Chain128 堕落していた俺を救う来訪
一人で待つ君の部屋に戻りたい……
それなのに、周りの人間がそれを邪魔するのだ。俺と君の関係を……周りが邪魔する。
ガチャッバタンッ
ゴホッ……うっ……
ザーッ ザーッ
「……薄気味悪い顔」
毎日……毎時間のように続く意味の無い嘔吐。病院へ来て何度目だろうか、洗面台に備え付けられている鏡で自分自身の姿を映すのは……。
偽物の世界に映る俺は、ロンドンへ来た時よりも更に醜く哀れだった。
自分自身に哀れという言葉を使うのはどうかと思うが、今の俺に掛けてやる言葉はそれしか思い当たらなかった。
『ルイ!』
洗面所から出た所を、今やって来たのかリカルドが声を掛けてくる。そんな彼に、振り返ったり手を上げる素振りも見せずに、俺はだるい体を引きずるようにベッドへと向かう。
そして、ベッドに辿り着いてそのままゆっくりと横になる。
『ルイ、調子は……』
『良い訳がないだろ? 鎮静剤を投与されまくってみろ、体が重く感じて仕方が無い』
それは君が暴れるからだよ……苛立ちを隠す事なく答える俺に、リカルドは苦笑いしながら答える。
酒や煙草に睡眠薬、ストレスなどが何層にも重なっている俺の体は現実と過去を混同させては俺を苦しめていた。
例えば君……ロンドンにいる筈が無いのに、俺は時にそんな君がここにいると思い込んでは病室を抜け出そうとしていた。
一人になる事が何よりも嫌いな君が待っている……そう思っていた筈なのに、翌日には嘘のようにケロッとしている。
自分がそんな状態にある事を認識するまで、かなりの時間を要した。しかし、そうと分かっているのに俺はまだ一人別の時間を彷徨っていた。
『リカルド〜、いつになったら退院出来るんだ?』
『病院を抜け出そうとしているお前がそれを聞くのかい?』
からかうように言うリカルドの言葉に、俺は少し顔を赤くしては俯く。
『でも、安心したよ。入院した当初よりも顔色もいいし、体調も良くなっている』
『けど、嘔吐感はまだ残っているんだ。それでも、俺の体からは何も出てこないんだぞ』
それもまぁ、俺がちゃんと与えられた食事をまともに摂っていないからだけど……。与えられた食事は、誰も居なくなってからゴミ箱へと廃棄していた。
もう何ヶ月食事を摂っていないのか……しかし、それでも俺の中には食欲が湧いてこないのだ。食欲が出てこないけど、嘔吐感はある。
体重は減るばかりだから、医者ももちろん俺を自由にしてくれない。
『食事をちゃんと摂って、リハビリもちゃんと受けたら家に帰れるよ』
それでも、今度は俺が厳しく監視するけれどね……笑いながらそう言っては俺の髪を切っていく。
伸びていた俺の髪を邪魔だろうと、リカルドはまめに切ってくれていた。自分の髪も自分の手でセットしている所為もあって、彼の技術はなかなかのものだった。
伸びた髪の毛……これが伸びた分は、俺が何もかも投げ出して怠けていた時間。君から離れてロンドンへ来てから、何もせず君の幻影を追いかけたり幻聴に悩まされたりした挙句、酒や煙草に溺れては大量の睡眠薬を服用して再び狂乱した生活を送っている。
今の季節は夏……ロンドンへ来てから既に半年が過ぎていた。この半年は何もしていないのに、何故か時の流れが速く感じた。季節の変わり目を一度もまともな状態で見れず、今ではそんな光景を病室から覗くだけ。
成長していない……むしろ退化している感じがしてならない俺の半年。今の状態から抜け出さなければならないのに、何かのしこりがそれを邪魔している。
しこり……不安という名のしこりが、俺を邪魔しては意味のない嘔吐感を起こさせる。俺の中には拭いきれない“ある不安”が残っていた。
それが消えない限り、毎日のように続く嘔吐感も消えない。
コンコンッ ガチャッ
