Chain105 この紙切れ一つで変わる道のり
俺が一つの決意を抱いて大学へ行く事を、君は知らない……
「おはよ〜」
君と教室に入った途端、蓮子と一緒に待っていた梓が君に駆け寄っては抱きついていた。あら、羨ましい……
「あ、梓?」
驚く君と俺だったが、それでも梓が離れないところを見ると……あぁ、昨日の事が原因なのかと感じた。優しい梓のことだ、きっと心配していたのだろう。
そんな梓に君は抱きつかれたまま彼女の頭を撫でている。
「大丈夫だよ、梓。私はもう大丈夫だから」
君の言葉で、梓は離れては本当かと君を見上げている。そこまで心配していたなんて、本当に梓は……
「きゃっ」
無理やり君から離したから、思わずそう声をこぼした梓。しかし、間髪いれずにそのまま抱きしめると
「ホント可愛いなぁ、梓は。でも、抱きつく相手を間違っているでしょう?」
「きゃあぁぁぁぁっ!」
そんな俺から必死になって離れようと叫び声をあげる梓だったが、久しぶりの抱擁を心地よく感じた俺は気にする事無く抱きしめていた。
「うぉらぁぁっ! 俺の梓に何してんだーっ」
そんな怒鳴り声が聞こえて来たと思えば、そのまま梓を引き離して俺を殴る伊織。ここは国際学部棟なのに、どうして伊織がここにいるの……
今日に限って遅刻せずしっかり来ていた伊織は、梓を自分の後ろに隠しては俺の方を睨んでいる。
しかし、ふと伊織のシャツを掴んだ梓に気付いた伊織は、そのまま後ろを振り返っては
「もぉ〜! 可愛そうな梓! 怖かったでしょう?」
そう言っては梓を優しく抱きしめている。怖かっただなんて、失礼な! そう思いながら俺は再び梓に近づく。
「梓〜」
「梓に近づかないで頂戴! 妊娠したらどうしてくれるのよ!」
それならそれで、ちゃんと俺が梓も子供も面倒見ますよ! ……なんて、そんな事言ったらまた殴られるだろうから言わないけど。
まぁ、その前に妊娠するような事は梓としてはいないけど。
「そうそう、忘れる所だったわ! 夏海、この間のパンストの彼の正体がわかったのよ!」
変な争いをしている中、蓮子が思い出したかのように言った言葉で君は蓮子の方に関心を移した。
そんな君の反応に少し不満を感じた俺だったが、蓮子の話に付き合うというメンバーに俺も付き合うことにした。
講義をサボって、俺達は喫茶店へと集まる。そこで、遅刻してきた渉も参加して結局は全員で蓮子の話を聞くことになった。
その間も、俺のポケットの中には一枚の紙が入っていた。本当ならば、これを出す為だけに大学へ来たのに、なかなかそのきっかけを掴めずにいた。
こうして話をしている間に行ってしまえばいいのに、それをしないのは君が少し興味を持っている浅井クンについて俺も知りたかったのかもしれない。
新たな不安の要素になるであろう彼を、俺はかすかに警戒していた。
「で、正体って? 例のパンストの彼の名前だったらもう知っているけど?」
考え事をしていた俺をよそに、君は少々うんざりした表情で蓮子に尋ねていた。名前を知っているって、君もさっき知ったばかりだろと思いながらも俺は何も言わず君の方を見ていた。
「あのパンストの彼……もとい、浅井尚弥って実はとんでもない人物だったのよ!」
蓮子も蓮子で、どうしてそこまで一度しか会った事が無い人物を知る事が出来るのか……一瞬そう思ったが、それも蓮子の性格を解かっていたら自ずと答えも導かれる。
しかし、その蓮子のせいで君はさらに彼に対して興味を抱いてしまっている。君だけではなく、他のメンバーもそうだった。
蓮子曰く、その浅井尚弥クンは文学部の国文学科の二回生であり、表向きはごく普通の生徒と変わりは無いが……その裏では、入学試験をトップの成績でパスしているという秀才だった。
しかも、医学部や理工学部にも受験しているのに、何故かそれらを蹴ってまで最終的には文学部を選んだという謎の一面を見せている。
医学部も、梓を抜いての成績だった事で皆の関心はさらに強まっているし。
しかし、蓮子の話を聞いても俺は彼が自分が思っていた以上の男ではなかった事であまり興味を起こせなかった。
それだけの事なら、別にここに居なくてもよかったかと後悔する。こんな事聞くよりも、俺にはもっと大事な事が控えているのだから……
ポケットに入れていた手を出して、その場を立ち上がる俺にメンバーの視線が蓮子より移ってくる。
「まぁ、俺には関係ないけど? 俺、ちょっと事務所に行って来るわ。大切な用事を忘れるところだったよ」
そう言って、そのまま喫茶店を後にした。
俺がこうして無関心であっても、君はきっと彼に対して何らかの興味は湧いているのだろうね。そして、それが好意に移ってしまうのだろうか?
