Chain116 それでも満たされない
君は日本で、俺はロンドンでそれぞれ自分の生き方を見つけようと誓った。それなのに、俺の心はどこか満たされないままだった……
君が俺と共にロンドンへは行かないと告げてから数日後、もう荷物のほとんどを送ってしまいガランとした部屋で、俺はベッドにもたれてはボーッと過ごしていた。
今頃は皆は講義に出ている……君も、きっと自分が言った目標に向かって勉強しているのだろう。
“魅力的な女になるから!”
君の言葉を思い出しては、フッと笑ってしまう。君は今の君でいいのに、俺がロンドンへ行く動機を誤解したままだから自分を磨く事に専念し始めた。
変えなければならないのは、俺自身なのにね……
しかし、それでも君が俺と離れる事を自分自身で決めたから安心していた……筈なのに……
「あぁ、まただ……」
どうして、俺の目からはこうして度々涙が流れてくるのだろう。
君がロンドンに来ないと聞いて安心した筈なのに……それなのにどうして、俺の心は満たされないままでいるのだろうか。
そばにいたら俺はきっと君を傷付ける。どんなに傷つけまいと思っていても、今の俺は些細な事があれば君を泣かせる。
一方的に俺の感情を、訳が分からないであろう君に押し付けるんだ。その時の感情に任せて……
そう解っているくせに、それでも思い浮かべるのは……
ロンドンに降り立った俺の隣りにいる君の……姿。
決して叶わない自分が作り上げた幻を、こうして何日も思い浮かべては涙する。
「全く……成長しないな」
苦笑いを浮かべては、ベッドの上で寝転んで天井を見上げる……
そんな事を三日間繰り返していた。
自分が思っていた以上に君との別れが辛かった俺は、今日も同じように幻を浮かべては呆然としていた。
こういう時に仕事があればこんな事くらい紛らわせるのに、ロンドン行きを決めた俺の次にやって来る仕事はロンドンに着くまで無かった。
「やっぱり、ギリギリまで仕事受ければよかったなぁ」
大学も行かない今、俺はただ家で過ごすばかりだった。
「あっ、そうだ……」
ある事をちょっと思い付いた俺は、早速準備をしてそのまま家を出た。
―――――
「いやぁ、それにしてもこんな綺麗なお母さんがいるなんて羨ましいな〜」
「あ、あら! そうかしら?」
お手伝いの方が持って来てくれたコーヒーを口にしてから言った俺の言葉に、向かいに座る中年の女性は少し顔を赤くしては口元を緩くさせる。
「ごめんなさいね。今、ちょうど知り合いの方のお宅に伺っているから……もうすぐしたら帰ると思うのですけれど」
「いえ、突然お伺いした僕が悪いのですから」
品のいい女性にそう答えると、そのまま俺は続ける。
「それに、彼が外出してくれたおかげで貴女とお話出来たのですから」
そんな俺の言葉に、女性は再び笑みを見せてはまんざらでもなさそうな表情に変わる。
そんな会話を楽しんでいたのだが、どうやらそれも終わりらしい……
バタバタバタッ
遠くから近付いて来る足音で、俺は笑みを浮かべては女性の方を見る。
ガチャッ
「いや、ホントホント! すっごい綺麗なお肌ですよ! いいなぁ、俺好きかも」
「あ、あら。でも、特に何もしていないのよ」
バタン
扉を開けた“彼”はそんなやり取りを目の当たりにした後、再び扉を閉めてしまう。
そして、落ち着いたのか改めて扉を開けて入室する。そして呆れながら俺の方を見ている、この家の主の息子である浅井クン。
「ていうか、何してるの? 宇佐美」
「あ、おかえり〜。留守って聞いたから待たせてもらってたんだけど、その間ずっとこんな美女とお話できてさ〜」
そう言って隣りにいる女性=浅井クンのお母さんに笑みを見せると、彼女も息子の前であるせいか少し照れながら頷く。
「わ、解った。話があるなら聞くよ。母さんも、わざわざありがとう」
解ったと言っているがきっと混乱していて何も理解出来ていないだろう浅井クンは、お母さんにお礼を伝えては何とか追い出そうとする。そして、部屋を出る前にこちらを見てはお辞儀をする彼女に
「色々お話が出来て楽しかったです。それじゃあね、薫子!」
「な、何!?」
浅井クンの驚きの反応など気にせずに、俺は薫子に手を振る。そして、部屋の扉がしまってから改めて浅井クンへと振り返る。
「う、宇佐美……お前、いつの間に母さんの名前を」
「えっ? さっき聞いたけど、何か問題でも?」
今にも倒れそうな感じで尋ねてくるので、ごく当たり前の事を返したがそれでも浅井クンは納得しない。
「ふ、普通、人の母親に対して名前……しかも呼び捨てで呼ぶか?」
「え〜? でも、晃子はいいって言ったよ」
「晃子って、誰!?」
渉のお母さ〜ん! 鋭い浅井クンの突っ込みにそう答えては笑う。
それから俺は、浅井クンと様々な会話を交わした。ロンドンへの準備の事や向こうでの生活の事。そして……
君を守って欲しいという切実な願いも欠かさなかった。
俺がしたくても出来ない事を、彼に託す事で少しは俺も安心できる。彼になら任せる事が出来るから……
しかし、そうする事で自分が唯一君にしてやれた事も無くなってしまった事には、やはりこれまでの俺の行いを改めて恨めしく思ってしまう。
そんな思いを、浅井クンの家を出てからずっと抱いていた俺が向かう先は自宅ではなかった……