴る事無く、綾子サンの声が聞こえてくる。
“琉依クン? もうエントランスの前にいるの?”
「うん、いるよ。開けて貰えるかな?」
は〜い! そう明るく答える綾子サンによって、目の前のドアのロックが解除されて中へと進む。そして、エレベーターに乗り込んで七階のボタンを押して密室状態になった箱の中で、俺はハッキリしない現実にモヤモヤした感情を抱く。
カードキーの事に触れず、変わらない綾子サンの明るい態度……それは一体どういうつもりなのか。一体、俺は何の為にこのキーを貰ったのか……。
今にも折れてしまいそうなくらいの強さで、カードを握る。それでもカードからは、折れまいと抵抗をしているよう感じた。
「あっ……」
「いらっしゃい。琉依クン」
エレベーターが七階を告げるかのようチャイムが鳴った後、開かれたドアの前には綾子サンが立って待っていた。
ほら……またカードキーが使われるチャンスが減ってしまった。自分が持っているカードキーで、綾子サンの部屋へ入ろうと思っていたのに……それも、こうして迎えが来た事で不要なものとなってしまったのだ。
「寒かったでしょ? 暖かいコーヒーを用意しているから飲みましょう」
そう言って、綾子サンは呆然と立っていた俺を以前のように手を引いて部屋の中へと戻る。
三週間ぶりにやって来た綾子サンの部屋は、そんなに変わっておらず女性らしい整った部屋だった。日本の家と同じように観葉植物もいくつかあり、以前来た時には感じなかった懐かしさもこみ上げてきた。
そんな部屋中を眺めていた俺の元に、綾子サンがキッチンからコーヒーを持って来ては俺に渡す。それを礼を言って受け取ると、一口飲んでから傍にあるソファに座る。そんな俺の後に、綾子サンも向かい側に座った。
「あのさ、綾子サン……これ」
「んっ? あぁ……」
口を開いた後、テーブルの上に差し出したカードを見てからそれだけ言うと、カードを受け取って自分の顔を同じくらいの高さまで上げる。
俺がこうしてカードを差し出した事を、綾子サンはどう思っているのか。俺がもう要らないと思っているのだろうか……そう考えていた時だった。
「ふふっ」
「えっ?」
突然笑い出した綾子サンの顔を見ると、綾子サンはカードを少し振りながら笑みを見せていた。何の意味も解からない綾子サンの行為に、俺はただ眉間に皺を寄せながら見つめる。
そんな俺を察したのか、綾子サンは俺の手に持っていたカードを返すと
「そのカードで、この部屋のロックは開けられないのよ」
「はっ!?」
思いがけない綾子サンの言葉は、さらに俺を驚かせる。使えないカード……綾子サンは一体何のために、俺にそのカードを渡してきたのか。
何が何だか訳がわからない俺の手から再びカードを取り上げると、綾子サンはパキッという音を立てて折ってしまった。二つに折れた意味の無いモノを両手から落とすと、穏やかな笑みを浮かべて綾子サンは俺へと視線を移した。
「どうして、こんな事をしたのかって思っているでしょ? でもね、私は安心したのよ」
「安心……?」
穏やかな笑みを浮かべたまま、綾子サンは話を続ける。
「一夜を共にした後……私ね、とても後悔したの。ううん、あの夜は本当は嬉しかったわ。だけど、火照った心身が冷めてから徐々に現実が見えてきたの」
現実……それは、日本にいる君の事を指しているのだろうか。俺が思っていた事を、綾子サンもまた思っては悩んでいたのだろうか。
「長い年月って怖いわね。一度終わった出来事を、錯覚を混じらせて蘇らせるのだから……」
穏やかな笑みを変える事無く淡々と語る綾子サン。しかし、その瞳はどこか哀しげな感情を表している。
彼女は……俺がこれから言おうとしている事を見通しているかのように言葉を告げていく。綾子サンの言葉は、俺が言おうと思っていた言葉とほとんど同じだった。
「長い年月と空いた心の隙間は、その錯覚を特に増幅させてしまう」
「琉依クン……?」
俺もそう……綾子サンと会えてとても嬉しかったのは正直な気持ちだった。そして、長い年月の間で大きく空いてしまった空洞は、寂しさから来る錯覚に捕らわれる。それが今回の俺たちで言えば、昔の恋人との再会という衝撃的な出来事だった。
そして、錯覚はさらに増幅する……寂しさを増やしたくなくて、目の前にいるかつての恋人にすがりたくなる。それが“愛情の再燃”という勘違いを起こしてしまい、何も疑問を抱く事無く行動に出てしまったのだ。
それを証明するかのように、一夜を共にした後の俺たちは何も行動に出なかった。俺も、綾子サンも再び会いたいというようなサインを示さなかったのだ。相手が忙しいから……そんな理由で終わらせていても、心の底ではあの一夜が錯覚が見せた間違いと認めていたのだ。
だが、中途半端なままではいられない……いくら恋人同士でなくても、きちんと決着はつけないといけないのだ。
そう思って此処へとやってきたのに、綾子サンから先に告げられてしまったので俺は未だに何も言わないまま綾子サンの話を聞いていた。
「今日、琉依クンが話があるって聞いた時、貴方も私を同じ事を考えていたんだなって思ったわ。でも、カードキーには本当に驚いていたみたいね」
先ほどの俺の戸惑っていた表情を思い出しているのか、クスクスと笑う綾子サンに俺は少し顔を赤くさせる。
「これ以上はお互い何も言わないでいましょう。私たちの考えは同じだった……それが解かればいいんじゃないかしら?」
長年の時は人を変えさせる……目の前にいる綾子サンの発言を聞いてそう思った。以前の綾子サンなら、正直ここまで言える人ではなかったと思う。
「変わったね、綾子サン」
「ええ、変わったわ。でもそれは貴方もよ、琉依クン」
あっさりと自分の変化を認めた綾子サンは、俺も同じだと告げる。
一夜の出来事は、何事も無かったかのような扱いにはしないが、それでも俺たちが確かに以前とは変わったという事を知り合うきっかけとして残るに違いない……