『ルイ、お客さんがいらっしゃったわよ』
ドアを開けた看護士の言葉に、俺とリカルドはお互い顔を見合わせた。俺に客って……ロンドンには家族とリカルド以外に俺の知り合いはいない。
これまで仕事に関わったデザイナーやスタッフはいても、彼らは俺がこんな状態で居る事は知らないはずだ。
じゃあ、誰が……そう思っていた俺の前に、看護士に促されてその人物は入ってきた。
「あっ……!」
『あれっ!』
俺とリカルドの前にやって来た人物……それは、久しぶりに顔を見た真琴さんだった。アメリカでのパーティー以来の再会だったが、まさか病院でそれが叶うとは思いもしなかった。
それに、暁生さんや真琴さんはまだアメリカでの仕事が残っている筈だから、突然の来訪に俺は驚きを隠せない。
しかし、そんな俺とは反対に真琴さんの表情は最初は穏やかなものだったが、やがて厳しいものに変わった途端リカルドは場を読んだのか真琴さんに軽く挨拶してから部屋を出て行った。
リカルドが部屋を出てしばらくしてから、真琴さんは俺の方へと近づいてくる。そして、俺の表情を少しの間眺めては笑みを浮かべると
「久しぶり。元気してた……って、ここで言う事じゃないわね」
「真琴さん……」
真琴さんはそう言うと、傍にあった椅子に座る。一体何故ここに……内心でそう思いながら、彼女の来訪の理由を探していた。
「事務所の社長ですもの。アンタがロンドンへ行く事くらいは聞いていたわ。留学が理由と聞いていたけれど……」
そう言葉を止めては俺の方をチラッと視線を運ぶ。そんな真琴さんの視線は、留学が嘘という事を見透かしているような目だった。
「まぁ、そこの所はあえて聞かない事にするわ。でもね……」
パンッ!
真琴さんが言い終わると同時に感じた頬の痛み。一体何が起きたのか解からない俺は、ただ呆然と真琴さんの方を見る。そんな真琴さんは、右手を俺の目の高さと同じくらいの位置に上げていた。
殴られた……やっと気が付いた俺は、それでもただ無言で真琴さんを見ていた。
「アンタはこんな所で何をしているの? 夏海やバカ共に留学と偽ってまでやって来たロンドンで、アンタは何をしているの!?」
何のためにここへやってきたのか……今まで見せた事が無い表情を俺に向けてはそう怒鳴ってくる。
「芳賀に聞けば、アンタはまだ一つも仕事をしていないと言うじゃない。気になって来て見みたら、入院ですって?」
おそらく母さんかK2から聞いたのだろう。この半年の俺の生き方を、真琴さんは怒りを抑えきれないといった感じで責め立てる。
「アンタは夏海に言ったんですってね? 夏海に負けないように俺も頑張るって」
未だ何も返さない俺に、真琴さんはさらに近付いてはその勢いを緩めない。
「しっかりしなさい! アンタがこんな状態だとあの子達が知ったら、どんな思いをすると思ってるの!」
こんな状態になってから、周りの人間は俺を叱る事無くただ心配だけしていた。俺のやりたいようにと甘やかされた状態で、俺は何も違和感を感じる事無くそれに頼り切っていた。
そんな状況に甘えていたから、自分は立ち直ろうとはしなかったのだ。ストレス……そんなの関係ない。俺自身が甘えに頼っていたのだ。
そんな俺をわざわざロンドンまでやって来て叱咤する真琴さん。彼女の激しい叱咤によって、俺は今までの堕落した生活を思い返しては一気に自分を責めていた。
このままで良い訳が無い。いつかやって来るであろう君がこんな俺を見たらどうなるか……
「今からでも遅くは無いの。しっかりと自分を見つめなおして、以前のような琉依に戻って頂戴」
真琴さんはさっきまでの態度から一気に穏やかなものへと変えると、そのまま俺の頭を撫でていた。
突然の真琴さんの来訪……それは確かに堕落していた俺に大きな刺激を与えていた。