高月の時のように……
そんな君は俺が居なくなったらどうするのだろう? 高月と別れて一人になった君は、俺がロンドンへ行ったら今度は浅井クンと一緒になってしまう?
彼も君に対してまんざらでもない感じだとは、昨夜の事で十分わかっているから……。
昨夜、俺が店に駆けつけた時の彼の君を見る目は、無理やり付き合わされて嫌がっているというよりも君に対して興味を抱いているように感じた。
ずっと君の周りを見ていた俺だから解かる、彼の君を見る目……あれは、いつか俺を不安にさせるようなもの。
高月の次は、彼が俺を危うくさせる……
そう解かっているのに、それなのに俺は……
大学を辞めようとしているのか?
そう思いながらたどり着いたのは、事務所の前だった。ここで俺は自分のポケットに入っている書類を提出したら、もう大学での俺の居場所は無くなってしまう。
ここで君と過ごす事も……大切な親友たちと共に過ごす事も無くなってしまう。そして、そんな俺に待ち構えているのは……
ロンドン行きだけ……。
ここまで来て今更、そんな事を思っては寂しさが募ってくる。手にしている書類を出さなければ、そんな思いをする事はない……
しかし、一時の判断で君をさらに傷つけてしまうのはもっと辛い。そう思った俺は、改めてその書類を手にして事務所の中へと入っていった。
「ハイ! 佐織さん」
「こら、宇佐美クン! ここでは佐織じゃなくて、井原さんと呼びなさい!」
事務所に入って一番最初に視界に入った佐織さんに声を掛けると、彼女はそう言って俺を叱る。
彼女とは大学に入ってしばらくしてから関係を持った。それから俺は彼女の事を、名前で呼んでは彼女を困らせていた。
そんな彼女に俺はポケットから一枚の書類を出すと、念のために中身を確認してから差し出す。
「何? 何かの申請かしら?」
「まぁ、そういった感じのものだけどね。けど、お願いがあるんだ」
「あら、何かしら?」
耳を貸すよう示す俺に、佐織さんはその顔を俺に近づける。
「その書類さ、今日から十日過ぎるまで見ないで欲しいんだ」
「えっ? それなら十日後に出せばいいじゃない」
当たり前の事を言う佐織さんに、俺は笑いながら頷く。
「確かにそうだけど、それじゃあ意味が無いから頼むよ」
「えっ、宇佐美クン?」
一言だけそう言うと、俺は佐織さんが止めるのも聞かずに事務所を後にした。
これで、俺の退学は認められる……そして、これで俺は君の元から離れる。
「これで……いいんだ」
後悔なんてしない、君を守るためなら俺は何でもしよう。君や親友との大学生活も、兄弟との生活もすべて捨ててしまおう。
かけがえの無い、大切な君を守るために……
「あっ、琉依よ」
伊織の声に頭を上げると、前からやって来るメンバー。その中でも君の姿を確認した俺は、すぐに笑みを作っては声を掛ける。
「あれ? 話、終わっ……」
俺が言い終わる前に、君は俺の元に駆け寄ってくるとそのまま俺の胸元に飛び込んでくる。
「――!」
突然の君の行動に、俺はどうしていいのか解からず黙って君を見ていた。しかし、君はなかなか俺から離れようとしない。
「あら、夏海ったら、琉依がちょっといなくなったからって寂しかったのかしら? 可愛いわねぇ」
伊織の言葉に少し驚きながらも、俺は君の頭を優しく叩くと
「へぇ……俺はちょっとでも夏海から離れたら、こうやってハグしてくれるんだ〜。役得、役得」
そう言って抱きしめるが、その感触がとても愛しくて思わず本気になって抱きしめてしまった。そんな俺の行為に、今度は君が驚いている。
「琉依?」
「少し……このままでいて」
俺の顔を窺おうとする君を制するかのように、俺は君をきつく抱きしめる。
お願い、今は何も言わないで俺の好きにさせて……ちゃんとこの手を離すから、君を自由にしてあげるから今は俺の好きにさせて。
俺があえてこの時期に退学届けを出した理由は……一生君には言わない……
こんにちは、山口維音です。この作品を読んで下さりありがとうございます。とうとう退学届けを出して、後は復讐と別れを控えるだけです。